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zoom RSS 旅 738 天石門別神社(2)

<<   作成日時 : 2018/01/13 09:56   >>

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2016年 8月21日
天石門別神社(2)

頂いた「天石門別神社(別名 滝の宮) 沿革のあらまし」より
『 美作三宮 天石門別神社
御社名 天石門別神社 御鎮座以来御社名の変更されたことはない。
鎮座地 岡山県美作市滝宮89番地

 御鎮座以来、鎮座地の異動された事実はない。但し、鎮座地の呼称は種々異ったものがあった。即ち、古代大化の頃 英多(あがた)の地方 和名鈔による 英多郡河会(あかい)郷、鎌倉・室町時代、河会庄宮地村、旧幕時代、作州宮地村、町村合併まで岡山県英田郡河会村滝宮字滝宮89番地。
 祭神は天手力男神、社伝によると御鎮座は約2,000年余りまえといわれている。その年月日は不詳だが、財田氏家系図の端文によると第10代崇神天皇の御代に四道将軍大吉備津彦命が中国地方鎮撫の為西下された際、当神社の祭神、天手力男神の神教と神助により、いち早く其の目的を達せられたので、御礼の為当神社の神地を選び、御自ら祭主となられ鎮斎さられた古社と伝えられている。
 皇室崇敬の事実としては、清和天皇、貞観5年5月(863年)従5位下より従5位上に神階を昇叙さられ(三代実録所載)、つづいて醍醐天皇、延喜式の御制定に際しては、その当初に延喜式内の官社として全国3,132社の中に加えられ春秋の月並大祭は国費を以って執行せられたことが正史に明らか(延喜式)。
 武将の崇敬では嘉元3年(1305年)地頭、平重継によって社殿が再建され、降って明応8年8月15日(1499年)渋谷兵衛尉平国綱、神田を寄進(寄進状現存)。
 元禄10年2月(1697年)津山城主森長俊、本殿を再建(現在の本殿)、享保15年以降毎年9月大祭に領主土岐氏代参者を派して祭事を執行された。
 嘉永5年5月領主土岐頼寧、御屋根葺替並に国土安穏祈願の為、御印を寄進等があり、庶民もまた開運招福の守護神として、或は祈雨に顕著なる霊験があるため 右より今日に至るまで遠近を問わず神前に額づいて神助を仰ぐもの跡を絶たず。
 名士の崇敬では明治43年衆議院議員 福井三郎氏のあっせんにより、当時の内閣総理大臣 桂公爵を始め諸名士より数々の資材が寄進された。
明治6年美作国第18区郷社に、つづいて明治13年県社に昇格し終戦に至った。
元禄10年2月、津山城主森長俊公によって再建された社殿のうち本殿のみは当時のままであり、幣殿・拝殿等は明治6年郷社と御冶定の際すべて改築した。但し、本殿横の八幡社は元禄以前の古建築である。明治6年改築された幣殿及び拝殿等も県営河会ダム建設により水没の憂を生じたので、敷地を量上げして本殿を始め他の施設を共に移築・改築・移転等の大工事を行い、昭和52年3月に完成したものである。
 磐座は古代に於ける祭場の跡として代表的(2,000年以上経っている)。
 狛犬は(阿形の狛犬、吽形の狛犬)作者・年代とも不詳であるが、伝えられるところの渋谷国綱の寄進によるものと言われている。約480年(室町時代)前のものである。
 琴弾きの滝、滝は二段になっていて上の滝が雄滝、下が雌滝で古くから知られている名瀑である。
 木製棟木鬼板、作者と製作年代は詳でないが、社伝によると元禄10年2月、津山城主森氏が本殿再建の際、旧社殿の貴重な遺物として永年保存するよう命じた由である。特に16葉の菊花の紋章が神社の格式の高かったことを有力に物語っている。
 八幡神社、祭神 誉田別尊(応神天皇)、配祀 仲哀天皇、神功皇后、摂社として御本殿に次いで奉祀総神社とも言われる。古く河会郷中の八神社を合祭し、八社様とも言われていた。八社とは、福本神社(旧名 賀茂大明神)、大栄神社、奥神社、三保神社(旧名 矢野原宮)、磐渕神社(別名 木の宮)、上山神社、威剱神社、横尾神社。
 以上、社伝および故宮司 中川克己氏詳録抜粋による。

神社所有面積
境内地  22,258u
原野  485u
山林  1 9,434u
保安林 171,817u

祭事と行事予定
4月29日(祭) 春祭 併敬老祭(長寿65才以上) 還暦祭61才
5月第4日曜日 みたて神社祭(戦没者慰霊祭)
8月16日〜22日の土曜日 
 人形に名前を書いて罪・けがれを拭い、無病息災を祈る神事。八さく踊り、くじ引き等行う。
9月23日(祭)  神なめ祭、氏子研修旅行
10月第4日曜日 秋祭、神輿2基、子供神輿1基、花2組
11月15日  7・5.・3祭 15日を中心又は日曜日を含む3日間
11月23日(祭)  新なめ祭
1月1日(祭)  歳旦祭 3日まで3日間 新年祭
1月15日 トンド祭 (14日下ろしたお飾り、書初めを9時頃持ち寄り焼く。) 神酒およびそば、ぜんざい食べ放題  』



 本殿の後ろで少し下がったところに、元の社殿跡と古代祭祀の遺跡「磐境(いわくら)」があった。すぐ横には琴弾の滝からの川が流れる。
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 昭和43年(1968)9月に、附近に県営河会ダム建設計画がもち上がり、水没の憂を生じたので、昭和51年(1976)1月に社地を嵩上げして、現在の場所へ社殿を遷座させた。参道を延長して、その参入口に鳥居と社標碑を建立し昭和52年3月に完成したという。

 私は県道46号線を南下し、トンネルの前で左折して参道へ入ったが、その入り口にあった鳥居がダム建設に伴い建立された鳥居のようだ。この県営ダムは滝宮ダムと呼ばれている。
 参道の付け替えがあり、社地を7.3m嵩上げしとはいえ、ダム建設の計画によっては水没は避けられるものではない。初めからこのダムの建設は当社の水没を避ける形で計画されたのだろう。なぜなら、この神社のメインは社殿ではなく古代祭祀の遺跡「磐境」や琴弾の滝であったと考えられるからだ。

 「磐境」の横には、「英田町指定文化財 磐座」と書かれた柱が立っていた。英田郡英田町(あいだちょう)は、2005年(平成17年)に英田郡美作町・作東町・大原町・東粟倉村、勝田郡勝田町との合併により美作市となり廃止された。

 この磐座遺跡は、吉備津彦尊が自ら当地に天手力男神を祀った祭祀跡とされるが、「猟師塚」とも呼ばれ、天石門別神を当地へ案内した猟師の塚であるとも伝承される。
 この直径約2m、高さ約1.5mの、お腕を伏せたような形に石を積んだ“猟師塚”と呼ばれるものが古代祭祀の遺跡であろうか。

 この塚は牛の神様としてお祀りした時期があったという。この塚の上に座って弁当を食べた人達が、帰ってから皆お腹が痛くなることが続いたそうで、何故かと老人に尋ねたら、「最初に吉備津彦命を祀った所だから。」と言われたという話が伝わる。また、邪魔になるからと斧で叩いて割ろうとしたら、山からゴッーと音がして怖くなり壊さなかったという話が伝わることから、初めから信仰の対象として崇められていたわけではないようだ。

 当社の神主が二人が、ともに吉備津彦命が岩の上に降りてこられた夢を見て、隠さなくてはと岩を囲ったのが今の磐座遺跡だとも言われる。その神主の名前が記録されていた年代から察すると、岩を囲ったのは今から約400年前ではないか考えられている。


 川沿いの小径を奥へ進むと、琴弾の滝があった。
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 落差13mの琴弾の滝は、二段からなり、上の滝を雄滝(おんたき)、下を雌滝(めんたき)と呼び、古くから知られている名瀑だという。秋の紅葉の頃は多くの参拝者があるという。
 “琴弾の滝”とは美しい名だが、古くは“十丁の滝”とか“早滝”とか呼ばれたようだ。琴弾の滝と呼ばれるようになったのは、この滝神が弁財天とでも習合した時期があったのだろうか。

 天石門別神社は『延喜式神名帳』にある「天石門別神社(美作国・英多郡)」に比定される式内社(小社)で、美作国三宮ともされる。近代社格では県社にまで昇格した。
 しかし、江戸時代は「滝宮神社」と呼ばれ、祈雨に顕著な霊験がある神社として知られた。地元の人は、今でもこの神社を“滝の宮さま”“お滝さん”と通称で呼んでいるそうだ。
 これらのことから考えられるのは、当社は本来「琴弾の滝」の神を祀った神社であったということだ。その神が現在どこで祀られているか分からないが、名から推測すると末社殿に祀られる早滝神社に降格祭祀されているのではないだろうか。そしてその神名はズバリ瀬織津姫ではないかと考える。そのことについては後で述べる。



 参拝を済ませて、駐車場へ戻る途中で、境内社である「御楯神社」に寄った。
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 少し山側に上ったところにあるこの神社は、参拝する人もなく荒れ果てた感じがした。
 説明板もなく御楯神社の祭神は分からないが、もしかしたらここに祀られていたのが天手力男神だったのかもしれない。それは天石門別神社についてネットで次の記事を見つけたからである。
『 本社の創建は第10代崇神天皇の御代であるという。四道将軍の大吉備津彦命が弟の若建吉備津彦命と共に吉備国の平定に向った砌、播磨国の氷河(現在の加古川)で天神地祇を祭祀されたとき天手力男神が顯現され、「敵の潜むところには黒雲となつて豪雨を降らせ、また磐楯となつて護衛しよう」と約束せられた。
 この後、この神の加護によつて吉備国は平定されたので、大吉備津彦命は奉謝の意をもつて手力男神の宮地を求められ、この地に社を創建された。 』

 この記事の“黒雲となつて豪雨を降らせ”と“磐楯となつて護衛しよう”が注目される。
 御楯神社はこの“磐楯”としての神格を祀ったものかもしれない。また、“黒雲となつて豪雨を降らせ”から天手力男神は龍神としての神格も備えていたのかもしれない。天手力男神の神名も或いは岩をも割き、磐をも穿つ、流れ落ちる瀑布の流水の力を神格化して名にしたのが本来であったのかもしれない。何れにしても天岩戸を抉じ(こじ)開けた天手力男神は岩と関係のある神であるようだ。

 御楯神社から裏山に上る道があったので、少し登ってみた。この山は、古代祭祀の遺跡「磐境」の裏山でもある。

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 裏山には大きな磐がいくつもあり、本来の磐座祭祀に相応しい場所であった。


 記紀神話での天手力男神は、岩戸隠れの際に岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、アマテラスを引きずり出した神で、それにより世界に明るさが戻ったとされる。
 また、天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器に思金神、手力男神、天石別神を副えたとあり、その後伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座したとされる。
 このことから、本来は、天手力男神=天石別神ではない。天石門別神社では、天手力男神=天石門別神として祀っているが、この天石門別神とは天石別神のことで天手力男神ではないように思う。

 天手力男神は各地で祀られているが、三重県多気郡多気町仁田に鎮座する佐那神社に曙立王命と共に祀られているのが注目される。また、三重県多気郡多気町神坂には天台宗の古刹・金剛座寺があるが、寺のある金剛山が天手力男神の神体山とされる。

 長野市の戸隠神社の奥社に天手力男神が祀られることから、私にとって天手力男神は身近な神であるが、山岳仏教(修験道)が信仰した神の一柱であるという認識である。おそらく天手力男神の伝承は山岳仏教者が持ち伝えたものであろう。そして私は、古くは冶金氏族と関係した神であった可能性があるのではないかと考えている。

 天手力男神は神話に於いてアマテラスとの縁を深くしている。そのため、説明板に「伊勢参拝を志す者は遠近を問わず、先ず当神前に額づきて道中の安全を祈りて後出発し、帰途には絵馬を求めてこれを社前に献じ以つて報賽の誠を至せり。現に絵馬殿に掲ぐるものの中大なるは概ね参宮の礼参に係るものにして当神社の交通安全祈願祭の基なりとす。」とあるように、神宮との関係が深かったようだ。
 しかし、古代に於いて吉備国の人々が伊勢のアマテラスをどう捉えていたかは、はっきりしない。それは当社が“滝の宮”として滝の神(水神)を祀っていたからである。

 伊勢神宮内宮には別宮として荒祭宮が祀られ、この荒祭宮は地主神として内宮の祭祀よりも古いといわれる。この荒祭宮に天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)として祀られているのが瀬織津姫である。瀬織津姫は各地で滝の神(水神)として祀られている。また“桜の神”や“月の神”のとしての神格も付与されている。

 天石門別神社は別名「滝の宮」と呼ばれ、後方にある滝を御神体としたと考えられることから、また天手力男神を媒体として伊勢と繋がることからも、当社の本来の祭神は瀬織津姫であった可能性が大きい。私は当社が伊勢神宮との関係を深めたのは、天手力男神を媒介としてではなく、本来の祭神が瀬織津姫であったからこそだと考える。

 瀬織津姫を消すことやアマテラスに置き換える中央の祭祀方針に協力したのは、真言宗や天台宗の密教を奉じた者たちであり、それは山岳仏教(山岳信仰)と習合した。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)はいずれも留学僧として国費で唐に渡ったと考えてよい。彼らは朝廷の祭祀方針の下で活動した。そして彼らのほとんどは渡来人の末裔である。


 天石門別神社や滝宮ダムがある十丁谷は、中世には河会(かわい)庄といい、鹿児島入来院の渋谷氏が地頭だった。
 説明板には、「鎌倉期当地の地頭渋谷氏或は社殿を改め奉り或は神田神具祭器等を献納せること古書に明かなり」とある。
 その後、「天正18年(1591)備前長船紀伊守貞行当地を所行するや未曾有の暴行を以つて神田を始め社有資産のすベてを没収す」とある。
 「慶長8年(1603)森忠政津山城に入るや厚く当社を敬仰し年々社領五十石を奠納その裔伯耆守長俊元禄四年(1691)本殿改築の工を起し……」とあるように、当社が栄えたのは江戸時代になってからのようだ。
 戦国時代が終わり江戸時代に入ると、国も安定し旅も比較的安全にできるようになった。領主たちは領国の旧跡や名勝を喧伝し、領国の自慢にした。その中に霊場なども含まれたようで、古社や古刹は保護されたようだ。伊勢参りなども盛んになり、当社もその恩恵を受けたのであろう。


 天石門別神社の周辺は山岳仏教が盛んであったようだ。
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 東の八塔寺山山麓に八塔寺があるが、天台宗の古刹で本尊の十一面観音は行基作と伝わる。伝承では728年に聖武天皇より聖勅を受けた弓削道鏡法印の開山により創建され、この頃山王宮も建立されたという。
 この八塔寺山周辺は1200年前に山岳仏教が栄えた地で、当時は72の僧坊があったとされる。

 また、西の真木山の山頂には三重塔があったが、今は西麓の長福寺に移転されている。この後、長福寺を訪れる予定だから楽しみである。

 このように山岳仏教が栄えた谷にある滝の前に鎮座する天石門別神社に、祭神として天手力男神が祀られていることに注意する必要がありそうだ。


 祈雨に顕著な霊験があるといわれる“滝の宮”は、説明板に「殊に夏季旱天に至れば必ず参拝して雨を祈るを例とす」とあった。その滝の宮の下流に農業用水用の滝宮ダムが建設され、その周辺には多くの桜が植栽され、桜の名所として親しまれていることを考えたとき、私はそこに瀬織津姫の霊験を感じないわけにはいかない。



休題
 年が明け、今年は早く4日にテニスの初打ちを済ませた。6日には現役時代の仲間と新年会をしたが、過去の話題が中心で病気などの話も出て、あまり楽しくなかったので来年は参加するのをやめようかと考えた。

 次の7日にベッドで寝ながら本を読んでいると、右耳に突然違和感を感じた。高所に上ったとき空気圧の関係で耳がボーッとしたような感じだ。違和感を感じるようになった瞬間にカサッという音がしたようだったので耳糞でもとれたのかと思って、耳かきを使ったがよくならない。今も症状は少しよくなりながらも続いている。聴力はそれほど落ちていないようだが心配だ。
 相変わらず背中の凝りのような軽い痛みも、軽くなったり少し増したりして続いている。健康に不安を感じる年明けとなった。

 今日は13日で、正月気分も抜けてはきたが、まだペースがつかめない。関東では松の内は7日までのようだが、長野では以前には成人式があった15日頃までだったような気がする。どうやら江戸時代に幕府が松の内は7日までにするようにとのお触れを出したが、地方にまでは広まらなかったようだ。

 「天石門別神社 沿革のあらまし」の祭事と行事予定にも、
 「 1月15日 トンド祭 (14日下ろしたお飾り、書初めを9時頃持ち寄り焼く。) 神酒およびそば、ぜんざい食べ放題 」 とあったが、どんど焼きが終わるまでは松の内である地方が多いようだ。
 私の住む長沢の海岸の砂浜に作られたどんど焼きに火が付けられるのもこの週末のようだ。
 昔はこのどんど焼きで焼いた餅を食べると、一年無病息災で過ごせると言われたが、今でも餅が焼かれるのだろうか。
 私の育った村では、道祖神の前でどんど焼きが行われ、その火の中にコインを投げ入れ、次の日に灰の中から焼けたコインを見つけて持っていると、お金が貯まるといわれた。

 どんど焼きも含め伝統行事は廃れる傾向がある。伝統行事や伝統芸能が継承されるためには、それを担う若者たちが必要だが、過疎化や少子化はどこの地方でも進んでおり、これらの継承が危ぶまれている地域が多いようだ。日本の風土から日本らしさが消えていくようで寂しい限りである。

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