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zoom RSS 旅 739 長福寺

<<   作成日時 : 2018/01/14 09:12   >>

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2016年 8月21日
長福寺

 天石門別神社から河会川に沿って県道90号線を西に走り、途中で右折して美作市真神にある長福寺にやってきた。この寺にある三重塔(重文)は、岡山県内重文のなかで最古の木造建築とされる。

 長福寺(ちょうふくじ)は岡山県美作市にある真言宗御室派の寺院で山号は真木山。本尊は十一面観音(重文)。正式名は真木山 般若院 長福寺と号する。
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 山門は一間一戸の鐘楼門である。門へは池にかかる橋を渡るが、池の中には弁天堂があった。
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 「千早の滝 400m」の表示があったので、最後に行ってみようと思ったが、三重塔を見学している間にすっかり忘れてしまって行かなかった。

現地説明板より
『 長福寺の文化財
 当寺は奈良時代の天平宝字元年(757)女帝孝謙天皇の勅願により、唐の鑑真和上が真木山頂に開基し、弘安8年(1285)になり天台宗の円源上人が中興した。
 明徳年間(1390年頃)に真言宗の寺となり、山上に65坊が建ち並び隆盛を極めていたが、享保16年(1731)寺領を30石に減らされたため、僧房を22ヵ寺に合併した。
 その後、明治維新で4ヵ寺となり、明治9年奥の院の長福寺ただ1ヵ寺となった。
 大正14年(1925)焼失し、昭和3年(1928)現在地に移転した。所蔵の国指定重要文化財は次の通りである。

十一面観音立像  明治34年指定
 長福寺の本尊で像高2.58m、檜の寄せ木造り、風貌は豪放で平安時代初期行基の作と伝えられている。

三重塔  大正10年指定
 3間4面、こけら葺、棟札には鎌倉中期弘安8年(1285)の再建と記され、県下最古の木造建築である。全体の均衡がよく、細部も雄大堅実でよく鎌倉時代の特色を示している。
 昭和26年解体し山上より現地に修理移築した。総高22.07mである。

十二天像図  12幅  明治34年指定
 縦1.10m、横0.37mの絹本著色画が、帝釈、水、焔摩、毘沙門、伊舎那、風、羅刹、火、梵、地、日、月の十二天からなり、南北朝時代増吽の作と伝えられている。 

両界曼荼羅図  2幅  明治34年指定
 縦1.65m、横1.25mの絹本著色画で胎蔵界、金剛界の二幅からなり室町時代、梅岡備後守の作である。

不動明王像図  1幅  明治34年指定
 縦1.34m、横0.74mの絹本著色画で、平安時代の春日基光の作と伝えられている。

 昭和55年3月  平成27年6月改
 真木山長福寺  美作市教育委員会  』

 説明板の「従」を「縦」に変えて掲載した。もし間違いであれば訂正した方がいいと思うが、美作市教育委員会が平成27年6月改としたものだから、「従」でよいのかもしれない。

 本尊の十一面観音立像(重文)は、寺伝に行基作と伝えられるが、実際は鎌倉時代末期から室町時代の作で、作者は不明だとされる。
 私は仏像にはそれほど興味はないが、十一面観音だけは興味がある。258cmある十一面観音立像(重文)を見てみたかったが、アポなしということもあり初めから諦めてしまった。
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現地説明板より
『 真木山郷土自然保護地域
 この地域は、郷土のすぐれた自然を保護するため、岡山県自然保護条例に基づき指定された地域です。
1 位置  英田郡英田町大字真神
2 面積  163.5 ha(特別保護地区2.2 ha)
3 指定年月日  昭和54年(1979年)3月31日
4 特徴
 真木山は、仏法有縁の地として奈良時代から栄えたところで、頂上付近には鑑真和尚が開基したと伝えられる中世の大規模な寺院跡や石仏、三重塔の基石などが散在し、当時の隆盛を偲ばせるものがあります。
 一帯は、大部分がアカマツ林ですが、谷沿いの斜面にはアラカシ、シイノキ、ヤブツバキ、アカガシなどの常緑広葉樹の群落やウリハダカエデ、タムシバ、コシアブラ、ケヤキなどの落葉広葉樹林が生育しており、これらの樹林と小渓流、千早の滝と呼ばれる小さな滝などが調和して豊かな自然を形づくっています。
 また、これらの自然は三重の塔とともに山ろくに移された長福寺と一体になって歴史をしのばせる郷土景観を維持しています。
5 行為の制限
◇ 特別保護地区内で、土地の形質変更、土石の採取、木竹の伐採、工作物の設置等を行うときは許可が必要です。
◇ その他の地域内での行為は、届出が必要です。
 貴重な自然の保護にご協力をお願いします。 岡山県  』

 英田郡英田町は2005年(平成17年)に英田郡美作町・作東町・大原町・東粟倉村、勝田郡勝田町との合併により美作市となり廃止されたので、この説明板は10年以上古い。



 天気がよかったので、三重塔の朱の色が鮮やか過ぎるぐらいだった。この三重塔は昨年の6月(平成27年6月)に、杮葺きの屋根の葺き替えが行われたというので、そのとき塗り替えられたのかもしれない。
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 このあまりにも新しく見える三重塔を見学しながら、岡山県内重文のなかで最古の木造建築とされることに違和感を感じながらも、何となく豊かな気持ちに包まれた。

 この高さ22m余りの三重塔は真木山の山頂にあったという。棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって建立されたことがわかった。
 その後、寛永年間(1624〜1643)、文政6年(1823)に大修理が行われた記録があり、明治末期にも部分的修理が行われている。
 大正10年(1921)4月30日、古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定された。(旧国宝に指定された)

 真木山頂の古代寺院は、弘安8年(1285)になり天台宗の円源上人が中興した。その時にこの三重塔も建立されたということになる。
 1390年頃に真言宗の寺となったが、それまでは天台宗と真言宗に宗派が頻繁に入れ替わったという。何れにしても密教寺院であったのだろう。
 明徳年間(1390〜1394)には山上に65坊が建ち並び隆盛を極めていたという。
 しかし、江戸時代の享保16年(1731)寺領を30石に減らされ22坊に縮小した。文政年間(1818〜1829)になると女人禁制も解かれ女性も登山できるようになったが凋落は止まらなかったようだ。。
 明治維新で4ヵ寺となり、明治9年には奥の院の長福寺ただ1ヵ寺となった。
 長福寺も大正14年(1925)焼失し、昭和3年(1928)現在地に移転したが、実際には真木山頂では寺として成り立たなかったのであろう。焼失を機に西山麓に移ったのは、こちら側が開けていたからということもあろう。
 長福寺は当時国宝だった三重塔を残して、山を下りてしまったのだ。普通なら国宝のある山上に寺を再建するのが筋であろう。それから20年余り国宝の三重塔は見捨てられたような状態が続いたようで、かなり荒廃したようだ。

 戦後、昭和25年(1950)になり、この三重塔は文化財保護法の施行により重要文化財となった。私はいくつかの寺で旧国宝といわれる仏像を見たが、それらはみな昭和25年に重文に指定されたものであった。昭和25年の文化財保護法によって国宝はかなり絞り込まれた。

 重文に指定された三重塔を、このままにしてはおけない。翌年の昭和26年(1951)三重塔は真木山上から現在地に移築された。解体、移築であるから、使えない部材などがかなり替えられたようだ。その後、昭和55年(1980)にも大規模な保存修理が行われた。


 岡山県の重要文化財を調べていたら、紀田順一郎さんの『吉備悠久』というページに出会い、そこの長福寺の三重塔(重文)の説明が秀逸だったのでリンクを張ると同時に、一部を掲載させて頂く。

『 岡山県美作市真神にある長福寺の三重塔は、鎌倉中期の弘安8年(1285)に、叡山の高僧円源上人によって建造されたもので、県下最古である。もともと現在地の東にある海抜約400mの真木山上にあった。古代のこの地方は鉄の生産で栄えたらしく、十丁谷の上流には大きな神社もあった。中世には渋谷氏一族のような有力な武士団が勢力を張っており、寺院の基盤をなしていたようだ。このような恵まれた背景は、江戸時代も後期になると少しづつ変化していく。
 険しい山の上では参詣者も集まりにくい。防災上も危険である。現代風にいえば、メンテナンスに困難を感じるようになってきたのだ。当時、といっても1812年(文化9年)の頃、真木山全域でも僧侶が3人、住民は男女8人づつしかいなかった。明治維新には寺領さえ失われた。1921年(大正10年)になって旧国宝に指定されたのも、かえって負担だったにちがいない。
 7年後、勤行維持に限界を感じた寺は、三重塔を残して山をくだり、現在地へと移転してしまうのである。
 第二次大戦をはさむ約20年間、土地の人々はあたら国宝を朽ちるにまかせるほかなかったが、戦後4年目にようやく国庫補助金の交付を受け、解体のうえ山麓に移築し、同時に修理が行われた。破損は想像以上にひどかった。屋根は支柱によって辛くも支えられ、こけら葺は腐ってはがれ落ち、内部にはひどい雨漏りを生じ、天井や床板は虫に食われていた。これでよく立っていたというのが実感である。中から再使用が可能な部品をよりわけ、新たな材料と組み合わせるのが大変だったという。
 工期22ヶ月、費用は457万4千円というから、かりに現在の物価が当時の50倍としても、2億円は下らない。
 竣工の日、仮設工事用のシートが取り除かれたときの、人々の驚きと喜びは、いかほどであったろうか。屋根の弧線が春の山を背景に、優美にはね上がり、見上げの軒の大きさ、深さに包みこまれた心は、たちまち朱色の荘厳な瀑布を浴びるような気持ちになる。

 長福寺の三重塔には、構造上めずらしい点が一つある。元来、仏塔においては心柱(中心の大黒柱)を土台からしっかり立ち上げる掘立柱としていたのだが、それでは初重(一階)に仏像を安置するスペースが制約されるというわけで、心柱を初重の天井に立てることにした。これでも力学上はだいじょうぶなことがわかってきたのだろうが、長福寺の塔はこの方式をとりながらも、なお心柱を土台から立ち上げているように見せるため、初重の床の中央に見せかけの柱を設けているのである。いわば「見せかけの心柱」で、なぜそうしたのかわからないが、おそらく安定感を強調したものだろうか。
 安定といえば、三重塔、五重塔は一般に軸部や屋根、組物などをゆるやかに接合させた柔構造になっているので、地震にはすこぶる強い。
 現代の60m以上の高層建築が、柔構造を採用しているのは、仏塔の知恵に学んだためである。一つの建造物が数百年もつ条件として、技術の力も見逃すことはできない。地震災害の少ないといわれる吉備地方ではあるが、長い歳月のあいだに絶無であったとはいえまい。
 このような、もろもろの要素を頭におき、もう一度塔を仰ぎながら、古来の人々がなにを求めてきたのかを想像してみた。
 塔の目的は軍事と信仰に分けられるし、なかには権力の誇示もあるが、周知のように日本の仏塔は形式としても独自のものである。まず内部に入ることはできない。少なくとも二重以上に登ることはできない。ということは、あくまで仰ぎみるべきものであり、聖なる風土の重要な美的象徴とみるべきものであろう。それはおそらく人々に、安らかに心さだまるという思いを与え続けることを、第一の目的としてきたものではなかろうか。仏塔のある風景が、私たちの心の琴線にふれるのは、そのためだ。

 長福寺の三重塔は1950年(昭和25年)、文化財保護法の施行にともない、重要文化財となった。この塔の建造を記録した棟札が、どうしたことか失われていて、そのことが国宝になるのを妨げているという説もある。いずれにせよ、この塔は悠久な吉備の歴史絵巻の中でキラリと光る、大粒の宝といえよう。 』


 三重塔のすぐ後ろに真木山鎮守堂(山王権現堂)が建っていた。この鎮守堂も昭和26年(1951)に三重塔と一緒に現在地に解体・移築されたもののようだが、その後の修築を受けているのか、新しく見える。
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 山王権現堂と呼ばれることから、天台宗の時期に勧請されたものであろう。

 伊豆の修禅寺は現在は曹洞宗の寺院であるが、弘法大師により開かれたということでかつては真言宗だったが臨済宗を経て曹洞宗になったと伝わる。しかし、鬼門の位置に日枝神社があり、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であったとされるので、天台宗の時期もあったのではないかと察せられる。真言宗(東密)と天台宗(台密)はライバルであるが近い関係にもあったようだ。


 真木山頂の古代寺院を弘安8年(1285)に中興したのは、叡山の高僧円源上人だとされる。その頃の山頂の寺院は比叡山延暦寺と同様に多くの僧兵を抱えていたという。
 それ以前のことを寺伝では、天平宝字元年(757)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという。『東作誌』のような近世の地誌にも同様の伝承を載せるが、どこまで史実を反映したものかは定かでなく、その後中世までの沿革も明確でないという。

 私は長福寺を訪れる直前、天石門別神社を参拝したが、そこで記したことを引用する。
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「 天石門別神社の東の八塔寺山山麓に八塔寺があるが、天台宗の古刹で本尊の十一面観音は行基作と伝わる。伝承では728年に聖武天皇より聖勅を受けた弓削道鏡法印の開山により創建され、この頃山王宮も建立されたという。
 この八塔寺山周辺は1200年前に山岳仏教が栄えた地で、当時は72の僧坊があったとされる。
 また、西の真木山の山頂には三重塔があったが、今は西麓の長福寺に移転されている。 」

 このように天石門別神社の東の八塔寺には弓削道鏡の名が現れ、西の長福寺には孝謙天皇の名が現れる。そして孝謙天皇は重祚して称徳天皇となり道鏡事件を起こす。
 称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。
 そして、道鏡事件で活躍するのは和気清麻呂であり、吉備真備を右大臣に抜擢したのも称徳天皇である。つまり、孝謙天皇(称徳天皇)の時代に、吉備を代表する和気清麻呂や吉備真備が中央に進出しているのだから、奈良時代に山岳仏教がこの地で栄えていたとしても不思議ではないのだ。あながち寺伝による天平宝字元年(757)の開基も伝説ばかりとは言えない。
 何れにしても、奈良時代の山岳仏教が真言宗や天台宗の密教に引き継がれたことは確かであろう。
 それにしても、真木山の山頂に資材を運び、三重塔や寺院群を建てるのは大変なことだっただろう。もっとも私は中国山地の北に位置する鳥取県東伯郡三朝町にある三佛寺の投入堂(国宝)を見ているので、滅多なことでは驚かない。


 長福寺の西を河会川が流れる。河会川は福本で吉野川に合流する。吉野川は福本から3〜4kmほど下流で吉井川に合流する。この吉井川は鉄道や道路が完備されるまで物流の中心で通舟で賑わった。吉井川から吉野川まで高瀬舟が上がってきていた。
 吉井川の通舟の歴史は古い。赤松氏が備前・美作・播磨三国の守護になった時からという説がある。慶長9年(1604)、角倉了以が和気川(今の吉井川)の高瀬舟を見て、保津川や富士川・天竜川に高瀬舟をひらく手本としたことは、林羅山が京都嵐山大悲閣の碑文に書いたことで有名だ。

 長福寺から河会川に沿って東へ10kmばかりの谷は十丁谷と呼ばれ、その谷の奥には滝の宮と呼ばれる天石門別神社が鎮座する。天石門別神社はその後方にある琴弾の滝(十丁滝、早滝)を御神体としたようだ。私はこの神社の本来の祭神を瀬織津姫ではないかと推測した。
 『東作誌』に、「真木山坊主の茶を簸(あふ)る様なというもまたこの山の坊舎にて茶を製するようならん」とあって、十丁谷の製茶は長福寺とともに古く、美作町海田と並んで江戸中期すでにこの地方では有名であったという。
 谷の出口である福本は高瀬舟の港でもあった。嘉祥3年(850)、英多郡の郡司が英多川で白亀を見つけて、朝廷に献上し庸を免ぜられたというのは、この辺りのことではないかといわれる。


 美作三湯とは、湯原温泉、奥津温泉、湯郷温泉を指すが、湯原温泉、奥津温泉が鳥取県に近い中国山地の南麓にあるのに対して、湯郷温泉は吉野川沿いにある。
 湯郷温泉の辺りは、古くは「塩湯郷」と呼ばれた。この温泉は“鷺の湯”ともいわれたが、それは円仁が諸国行脚の途中に立ち寄り、白鷺が羽を休めているのを見て、温泉の湧き出るのを発見したからだという。
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 湯郷温泉から吉野川を遡れば林野に着く。吉野川と梶並川が合流する要衝である林野は、中世の林野保、戦国末期からは倉敷といった。津山築城の時も、西の久世の町と共に農村の物資の流通の中心として、商人は城下への移住を免れ、高瀬舟の基地ともなって土蔵の建ち並ぶ文字通りの倉敷だった。舟運の発展とともにあった倉敷(林野)の市街地の形成は、津山城主森氏の東部作州における拠点として家臣森妥女(うぬめ)が屋敷を構えた頃からだとされる。

 明治22年(1889)、町村制が施行され、窪屋郡倉敷村(現・倉敷市)とともに、英田郡倉敷村(現・林野)が発足した。
 その後、窪屋郡倉敷村は紡績工場などが造られ近代化が進んだが、英田郡倉敷村はそれほど発展しなかった。岡山県内に2つの「倉敷」があったが、その知名度に差ができると問題も生じた。今と違い郵便番号による機械分別などなかった時代、郵便や荷物の誤配が頻発し美作倉敷(現・林野)宛に送ったはずの郵便物の4分1ぐらいが備中倉敷(現・倉敷市)に送られてしまったという。
 ついに、大正7年(1918)、美作倉敷では当時の町長が旧郷名に由来する林野町に改名し、「倉敷」の名は名実ともに備中倉敷(現・倉敷市)のものになった。
 正に江戸中期の新田開発の頃からの傾向である「南厚北薄」が更に加速され地域差が開いた象徴ともなった。
 
 今でも岡山県は県南と県北では県民性が違うという。商品貨幣経済の波にもまれ、悪評高い“こざかしさ”“ずるかしこさ”を身につけたのは県南で、県北はまだ古いもののよさを失わず、“誠実さ”“剛健の気風”を持ち伝えているという。
 誤解無いように言っておくが、このように聞いたのは岡山県民からであり、私はそれほど岡山県民のことをよく知らない。私は今までに2人ほど岡山県の人と仕事をしたことがあるが、いずれも県南の人だったように感じた。


 話が少し脱線したので、長福寺に戻る。

 湯郷温泉に円仁の伝説があるように、この地域は天台宗の影響下にあった時期があるのだろう。私は東北の旅で、円仁の弟子たちが神仏習合を利用して仏の蔭に地主神を隠した跡をいくつも目にした。ここでもそのようなことが行われたのではないだろうか。

 長福寺の祭礼として、毎年1月15日に虚空蔵大祭があるという。“十三まいり”とも呼ばれ、子供の厄払いと知業成就を願う祭礼である。
 本来は、13歳の童子や童女が虚空蔵菩薩に幸福と知恵を授かり、あわせて厄払いと知業成就を願う行事である。
 現在では拡大解釈され、子どもから大人まで進学成就、交通安全、家内安全に御利益があるといわれ、当日は福引、護摩焚きも行われ、甘酒の無料サービス、うどんなどの売店も出店されるという。

 虚空蔵菩薩は胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の主尊であり、密教でも重視される。現在、虚空蔵菩薩と地蔵菩薩が対で祀られることはないが、初期に於いては虚空蔵菩薩と地蔵菩薩は対になっていたと考えられている。今となっては両菩薩に共通するのは「蔵」だけである。
 虚空蔵菩薩が胎蔵曼荼羅と関係するのであれば、地蔵菩薩は金剛界曼荼羅と関係するのであろうか。
 大日如来は真言密教の教主である仏であり、密教の本尊とされる。日本密教では、両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅)の主尊とされ、さらには虚空にあまねく存在するという真言密教の教主、「万物の慈母」、「万物を総該した無限宇宙の全一」とされる汎神論的な仏とされる。また、神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)と同一視もされる。

 何を言いたいのかというと、密教によって天照大神(大日孁貴)が大日如来と習合したとき、その和魂と荒魂が別けられ金剛界大日如来と胎蔵界大日如来になり、更にそれが地蔵菩薩と虚空蔵菩薩として祀られたようなのである。地蔵菩薩や虚空蔵菩薩は、地主神や地母神としての神格を備えているということである。

 私は、地蔵菩薩と虚空蔵菩薩をかつてペアで祀られた男女神の仮の姿ではないかと想像する。どちらが男神でどちらが女神かははっきりしないが、勝軍地蔵があることや地蔵がスサノオと神仏習合することがあるので、地蔵菩薩が男神だったのかもしれない。十一面観音は女性のように彫られたものが多いが、ひげの生えた十一面観音もあるので、仏の世界での性別はよく分からない。仏は中性であるのかもしれないが、人に似せて彫られたのであれば性別があるようにも思うのだが……。


 最後に行かなかった千早の滝の写真をネットから拝借して載せる。
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 千早(ちはや)の滝は、真木山から流れ出る清流が落差17mの滝となりったものだという。
 長福寺から約400mの場所にあることから、長福寺が真木山頂から移転するとき、千早の滝のことも念頭にあったのではないか。
 真木山北麓の尾谷には滝神社もあるというから、天石門別神社(滝の宮)も含めて、この地域には根強い滝神(水神)信仰があったのだろうと考える。そして、長福寺もそれと関わる寺であったのだろう。

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