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zoom RSS 旅795 白鳥神社(しろとりじんじゃ)

<<   作成日時 : 2018/06/09 09:49   >>

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2016年10月18日
白鳥神社しろとりじんじゃ)

 白鳥神社は、香川県東かがわ市松原に鎮座する神社で、旧社格は県社である。
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現地説明板より
『 白鳥神社
御祭神 日本武尊
白鳥町松原  境内地 4万坪弱
 昔、日本武尊が、伊勢の能褒野に崩御せられ、尊の霊は白鳥と化し、大和の国琴弾原より河内の旧市(ふるいち)に飛び、更に讃岐の国白鳥の郷に止まった。仁徳天皇の御代に初めて神廟を造営し、白鳥大神宮と言祝ぎ、その後、寛文4年(1664)高松藩祖松平頼重公が、この社殿修築に力を注いだ。
 明治5年県社に列せられる。
 春祭 5月4日〜6日
 夏越祭 7月31日
 秋祭 10月6日〜8日、おみかん焼 12月8日  』

 この説明文は「白鳥町松原」とあるので、少し古い。白鳥町は平成の大合併で消滅している。
 2003年(平成15年)に香川県大川郡引田町(ひけたちょう)、白鳥町(しろとりちょう)、大内町(おおちちょう)が合併及び市制施行し、東かがわ市となった。この結果、大川郡は消滅した。
 東かがわ市の大部分の地域は明治期まで千年以上、大内郡と呼ばれてきた。大内郡は明治に入り、寒川郡と合併し大川郡となった。

 平成の大合併で出来た市の名前に、平仮名や片仮名のものがあるが、私は好まない。
 大川郡の消滅と共に大川郡白鳥町も消えた。白鳥町の名は白鳥神社に由来するが、白鳥神社の名は日本武尊伝説に由来する。
 白鳥町は消えたが、白鳥の名は地名や学校・駅(高徳線讃岐白鳥駅)などの公共施設として名を留めている。



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現地説明板より
『 白鳥神社のクスノキ
 境内には、クスノキの大木が10本あり、平成13年環境省によって「かおり風景百選」の一つに選ばれた。
 このクスノキは、昭和53年に香川県の保存木に指定された。樹齢は約800年と推定され、胸高周囲は、7.6m、高さ30m、枝葉は、東西30m、南北27mに及んでいる。
  白鳥神社総代会  』


 香川県指定有形文化財の猪熊邸があった。
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現地説明板より
『 猪熊邸
 この屋敷は、寛文4年(1664)に藩祖松平頼重公によって京都から招かれた公卿の猪熊兼古が、隣接白鳥神社(現在無縁)の神官住居として拝領したもので、敷地3千坪と云う。この厚遇は、兼古朝臣が藩主の弟・水戸光圀に神道・国学で尊崇された事による。
 一般公開は、昭和45年からで県文化財家屋11室に、国宝・水戸黄門書状、大名駕籠、狩野派杉戸絵など秘蔵品多数を展示して居る。
 香川県教育委員会 東かがわ市教育委員会  』

 説明文の最後の「香川県教育委員会 東かがわ市教育委員会」は、上から貼られて訂正してあったので、この説明文は古い。説明文では「隣接白鳥神社(現在無縁)の神官住居として拝領したもので、……」とあり、“現在無縁”とあるが、猪熊家は最近まで白鳥神社との関係を有していたようだ。

 白鳥神社の今の社殿は、初代高松藩主松平重信(徳川光圀の兄)が再興修築し、1664年に完成し、翌年社領200石が幕府朱印地として認められた。
 神主には占部兼古(猪熊千倉)が迎えられた。占部家(後の猪熊家)は古くから朝廷で亀卜をつかさどり、平安時代から神祇官に仕えた由緒ある神道家で、当地来住にあたり藩主から神社の右隣に大邸宅を与えられた。
 初代宮司の兼古は国学、神典に精通しており、承応2年宇和島の和霊神社の創建に参画した。
 寛文4年、松平頼重に招かれて白鳥神社の宮司となっているが、事前に頼重の委託を受け、唯一神道に基づいて、神社の設計や運営などを献策した。
 延宝元年(1673)正月、隠居した松平頼重は聴徳院において、神書、仏典、儒書などを聴講しているが、兼古は講義初日の講師として招請せられ、『日本書紀』を講義した。

 白鳥神社の宮司は代々猪熊家が継いできた。
10代宮司の猪熊慶歓の末子である夏樹は明治40年に15代宮司になった。猪熊夏樹は京都白峯神宮の宮司から京都府立第一高女教諭、宮中進講(皇族のための教師)になった。明治39年1月10日、初めて御講書始めに召され、同45年まで連続して7回に亘って『日本書紀』などを御進講申し上げ、また、『古語拾遺』についても御講義申し上げた。その息子・猪熊浅麻呂、孫・猪熊兼繁もそれぞれ国学者として時代考証などで活躍した。

 17代の猪熊兼幹さんは、大学卒業後内閣統計局に勤め、昭和8年白鳥神社社掌に就く。故実に通じ斯界の権威者として重んじられ、昭和42年に亡くなった。
 猪熊信男さん(兼幹さんの孫?)も宮内庁図書寮に勤務、京都東山文庫調査官などを歴任し、収集された文書・記録などのうち「肥前風土記」(国宝)、「周書」(重文)などを展示していたことがあったという。


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 表参道を行くと一の門、鶴門と続く。
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 鶴門(市指定文化財)の柵内には随神像ではなく、神鶴像が安置されていた。正に鶴門である。
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現地説明板より
『 白鳥神社
新四国曼荼羅霊場第7番  さぬき十五社第1番
白鳥神社由緒
 その昔、日本武尊は九州そして東国を征定しての帰途、伊勢の能ぼ野で亡くなられた。天皇は尊を厚く葬られたが、尊の神霊は白鶴となり西方に飛び立ちこの大内郡鶴内の里に飛来された。この地に社を建てられ様々な人々の祈願がなされ、百に一度の霊験なきことがなかった。
 中でも源義経が兵力の劣勢の折に、白鳥の神に祈ったところ、彼方の空から白羽が彼の手中に舞い降り、義経は奮気して兵を挙げ、屋島の浦の戦に大勝したという話は有名で、白鳥神社が開運厄除の神様として奉られる由縁である。

御祭神
本殿三座
 倭京宮(やまとのみや) 両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)
 白鳥大神宮  日本武尊
 吾嬬宮(あずまのみや) 橘姫命    』


 説明文では、日本武尊の神霊(白鳥)が、伊勢の能褒野から大和の国琴弾原、河内の旧市(ふるいち)を経て、この地まで飛来したという。
 
 『古事記』では、
「かれその国より飛び翔り行でまして、河内の志幾に留まりたまき。かれ其地に御陵を作りて、鎮まりまさしめき。すなわちその御陵に名づけて白鳥の御陵といふ。然れどもまた其地より更に天翔りて飛び行でましき」 とある。

 『日本書紀』では、伊勢の墓から飛び立った白鳥は、まず大和の琴弾原に停まったので、そこにも墓を造ったが、
「白鳥更た飛びて河内に至りて旧市邑に留まる。亦其の処に陵を作る。故れ時人是の三陵を号けて白鳥陵と曰ふ。然れども遂に高く翔りて天に上がりき」 とある。

 現地の説明文は『日本書紀』を採り、河内の旧市邑の後、この地に翔てきたとしている。

 『古事記』が記す志幾(志紀、志貴)は古市より少し北の、河内国府が置かれていた地域である。また、『日本書紀』が記す旧市(古市)には、古墳の上に白鳥神社がある。
 志紀と古市は隣接した地区だから、大きな差がないように思われるが、志紀には志貴県主神社があることが気になる。
 また、和泉国一宮の大鳥神社もヤマトタケルの伝承がある。


 当社(東かがわ市松原の白鳥神社)では、飛び立った白鳥を“白鶴”と限定しているところが興味深い。

 ヤマトタケルについては、古代大和朝廷の何人かの将軍の功績を景行天皇の皇子・小碓命に仮託したものだとされる見解が一般的である。だとすれば、これらの将軍たちの出身地が、大和だけではなく、河内や讃岐であった可能性は十分にあるようにも思われる。

 私は伊勢の日本武尊の終焉の地周辺を訪ねたことがあり、能褒野王塚古墳も訪れたことがあるが、創られだ伝承のような気がした。私は日本武尊(小碓命)と聖徳太子(厩戸皇子)については懐疑的である。

 記紀では憚ることもなく皇位をめぐる皇族の殺し合いを載せている。その意味では天皇家は聖なる一族とはとても呼べない。しかし、記紀の中で皇族への尊崇を高めるスーパースターが二人いる。それが、日本武尊(小碓命)と聖徳太子(厩戸皇子)であるが、その二人の事蹟を否定されたら天皇家の光栄は地に堕ちる。天皇家にとってはこの二人は実在の人物として大切に葬り祀る必要がある。


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 本殿は間口三間奥行二間の神明造りであるが、向拝が付き弊殿で拝殿に繋がっていることから、一見神明造りのように見えない。

 境内社は本殿の左側に三社神社(吉備武彦・大伴武日・武内宿禰)、右側に五宮神社(仲哀天皇・神功皇后・應神天皇・稲依別王・武皷王)があり、他に青山稲荷神社と恵比寿神社がある。
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 仲哀天皇は日本武尊の御子とされるが、五宮神社の祭神のうち稲依別王も武皷王も日本武尊の御子とされる。
 稲依別王の母は両道入姫命(日本書紀)・布多遅比売(古事記)とされる。武皷王の母は吉備穴戸武媛とされる。

 岡山市北区上高田にある式内社の皷神社(つづみじんじゃ)は備中国二宮と言われ、祭神の5柱は以下の通りだ。
高田姫命(吉備津彦命の后神)
遣霊彦命(やりだまひこのみこと)(吉備津彦命の脇将神 雉の神)
楽楽森彦命(ささもりひこのみこと)(当地の縣主 猿の神)
吉備津彦命(吉備國の総祖神)
吉備武彦命(ヤマトタケルの軍師)

 しかし、『神名帳考証』では武鼓王(日本武尊の御子)を祭神としている。私は社名の皷神社から、本来の主祭神は武皷王(武殻王)ではなかったかと考察した。

 第12代景行天皇(タケルの父)の後は、13代成務天皇(タケルの弟)、14代仲哀天皇(タケルの子)と続き、イレギュラーである。

 景行天皇には妃が多く、子も80人にも達したという。
 成務天皇(稚足彦命)の母は八坂入媛命であり、日本武尊(小碓命)の母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)であるから、成務天皇と日本武尊は異母兄弟である。播磨稲日大郎姫は若建吉備津日子の女とされる。

 成務天皇の時代、成務の異母兄弟神櫛王(かんぐしおう、母は五十河媛)に武皷王(タケルの子)を従わせて、讃岐の国造に封じ日本武尊の神陵を造らせたという。
 神櫛王は讃岐国造の祖とされる。武皷王は讃岐綾君の祖とされる。武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあるという。

 仲哀天皇(タケルの子)の時代、神籬を建て封戸を寄せたという。今の神社がその跡とされる。


 白鳥神社の後ろには松林があった。
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現地説明板より
『 白鳥の松原  白鳥神社境内地約4万坪
 日本武尊は勅命により東国を征定し給い、還啓の途、癘病に触れ給い、伊勢国能褒野に至り薨じ給うた。
 時の天皇その功を録し厚く葬り給うた。その時、白鳥と化し西方に飛び、大和国、河内国を経てこの大内郡鶴内の里に止り給うた。
 由来、松原は景勝地として白砂青松風光明媚の地にして白鳥海岸となり、渺茫たる播磨灘に臨んでいる。
 昭和31年5月に瀬戸内海国立公園と指定され、四季遊覧の人達が訪れている。
 みやまを守る会  大川郡ライオンズクラブ  』

 この松原は日本の白砂青松100選に選定されている。
松原は御山(みやま)と呼ばれ、海抜3.6mで、自然の山として日本一低い山であるとして認定されることに取り組んでいるという。御山(みやま)とは日本武尊の神陵としての“御山”であったのだろう。

 日本一と認められるのは、国土地理院発行2万5千分の1の地図に掲載されることだと云うが、果たして4m足らずのマウンドが山と言えるのであろうか。
 現在自然の山では弁天山6.1mがあるそうだが、高さを競うのは意義があることかも知れないが、低さを競うことに意義があるのであろうか。


 この松原の中には、銅像などがあった。
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現地説明板より
『 手袋産業の創始者
両児舜礼師碑(ふたご しゅんれい1853〜1891)
 舜礼師は、松原村(白鳥町)に生まれ12歳の時、岡山の金剛寺で仏門に入ったが非凡な才能が認められて1883年白鳥町の千光寺の副住職に迎えられ故郷に錦を飾った。
 1886年に還俗して、同町の明石タケノ女史と相携えて大阪へ転居し2人は家業として手廻しミシンで手袋を縫い努力の結果事業は軌道に乗った。その後故郷より棚次辰吉など数人を雇い技術を教えた。1891年志半ばで急逝したが、後継者たちによって企業化に成功、その手袋産業は舜礼師の故郷白鳥に花をさかすことになった。

棚次辰吉翁銅像(たなつぐ たつきち1874〜1958)
 辰吉翁は白鳥町に生まれ1891年舜礼師に招かれたが、師の急死により舜礼未亡人タケノ女史を助けて遺業を継いだが、その後独立して大阪における手袋産業の地位をかためた。そして1899年帰郷して積善商会の看板を掲げ教蓮寺にて手袋の製造を始めた。これが白鳥手袋の誕生である。また辰吉翁は旺盛な研究心により軽便飾縫機など24種の特許権を取得、また視野を広く世界に開き欧米諸国を視察して、先進技術の粋を追求し手袋産業の始祖舜礼師の蒔いた種を見事に開花させた功労者である。 』


 説明文を読んでいて、故郷に錦を飾った僧が、なぜ3年後に還俗して女性と二人で大阪へ転居したのか気になったので調べてみると、やはり二人は駆け落ちであった。そこで生計を立てるために始めたのが手袋製造だったということだ。
 1891年(明治24年)に両児舜礼は38歳の若さで病死したが、従兄弟の棚次辰吉がその意志を継いで事業を続けて成功をおさめる。


 江戸時代後期には、この地域は製糖業や製塩業で栄えていた。しかし、明治時代後期には砂糖、塩ともに外国からの輸入が増えたことで生産量が減少し産業は衰退をはじめ、それらに従事していた人たちの生活が苦しくなっていった。

 棚次辰吉は帰郷して教蓮寺住職楠正雄らと協力し、この地に手袋産業を移植した。この手袋産業は第一次世界大戦で飛躍的に発展した。

 第一次世界大戦はヨーロッパが主戦場で、アジアではその植民地で戦いがあった程度だ。日本は日英同盟により、英国の要請でドイツ領の中国青島(チンタオ)に出兵した。この戦いでのドイツ兵の捕虜を収容した板東俘虜収容所跡を、ここへ来る前に見学したばかりである。

 第一次世界大戦で主戦場になったヨーロッパでは、戦下で工場が稼働できなかったり、工場が破壊されたりして産業が停滞した。その間隙を縫って日本の産業は好景気を迎えた。第一次世界大戦は日本にとっては大した戦争ではなく、却って旨みがあるものであったといえる。

 その後、恐慌期の苦難、第二次世界大戦の企業整理など紆余曲折を乗り越え、昭和28年県手袋協同組合を発足させ、編手、革手などを導入し、今日に繋がっている。現在でも香川県の手袋産業は全国生産の90パーセントを維持し続けているそうだ。


 松原を抜けて、海に出てみた。
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 瀬戸内海の東側である播磨灘は清々しく晴れて、穏やかな海面に釣り糸をたれる人たちの姿もあった。
 海があり山があり、元々豊かな地域だったのであろう。白鳥神社の氏子らが御山(みやま)を山として低さを競うことも、何となく分かるような気がしてきた。


 瀬戸内海をひかえ海上交通の要にあたる讃岐国は、古代において比較的早くから中央の影響を受けた。奈良時代、既に31の寺院が造営されたことが多くの寺院跡から知られるが、これは近隣の諸国に比べ格段に多い。
 なかでも旧大川郡には石井廃寺、極楽寺、長尾寺、願興寺、白鳥廃寺の5ヶ寺が数えられる。
 白鳥廃寺(旧大川郡白鳥町湊)は、寺の境域が約1ヘクタールあり、奈良時代前期に建立され、平安時代末までに焼滅したものと推定されている。

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