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zoom RSS 旅 763 最上稲荷(2)

<<   作成日時 : 2018/03/08 17:19   >>

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2016年 8月23日
最上稲荷(2)

 文化財ゾーンへやってきた。
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現地説明板より
『 最上稲荷山(日本三大稲荷)
 伏見、豊川と並ぶ当山は天平勝宝4年(752)報恩大師が当山八丈岩でご修業中に感得された“最上位経王大菩薩”が祭祀されている。
 孝謙・桓武両天皇の勅願で竜王山神宮寺と称したが、中世秀吉の高松城水攻めによって焼失、慶長6年(1601)中興の祖日円聖人がこの尊像を擁護され聖跡を再興し、最上稲荷山妙教寺と改称された。それ以来祈祷の名刹として又日本三大稲荷として名高い。 』
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 寛保元年(1741)に建立された霊応殿本殿(旧本殿)は岡山市重要文化財に指定されている。霊応殿の裏には七十七末社がある。
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 この霊応殿に仕えるのも僧(社僧)である。ここではまだ神仏混淆の信仰が続く。

 八畳岩までの登拝マップがあった。所要時間は片道約30分とあった。ケーブルカーがあった時には、所要時間は4分であったという。
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現地説明板より
『 最上尊降臨の霊地・八畳岩
 天平勝宝4年(752)、開山・報恩大師が、孝謙天皇の病気平癒のため八畳岩の岩窟に籠もり、観世音菩薩普門品の呪を唱えて祈願されたところ、21日目の早暁に最上位経王大菩薩(最上尊)を感得。そのお姿を自ら刻み祈願を続けると、天皇は快癒されたと伝えられています。
 八畳岩は、最上尊が最初にお姿を現された聖域・最上稲荷総本山の根本霊場として、篤い信仰を集めています。また、龍王山も吉備史跡県立自然公園および保安林に指定されています。入山登拝に際しては、尊崇の念を持ち清浄護持を心がけて下さい。 』


 所要時間は片道約30分とあったが、後の予定も混んでいたので登るのを諦めて、妙見堂と秀吉本陣(一の丸)へ向かった。

 八畳岩の写真がネットにあったのでリンクを張っておく。八畳岩や題目岩は磐座であろう。近くには清水の湧く巌開明王(がんかいみょうおう)も祀られているという。


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 妙見堂には備中高松城の守護神として祀られていた北辰妙見大菩薩の尊像を祀っている。毎年6月第2日曜日には『妙見祭』が執行されるという。
 備中高松城の守護神を祀るということは、私が思った通り、最上稲荷の寺社勢力は毛利勢に加担していたのであろう。そのために当山は秀吉に焼き払われ廃絶したのであろう。
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現地説明板より
『 秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)
 天正10年(1582)4月、中国平定のため西進する羽柴秀吉軍は毛利氏手勢の備中七城を攻めるため、備中高松にたどりつき、備中高松城を見下ろす龍王山に本陣を構え、砦を築きます。当山の一の丸は秀吉が軍議を行った古跡と伝わります。
 開戦後、沼地の要害に守られた備中高松城を攻めあぐね本陣で悩む秀吉に、軍師・黒田官兵衛が「水攻め」を献策します。この献策を取り入れた秀吉は、指揮するのに都合の良い石井山に本陣を移し、築堤工事を開始。
 足守川の取水口より東方向の蛙ヶ鼻(かわずがはな)までの3kmの堤防をわずか12日間で造ったと伝えられています。
 水攻め後、城兵5000の命と引き替えに切腹した清水宗治の死により開城となり、中国大返し・山崎の戦いを経て、秀吉は天下人への道を駆け上がっていきます。
 当山はこの戦いの際に堂宇を失いましたが、ご本尊だけは別の場所に安置されたため、慶長6年(1601)に日蓮宗寺院として再興され、現在に至ります。 』
 

 ここからの眺めは良かった。近くにはため池が見え、遠くには大鳥居が見えた。大鳥居の西に備中高松城址がある。
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 一の丸には日蓮の銅像があった。
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 再び境内に戻った。

 境内の一番奥に洗心閣(荒行堂)があるが、大荒行が行われる修行の場所だという。大荒行は、開山報恩大師の修行に倣い、年2回(5月は女子の部、11月は男子の部)3日から23日まで21日間開設されるそうだ。荒行堂は修法師の育成の場で、一般の立ち入りを制限している。
 ネット情報では詠経堂という籠り堂もあり、近くには小さな滝や脱衣所もあって、水垢離ができるようになっているそうだ。当山は明治初年の神仏分離を免れた寺院だというが、修験道のような修行もできるのだろうか。修験道も明治初年に禁止され、多くの修験寺が廃寺に追い込まれた。
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 「妙 龍王山守護 地神 山神 水神」と刻まれた大きな石碑があった。
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 やはりこの霊場(霊地)の本質は、地神 山神 水神なのであろう。そしてそれは穀霊に繋がっていく。
 対応としては、地神が最上位経王大菩薩(稲荷大明神)、山神が三面大黒尊天、水神が八大龍王尊といったところか。


 備中国一宮の吉備津神社の境内社に吉備国最古の稲荷神を祀るという宇賀神社があった。伏見稲荷大社同様に宇迦之御魂大神を祀っているのであろう。
 そして、最上稲荷には神仏習合したとはいえ稲荷大明神が祀られている。そこには秦氏の存在が見え隠れする。

 私は、吉備津神社の祭祀権を江戸時代初頭まで担い続け吉備津彦命を祀ってきた賀陽(加夜)氏を渡来系氏族だと考える。おそらく、賀陽氏は温羅を遠祖とする渡来系の氏族であったのではないだろうか。雄略天皇以降、吉備氏には反乱の伝承がつきまとう。そのため、百済王子ともされる温羅をスケープゴートにし、当たり障りのない吉備津彦を祀ってはいるが、温羅は吉備津神社の陰の主役であり、五十狭芹彦命に吉備津彦の名を与えたのは温羅であった。つまり本来の吉備津彦は温羅なのである。

 渡来系氏族である秦氏や賀陽氏は弥生時代から祀られる原初の神である太陽神や水神の上に稲荷神や八幡神を祀ったのであろう。そこへ後世に朝堂を独占した藤原氏(中臣氏)が進出し、記紀神話のアリバイ作りをした。
 『荘園資料』などによると、石門別神社の鎮座する大供付近は藤原氏の氏長者に属する殿下渡領となった鹿田荘がある。吉備津神社の社家である藤井氏は藤原氏の同族であろう。


 温羅征伐を命ぜられた吉備津彦命は、吉備の中山に陣を構え、家来として犬飼部犬飼健命(いぬかいべのいぬかいたけるのみこと)と、猿飼部楽々森彦命(さるかいべのささきもりひこのみこと)、鳥飼部留玉臣(とりかいべのとめたまおみ)の三名を従えたという。この伝承が桃太郎伝説の家来の「犬」と「猿」と「雉」に繋がる。これらの豪族は吉備の在地の豪族だったのだろう。
 中央に出た犬飼部は犬養と名を変える。ここ掘れワンワンの犬は、鉱脈(宝)を掘り当てるだけでなく、井戸掘りもしたという。そして土木工事も得意であった。

 私は先に、「奈良時代は未だ伝承や伝説に満ちた不思議な時代である。」と述べたが、奈良時代に後宮で活躍した県犬養橘三千代に注目している。
 三千代は美努王(三野王)と結婚して橘諸兄らを生んでいるが、後に藤原不比等と結婚して安宿媛を生む。安宿媛は聖武天皇と結婚して光明皇后となる。
 聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿倍内親王は後に即位して孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となる。
 聖武天皇の妃に県犬養広刀自がいて、井上内親王、安積親王、不破内親王を生んでいる。この県犬養広刀自は県犬養橘三千代の娘であろう。聖武天皇には妃の橘古那加智がいるが、彼女は県犬養橘三千代の孫娘である。
 こうなると聖武天皇の回りは県犬養橘三千代の娘や孫娘で固められている。

 県犬養橘三千代が藤原不比等の前に結婚していた美努王とはどんな人物であろう。
 美努王の父は栗隈(くるくま)王という。栗隈王と水主皇女(もひとりのひめみこ)の子が美努王で、栗隈王 → 美努王 → 橘諸兄と続く。
 水主皇女は、天智天皇と采女である栗隈黒媛娘(くるくまのくろひめのいらつめ)の間にできた娘である。
 栗隈氏は巨椋池の南に居住していた古豪族で、秦氏と同じく土木工事の技術を持って大和朝廷に仕えていたとみられる。土木工事の技術を以て栗隈氏と犬養氏はつながる。
 この土木工事の技術は河川の治水工事や水田を拓くことに必要な技術であったが、同時に古墳造りにも使われたと思われる。一説には巨大古墳は大溝(おおうなで)を掘ったあとの残土を利用したとも言われる。そして巨大古墳は河内(応神陵など)にも吉備(造山古墳など)にも残る。
 『日本書紀』仁徳天皇12年10月の条に、「大溝を山背の栗隈県に掘りて田に潤く」とある。
 吉備津神社で頂いたパンフレットにあった由緒には、
「 社伝によると第16代仁徳天皇が、吉備族より上がった采女・黒姫を慕って吉備国に行幸され楽しいひと時を過ごされた時に、これの歓待にあたった吉備族より吉備津彦命の業績を聴かれ、その徳を偲んで吉備国の祖神として崇め奉斎されたと伝えられます。」
 とあった。仁徳天皇は吉備との関係が深いようだ。

 私は栗隈氏も犬養氏も吉備から中央に上がった吉備の群像の一部ではないかと考える。

 藤原不比等の子どもたちが天然痘で次々に亡くなったこともあるが、聖武朝や孝謙・称徳朝では、橘諸兄や吉備真備、和気清麻呂らが引き上げられる。

 聖武天皇の母は、藤原不比等の娘の宮子とされるが、宮子の出自については疑問が残る。宮子は不比等の養女だったという説がある。
 『続日本紀』天平9年12月には、「皇太夫人、幽憂に沉(しづ)み久しく人事を廃するがためなり。天皇を誕じてより未だ嘗て相見えず。」とある。
 つまり、宮子は首皇子を産んでから、首皇子が成人して聖武天皇になるまで一度も子である天皇に会っていないのだ。その間に聖武天皇は宮子の異母妹と言われる光明皇后と結婚している。
 その宮子の病を治して、36年ぶりに天皇に会わせたのが僧の玄ムであり、橘諸兄のもとで玄ムが権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。いくら留学して勉強した玄ムといえども、36年も患っていた宮子を治せるのであろうか。私は宮子は病気ではなく、何らかの理由で聖武天皇と引き離されていたのだと思う。
 光明皇后(701〜760)の生年は分かっているが、宮子の生年は不詳であることも不思議だ。『続日本紀』には、「文武天皇元年(697年)8月、持統天皇の譲位により即位直後の文武天皇の夫人となる」とあり、大宝元年(701年)に聖武天皇を産み、没年は天平勝宝6年(754年)と分かっているので、おそらく70歳ぐらいまでは生きたようなので、健康であったと思われる。

 玄ムは義淵に師事し、養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けたとされる。
 玄ムは聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、天平17年(745年)筑紫の観世音寺の別当に左遷、封物も没収され、翌天平18年(746年)任地で没した。

 元正天皇、藤原宮子、孝謙・称徳天皇など貴い女性の病を治した僧は出世するが、政権に留まろうとした僧の末路は惨めだ。泰澄や報恩のように地方に下り、仏教布教に従事した僧が開山した寺は多い。
 その差は、玄ムや道鏡は物部氏の末裔であるが、泰澄や報恩は秦氏の末裔だったのではないかと考える。
 
 未だに天皇家は男系に拘っている。男系でみるかぎり、道鏡に皇位を禅譲しようとした称徳天皇で天武系は終焉し天智系の桓武天皇に移っていく。東大寺の大仏を造った聖武・称徳親子は本当に日本を法王が治める国にしたかったようだ。歴代天皇の中で出家したのは称徳天皇だけだ。(上皇になってから出家した天皇はいる)
 桓武天皇の父親の光仁天皇の皇后は井上内親王(聖武天皇の子)であり、天武系が残る可能性は残されていたがそれを摘み取ったのは藤原氏である。天武系が終焉したことは、歴史の中では何度めかの「吉備外し」ともなったように感じる。
 天武系を残そうと努力した吉備真備は外されていくが、道鏡事件で藤原氏側についた和気清麻呂は桓武朝で活躍することになる。
 和気清麻呂は官僚の鑑ともされ、その銅像が皇居の堀端(大手町一丁目4大手濠緑地内)にあるが、和気清麻呂が守ったのは官僚政治ではなく藤原氏である。



 最上稲荷山妙教寺の前身は天台宗の龍王山神宮寺であることが分かった。果たして報恩大師は稲荷大明神として最上位経王大菩薩を祀ったのであろうか。
 私は龍王山神宮寺の名から、最初に祀られていたのは水神であったように感じる。「最上三神」の一柱として八大龍王尊が祀られ、今でも山中の滝で荒行が行われるという。荒行が行われる滝には通常「滝の神」として水神が祀られる。それを神仏習合で不動明王とするところもある。
 最上位経王大菩薩の画像は明らかに女性である。私はこの霊地に初めから祀られていたのは水の女神であったと思う。豊川稲荷も原初は豊川の水の女神を祀っていたと考えられる。

 報恩大師の時代は遣唐使の留学生や学問僧がもたらす中国の情報が多かったと考えられる。かつて中国の広い山地にわたって、田の神が日天と龍女との結婚によって毎年誕生して嶺より降り給うという田植唄が行われていたという。この田の神が稲荷神として日本の神になったことが考えられる。
 今日、稲作に関わる水神に求められる主な信仰は、「雨乞い」と「堤の守護(洪水防止)」であるが、古代においては水神様に求めるものは広汎にわたる水そのものの神霊であったのだろう。古代人は水源である山にも神を見出した。

 龍王山神宮寺はその名から分かるように神社に付属していたのであろう。もっとも神社に立派な社殿が造られるようになったのは、仏教の寺の影響だとされる。
 その神社に祀られていたのは足守川の水の女神であったことが考えられる。秀吉の水攻めも足守川を塞き止めることにより成された。

 古代において男神と女神がセットで祀られることが多い。セットと言ってもその地方においてセットという意味で、同じ場所に祀る場合もあるが、それぞれの霊地に別々に祀られる場合もあったと考える。男神を太陽神として、女神を水神(月神)として祀っている場合が多い。
 各地方で祀られる水の女神は、皇祖神・国家神として祭り上げられたアマテラスのライバルとなりえるので、中臣神道などにより長い時代消去の対象になった。
 その中臣神道の政策に手を貸し神仏習合で観音菩薩などの後ろや下に女神を隠したのが初期の仏教である。神仏習合は八幡神に始まるという説があるが、そうとも言えない。本地垂迹とは神を仏の下に置いたものだ。
 私は東北への旅で、天台宗の僧侶集団(円仁の弟子たち)による女神隠しの惨状をいくつか見てきた。
 仏教が本格的に庶民のものになるのは鎌倉仏教の時代を待たなければならない。奈良時代や平安前期の高僧をみてみると、ほとんどが渡来系氏族の出身である。それもそのはず、平安前期までは仏教を信仰していたのは貴族や豪族や渡来系の人々であった。
 僧形八幡像があるように、秦氏などの渡来系氏族が祀る八幡神や稲荷神には仏教的要素が加味されている。八幡神や稲荷神も地母神や水神を隠すことに使われたのかもしれない。

 この霊場で報恩大師が最上位経王大菩薩を感得したというが、私は水の女神を感得した。




 最上稲荷の参拝を終えて、道を下ってくると大鳥居があった。車を駐めて写真を撮った。
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 鳥居の左下に子どもたちがいるが、それと比べても鳥居の大きさが分かる。この大鳥居は高さ 27.5 m 、柱の直径 4.6 m 、重さ 2800 tあり1972年(昭和47年)に建立されたという。この大鳥居は昭和57年までは日本一の規模を誇っていたそうだ。1985年(昭和60年)と2014年(平成26年)に塗り直しが行われている。

 大鳥居で高さ日本一は、和歌山県の熊野本宮大社のもので、高さ33.9mだという。次は奈良県の三輪明神の32.2m、三位が新潟県の弥彦神社の30.16mだという。
 私は弥彦神社の大鳥居を見たことがある。

 大鳥居の近くに備中高松城址の案内表示があり、歴史をテーマに旅する身としては看過することもできず、その案内表示に誘われるままにハンドルをきった。

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