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zoom RSS 旅 751 吉備津彦神社(2)

<<   作成日時 : 2018/02/07 20:13   >>

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2016年 8月22日
吉備津彦神社(2)

 社殿に向かって左側に回ってみた。こちら側には中山登山口があり、山頂への道がある。
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 温羅神社(うらじんじゃ)の祭神は、温羅属鬼之和魂(大吉備津彦命に討たれた鬼・温羅の和魂)とされる。
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 右側から十柱神社(とはしらじんじゃ)、牛馬神社、祖霊社と並ぶ。
 十柱神社の祭神は、吉備海部直祖、山田日芸丸、和田叔奈麿、針間字自可直、夜目山主、栗坂富玉臣、忍海直祖、片岡 健、八枝麿、夜見丸である。
 牛馬神社の祭神は保食神(うけもちのかみ)である。
 祖霊社には当社社家の祖霊を祀る。

 少し上に卜方神社(うらかたじんじゃ)があった。
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 卜方神社の祭神は、輝武命(池田氏の祖・信輝の霊)、火星照命之末社とあり、池田氏関係の神社のようだ。

 一番奥に稲荷神社があり、その横から吉備中山へ登れる。
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 稲荷神社の祭神は、倉稲魂命、素盞嗚尊、伊弉諾命とされる。朱に塗られていないのが好ましい。一般的に倉稲魂命は女神とされるが、素盞嗚尊、伊弉諾命という男神と共に祀られているこの倉稲魂命は男神なのかもしれない。



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 境内後方に聳える吉備の中山には多くの古墳や古代祭祀遺跡が残り、古くより神体山としての信仰がなされていたと考えられている。
 最高峰の北峰・竜王山(標高175m)山頂には吉備津彦神社の元宮磐座や末社の龍神社が鎮座し、中央の茶臼山(160m)山頂には大吉備津彦命の墓とされる中山茶臼山古墳が残っている。中山茶臼山古墳(墳丘長120mの前方後円墳)は、大吉備津彦命の墓として宮内庁治定墓とされている。

 龍神社の祭神は龍王神で、八大竜王とも言われる。元宮磐座があり古代に祭祀が行われていたとされる。
 他にも奥宮磐座や環状神籬がある。奥宮磐座には「八畳岩」ほかの磐座が残り、岩周辺の土中からは多くの土師器の破片が発掘された。

 中山を少し登ったところに藤原成親供養塔がある。成親は後白河法皇の寵臣で1177年(治承元年)、僧西光・僧俊寛らと鹿ヶ谷で平氏打倒を企てたが、事前に露見してこの地に流され惨殺されたという。かつてここに、成親の129回忌にあたる1305年(嘉元3年)に造られた在銘の美しい石造十三重供養塔があったというが、明治初年から所在が転々とし、今は神奈川県のある財閥の邸内(三渓園?)におさまっているそうだ。

 吉備津彦神社の創建は不詳とされるが、社伝では神功皇后の時代とか推古天皇の時代とかの創建とされる。
   初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾に大吉備津彦命が永住し、その屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとされる。
 大吉備津彦命は、崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したとされる。
 大化の改新を経て吉備国が、備前・備中・備後に分割されたのち、備前国一宮となったとされるが、異説もある。備前の吉備津彦神社と備後の吉備津神社は、備中の吉備津神社から勧請されたものだという説がある。
 
 延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが吉備津彦神社の記載はない。
 一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱(藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因するようだ。
 一方で吉備津彦神社の本宮にあたるとされる吉備津神社(備中国一宮)が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神威著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。吉備津彦神社の神威が高まったのは一宮となってからのようだ。


 『日本書紀』にみえる吉備豪族は、4〜5世紀頃彼らの全盛ぶりを後世に伝えるかのように、畿内の天皇陵に負けない巨大古墳を造った。その代表が造山古墳や作山古墳だが、彼らは製鉄や製塩・稲作を経済的基盤に紀伊水軍と匹敵する吉備水軍を組織して、畿内政権(大和朝廷)と比肩する吉備政権をつくり、吉備文化を育て上げたとみられる。
 その吉備豪族も5世紀後半には数々の反乱の記録を『日本書紀』にとどめながら、畿内政権に屈服して没落していったと考えられるが、まだまだ謎は解き明かされていない。

 大化の改新後に、吉備は備前・備中・備後・美作に分割された。古代豪族吉備氏の末裔たちは、律令制のなかに取り込まれていく。吉備斐太都・吉備真備・和気清麻呂のように、都に上って中央官人として活躍する者もあったが、多くの吉備豪族は地方にとどまり郡司の地位に甘んじていった。この間に、吉備の富は国司・郡司・里長のパイプを通して平城京の貴族のもとに吸い上げられた。
 吉備では賞田廃寺・幡多廃寺・関戸廃寺など多くの寺院跡があるが、これらの氏寺は吉備豪族たちが脱税を兼ねて造ったものだと考えられる。しかし、そこには聖武天皇が推し進める奈良仏教に追随するだけでなく、根本に渡来系氏族の仏教信仰があったように思われる。

 備作は平安時代になると、天台宗・真言宗が和気氏や秦氏の縁故で広まり、鎌倉新仏教の全盛期になっても微動だにしない密教王国を形成したが、それを育て上げたのは奈良時代の郡司の血を引く地方豪族だったと考えられる。もっとも、鎌倉新仏教を開いた法然や栄西は備作の出身であることを考えると、古くから仏教の素地ができあがっていたことが推測される。
 吉備では奈良仏教・平安仏教とすがたかたちを変えながらも、仏教が連綿と受け継がれてきた。また、平安時代には国司の神社信仰が盛んになり、各国の一宮などが栄えた。民衆の土俗信仰に配慮しないと、あるいは土俗信仰を政治に利用しないとまだまだ国を治めるのが難しい時代であった。


 吉備津彦神社は仏教と習合し、正宮、本宮、摂末社合わせて51社を具え神宮寺や法華堂も建ち、神威は広大無辺に広がり古代気比大神宮・大社吉備津宮とも称され朝廷直属の一品一宮、吉備大明神として武将庶民に至るまで厚く崇敬されたという。
 気比大神宮と名乗っていたことが注目される。

 仏教の影響力が強かったので、戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成に改宗を求められ、拒否したことから焼き討ちに遭い社殿を焼失した。
 松田氏は鎌倉時代、相模国から御野郡伊福郷(現・岡山市伊福町一帯)の地頭として来住したという。南北朝初期の松田盛朝・信重は北朝側に属して備前守護となっている。その後、山陰の山名氏の侵入にあって一時衰えたが、やがて播磨の赤松政則に属して備前守護代となり、はじめ富山城(現・岡山市矢板)によったが、松田元成のとき赤松氏と不和になり、山間の金川に玉松城を築いて本拠とした。
 元成は備後の山名俊豊と結び、赤松軍と備前福岡で戦って破れたが、その子元勝が跡を継ぎその後4代にわたって西備前で威をふるった。ところが1568年(永禄11年)上道郡の沼城(現・岡山市沼)による宇喜多直家に攻められ滅亡した。

 松田氏滅亡後、宇喜多直家が当社を崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。
 直家の子の秀家が豊臣秀吉に厚遇されたことが凶運に転じ、宇喜多家は大坂方に加担して関ヶ原の合戦に敗れ、秀家は八丈島に流され宇喜多家は断絶、遺領は徳川に没収された。


 当社が気比大神宮と名乗っていたことが注目されるが、別称を「朝日の宮(あさひのみや)」ともいうのも注目される。
 当社の社殿は東面しているが、夏至の日出には太陽が正面鳥居の真正面から昇り、神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称されてきたそうだ。
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 後方の中山に龍神社があり、龍王神(八大竜王)を祀り、別称を「朝日の宮」と言い太陽信仰を伺わせる当社は、主祭神が大吉備津彦でよいのであろうか。ただ、表記として大吉備津彦は“大吉備津日子”ともあるので、太陽信仰の一端を伺わせる。


 岡山県神社庁のページで吉備津彦神社を調べてみた。

『 吉備津彦神社
神社名 吉備津彦神社(キビツヒコジンジャ)
通称名 吉備津宮(キビツグウ)
旧社格 国幣小社
鎮座地 岡山市北区一宮1043
御祭神 大吉備津彦命 天御中主神
主な祭典
8月2、3日:御田植祭
10月第3土・日曜日:秋季例大祭
5月5日:子安神社大祭

特記事項
 桃太郎伝説ゆかりの神社。夏至の日の太陽が鳥居から一直線に御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称される。

由緒
 当社は昔、太陽、月、磐座、巨木を仰ぎ山は神体山にして天津磐座磐境を有し、境内十万町歩といわれ、朝日の宮(夏至の日の出には太陽が真正面より昇り祭文殿の御鏡に入る)と称され、本州一宮、吉備之國一宮、国の宗祖神を祀るお社として崇められてきた。
 御祭神の大吉備津日子命は吉備之国及び周辺の地を平定、永住され諸民を愛撫仁政を敷かれ、崇神天皇の60年に神去りまして後、吉備中山の宗廟の東麓の住居跡に社が建てられ吉備津彦宮、吉備津彦神社といい崇められて来た。
 後に佛教が入り正宮本宮摂末社を合わせて51宇を具え、神宮寺神力寺常行堂法華堂も建てられ総括して吉備津宮とも称された。
 朝廷直属の一宮・吉備津大明神として武門武将庶民に至るまで崇敬頗る厚く、仁明天皇承和10年10月24日、神階一品を賜り一条天皇社殿を造營し、白河、鳥羽、高倉、後堀川、後深草、亀山、後宇多の各天皇が何れも勅宣を以て補修せられた。
 慶長年間には岡山藩主、池田照直公が社領三百石を寄進し累代変わることなく崇敬厚かったが、池田光政公により現在の地に昔の熱田神宮様式にて社殿建築が着手され、その子綱政の時完成造営された。
 不幸にして昭和5年12月14日、不慮の火災により本殿と隨神門を残して全部焼失したが昭和11年、飛鳥時代社寺建築の粋を集めた荘厳華麗にして将来昭和の国宝ともいわれる社殿が再建され現在に至っている。 』

 祭神に大吉備津彦命だけでなく天御中主神があったので気になり、ネットで調べていると、当社で次のようなプリントを発行していることが分かった。

『 当神社は朝日の宮と称され、吉備之国最古の大社で古代信仰太陽、月星、泉、磐座、巨木を仰ぎ、山は神体山にして巨大な磐座磐境を有し超太古時代は気比太神宮、吉備社、吉備津神社、吉備津宮、朝廷直属の一品一宮の社宮として朝廷は勿論、諸民にも崇められて来ました。
 社殿が出来たのは、大吉備津彦命神去りました崇神天皇六十年で、御神紋は太陽と月の重なりあった金環色を表現した二重丸の中に、四葉木瓜(伊勢皇大神宮と同じ御神紋)が入り、又九七の桐は本州一宮、天御中主大神を始め造化三神国産みの大元の神々又国の崇祖神と仰ぐ天照皇大御神(古代当社では気比大明神、気比比賣之大神)を祀る社であることが示され、亦御神紋十六菊は天皇家直の男神(天皇皇子)の方々、五七の桐は直の女神の方々を祀る印とされていて、御祭神、由緒社格の深遠さを示しています。

 主祭神は天御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神(造化の三神)。天之常立・国之常立神。伊邪郡岐・伊邪那美大神。天照大御神(気比大明神・気比比売大神)、月読大神、 素戔嗚大神、建日方別大神、大山津見大神、宇迦之魂大神、大国主命、事代主命、少名彦命、神倭磐余彦天皇、天津神、国津神、八百萬神々等を祀り又、大吉備津日子命、御相殿には御子 吉備津彦命(吉備津武彦命)、孝霊・孝元・開化・崇神各天皇、彦刺日方別命、天足彦国押人命、大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦命(鉄の神)、大山咋命、山頂 龍神社に王龍神(天の龍王神・地の龍王神)を祀り、本州(大八州)一品一宮、気比太神宮、大社吉備津宮として県内はもとより近郷まで宗祖神、總鎮守としていかに崇められていたかがうかがわれます。

 特に摂仕・子安神社は、いにしえより縁結び、予授け安産育児の守護神の社として崇められて来ました。社殿は、平成元年三月末に修復完成し、立派な社殿に甦り、皆様方へのより厚き御加護お授けをお願いお祈り申し上げています。
 この他、稲荷神社は、龍王山を背後に控え古代五穀豊穣・金運・招福・商売繁昌稲荷大明神として崇拝され、方位により各地に造営され稲荷信仰として発展し両社とも霊験あらたかな社であると年々ご参詣になる方が増えています。
 
 当神社八月二日・三日に行われます御田植祭、御斗代祭のお祭は当地はもとより全国に至るまでの豊作並びに諸業繁栄をお祈りする御祭です。御幡献納祭は、稲作、製鉄の技術も初めて当地、当神社に伝わり、そして全国に広まったという由来表現の神事です。
 また、十月十七日の神嘗祭、亦例祭は天照大御神(気比比賣之大神、気比大明神)の標示された大御手振により今迄の豊作の御礼を申し上げ、立派な御饌御酒種々の味物を捧げる御祭で、その後行われる流鏑馬神事は来年に迎える夏の猛暑、其の後におこる大風などによる大洪水などの災害による諸難諸病を大神様方々の御加護により矢で的を射て、来年も、悪魔退散除去して戴き幸福に、平穏無事に過せるようにお祈りする御祭りで毎年執り 行われます。
(注)当社が昔、気比太神宮と言われていたことを伝承者が伝えていましたが、古文書を松田氏の部下に焼かれる前までは、上記の社名があったと思います。明治二十年頃まで大守大藤内家が宮司をされ、その後昔の分家延友の大守家が受け継ぎ明冶三十年頃宮司をされ、当時は大社吉備津宮吉備津神社(太郎太殿)と呼ばれていた。昭和天皇御即位国幣小社昇格の頃、現在の吉備津彦神社と呼ばれるようになったものと思います。(現在も地名が吉備津彦神社の境内のみ吉備中山となっています。)

 昭和六十一年十月神無月には、昭和天皇御座位六十年を記念し古来よりの神迎えの神事を復活し以来毎年十月(神無月)一日、天御中主大神の御許へ全国各地の宮、社の天津神、国津神の神々を当社渡殿へお迎え奉斎し、超太古天照皇大御神(気比比賣大神、気比大明神)のしめされた祭祀の大御手振を受け継ぎ神嘗祭、例祭をご奉仕いたしています。そして十月三十一日に各社へ神々をお送りいたしています。
 十月の期間中当社へ多数の方々ご参詣、全国の神々様にもお祈りを捧げて下さい。そして盛大な古代神事七十五大騰据(大嘗祭)の一時も早く復活、神々ヘの立派なお供え、お祈りが出来ますようご協力、ご助成の程お願い申し上げます。
 夏至の日は、伊勢二見ケ浦、夫婦磐又鳥居の中心より太陽が昇り、吉備津彦神社も正面鳥居より太陽が昇り幣殿の御鏡に朝日が差込むよう社が造られています。

 正月新年ご参詣のうえ おかげを載きご幸福を授かって下さい。
 一月中は玉垣内御本殿周囲四角の御末社も自由に巡拝出来ます。 社前広場前には磐座を有する車祓所も完備しています。 又、二月三日は節分祭、豆まき、五月第二日曜日は、元宮、奥宮磐座祭をいたします。お申し込みのうえ多数ご参加、ご一緒にお祈りを捧げて下さい。お待ちいたします。  』

 これによると、主祭神は天御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神の造化の三神となり、大吉備津彦命は脇に追いやられている。
 また、気比太神宮として気比比賣之大神(気比大明神)を天照大御神として祀っていたという。気比比賣之大神は、「きびひめのおおかみ」とでも読むのだろうか。そうだとすれば、“吉備姫”ということになる。まさか、越前国一宮の、気比神宮(けひじんぐう)との関係を示唆しているのではあるまい。気比神宮は『古事記』や『続日本紀』では“気比大神”と記され、『続日本後紀』では気比大神宮と記されている。
 だが、「昭和六十一年十月神無月には、昭和天皇御座位六十年を記念し古来よりの神迎えの神事を復活し以来毎年十月(神無月)一日、天御中主大神の御許へ全国各地の宮、社の天津神、国津神の神々を当社渡殿へお迎え奉斎し、超太古天照皇大御神(気比比賣大神、気比大明神)のしめされた祭祀の大御手振を受け継ぎ神嘗祭、例祭をご奉仕いたしています。そして十月三十一日に各社へ神々をお送りいたしています。」とあるように、出雲大社の神在祭のまねをしたり、伊勢神宮のアマテラスを仮称するなど、迷走しているように思えるので、気比比賣大神とは気比神宮のことを意識しているのかもしれない。
 ここには大和朝廷より吉備はずしをされた反骨のようなものを感じる。どうやら吉備津彦神社には表の顔と裏の顔があるようだ。ある意味では吉備は出雲より大和朝廷に迫害された過去があるのかも知れない。


 『延喜式神名帳』に、吉備津彦神社の記載はないのは、当時は神社ではなく寺として認識されていた可能性がある。
 境内の神宮寺跡から、「吉備津宮常行堂」の銘のある軒平瓦が発見されている。これは鎌倉時代、重源が東大寺再建のためつくらせた万富の東大寺瓦窯から出土した瓦と土質・文様・形式が一致していて、彼が常行堂を建立したと「作善集」にある場所はここではないかと考えられている。
 山麓の道を北に進むと福田海という宗教団体の社殿がある。その小堂から宝冠の阿弥陀坐像が発見された。宝冠の阿弥陀像は元来天台宗の寺院で常行堂の本尊として安置されたものだから、これも重源の系統のものではないかと言われる。修理の時、この阿弥陀坐像の胎内から「嘉暦4年(1329)」とある墨書銘が発見され、仏師集賢の作と分かった。重源(1121〜1206)の時代よりも降るとはいえ、東大寺との関係や天台宗との関係はあるように思われる。


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 吉備津彦神社に太陽信仰やアマテラスへの信仰があることをみてきたが、この地方にアマテラス信仰がなかったわけではない。
 当社の近くに黒住教本部(岡山市尾上)があるが、教祖である黒住宗忠の生家跡に1885年(明治18年)に建てられたのが宗忠神社(岡山市中野)だという。
 宗忠神社の西に今村宮という神社があるが、宗忠は今村宮の祢宜だった宗繁の三男で、信仰の厚い家庭に育った。彼はその巨体にも似ず心根の優しい孝心あつい性格だったが、1812年(文化9年)、七日の間をおいて父母を相次いで失った。傷心のあまり肺結核にかかり、翌々年には再起の望みも絶たれるほどの重態になった。宗忠は今生の暇乞いに、天照皇大神の化身と信じた太陽の昇る姿を拝もうと、身を清め衣類をあらため、家人に助けられ縁先に這い出し、一心に拝んだ。彼が不思議な体験をしたのはこの時だった。太陽を丸ごと飲み込み、その熱気が身体中に満ちあふれ、何とも言いようのない爽快な気持ちに浸った。これが、1814年(文化11年)11月11日冬至の朝の出来事で、これを“天命直授”とよんでいる。宗忠はこの後ますます天照大神の信仰をかため、修業に励むと共に、人の病気や悩みを救うため、教えを説いたり「禁厭」(まじない)につとめた。
 宗忠の教えは、医者や祈祷師の悪口や妨害にもかかわらず、備前の藩士や地主・豪商の間に広まり、彼の没後、門人の赤木忠春によって京都まで広まった。1856年(安政3年)、宗忠大明神の神号を許され、1862年(文久2年)には京都神楽岡(京都市左京区)に宗忠を祀る神社も建てられた。岡山の宗忠神社の創建は、それより24年遅れるが、今なお全国30万の信者、多くの地元岡山市民の尊信を集めているという。

 現在の黒住教本部は、宗忠神社から移ってきたものだという。
 吉備津神社の夏至の太陽とは反対の、冬至の太陽により宗忠は“天命直授”を受けたが、この地方に古くから太陽信仰があったことは確かなようだ。宗忠大明神の神号を授かるに当たって、この太陽神は皇祖神アマテラスとされたようだが、はたして宗忠が感得した太陽神はアマテラスであったかは不明だ。
 吉備で祀られていた太陽神が伊勢のアマテラスと同じであるかは、はっきりしない。7世紀末に伊勢に祀られたアマテラスは皇祖神とされるが、朝廷から吉備はずしにあった吉備で祀られていた太陽神は皇祖神ではないのかもしれない。あるいは、今の天皇家の前に大和に君臨した天孫族が祀った太陽神なのかもしれない。

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