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zoom RSS 旅799 北海道への旅の概要(3)

<<   作成日時 : 2018/07/12 20:19   >>

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6月19日(火)
 朝、洗顔してヒゲも剃った。
 道の駅「あぷた」のすぐ近くに入江馬頭観音があったので参拝してから、有珠善光寺に行った。
 1822年(文政5年)の有珠山の噴火は激烈で、大泥流は有珠善光寺裏山に押し出し、一部はアプタコタンを直撃し50人が死亡、牧馬2468頭のうち1437頭が死んだという記録がある。

 湿布が効いたのか朝の腰の状態は悪くはなかったが、有珠善光寺の境内を歩き回っていると腰が痛くなった。  

 車を走らせ昭和新山まで行った。昭和新山の写真を撮った後、ロープウェイで有珠山へ上った。熊牧場もあったが、勿論入らなかった。私より後からキャンピングカーで来た駐車場係の人に、駐車場の料金は500円で支笏洞爺国立公園の駐車場はどこでも500円だと言われた。

 腰の状態がおもわしくなく、有珠山頂で遊歩道を歩くときベルトをしているので何とか歩けたが、短い距離でも休みながら歩いた。太田神社に登った代償は思ったより大きく、先が心配である。

 有珠山から下りた後、駐車場の係りの人に昭和新山をバックにソニカと共に写真を撮ってもらった。
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 ついでに近くで美味しい店はないかと訊くと、洞爺湖湖畔にあるレストハウス「梓」の“あんかけ焼きそば”が美味しいと教えてくれた。早速そこまで車を走らせ少し早い昼食にした。
 中華焼きそばは、レギュラーが860円でビックが1080円だった。ビックは麺の量は変わらないが、あんかけの量が2倍だという。もちろんビッグにした。
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 お皿の大きさが分かるように、腕時計を置いて写真を撮った。
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 満足な1杯であった。観光客相手の店には美味しいものが少ない気がする。美味しい店は地元の人に訊くのがいい。

 洞爺湖では遊覧船に乗り中島に渡った。

 支笏洞爺国立公園にある支笏湖と洞爺湖は北限の不凍湖でもある。それは地熱が高いからだといわれるが、有珠山、昭和新山、樽前山などは今も火山活動を続けている。


 洞爺湖の後は伊達市に向かった。
 伊達は伊達邦成(くにしげ)主従が開いた町である。戊辰戦争で敗れた仙台藩は所領を削封され、一門の筆頭亘理(わたり)は2万4千余石から一挙に58石5斗になり家臣は路頭にまよった。そこで家宰田村顕允(あきまさ)にすすめられて藩主邦成は蝦夷地開拓のため自費移住を決め、有珠郡支配を許された。

 旧伊達家庭園に開拓記念館があるというので行ってみたが、既に閉館していた。新しく記念館のような施設が造られるようだ。
 旧伊達家庭園には迎賓館が残されていた。
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現地説明板より
『 迎賓館
 明治維新に際し、仙台一門亘理伊達邦成主従が、新天地に亘理城再興を夢に託し、明治3年にこの地に開拓の初鍬をおろしました。この迎賓館は、仙台の伊達邸を建てた大工(田中長吉)を棟梁とし、明治25年に開拓者の総力によって建てられたもので、洋風(公の場)と和風(私の場)を配した数寄屋風の書院造りとなっております。当時、開拓状況視察のため来道した政府高官や開拓使などの接待の為に利用され、昭和10年から昭和30年頃までは伊達家の居所として利用されていましたが、昭和30年に敷地と共に伊達市に寄付を受けたものです。
 伊達市文化財指定 平成4年9月28日  伊達市教育委員会 』

 説明文の中に、「明治25年に開拓者の総力によって建てられたもので、……」とあるが、外から見ただけで内部を観たわけではないが、明治25年に総力をあげて建てた迎賓館がこの程度のものなのだから、まだまだ厳しい経済状態だったのではないかと想像した。


 旧伊達家庭園には、伊達町百年記念碑と伊達市市制施行記念碑が建っていた。
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 伊達市市制施行記念碑には、
「春に見し都の花にまさりけり 蝦夷がちしまの雪のあけぼの  邦成 」
 とあった。
 碑の裏面には、
「明治2年伊達邦成有珠郡の支配を命ぜられ 自ら此の地に渉り具に調査有望なることを認め 十一月雪中に祝杯を挙げその喜びを歌いしものなり」
 と説明されていた。

 この近くには道の駅「だて歴史の杜」があり、公園の整備が進められているようだった。
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 伊達から室蘭まで移動した。
 中国人殉難烈士慰霊碑を探して走っていて、イタンキ海岸にも行った。この辺だと当たりを付けて、細い道を入っていって出会った人に訊くと、このトンネルの反対側だと教えられた。この人の教え方が的確で辿り着くことができたが、訊かなければ分からないような場所であった。この人はよく知っていたが、おそらく地元の人でも関心のない人は知らないであろう。

 イタンキ海岸は夏には海水浴客で賑わうそうだ。私が訪れた時は海からの風が強く、誰一人いなかったが、盛夏にもなれば室蘭市民が海水浴で短い北海道の夏を楽しむのであろう。
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現地説明板より
『 よみがえる伝説 イタンキ浜の鳴り砂
 鳴り砂とは、砂と砂の摩擦でキュッキュッと澄んだ音がする現象です。
 昔、この辺にアイヌ語で「フム・ウシ・オタ」(音・する・砂原)と呼ばれた地名があったことから調査が始まり、昭和61年9月に、このイタンキ(お椀という意味)浜一帯が、北海道では初めて、歩いただけで音がする鳴り砂海岸であることが確認されました。
 こうした海岸は、全国でも数少ない非常に貴重なものです。
 左図の○部分(楕円に灰色斜線部分)の白ぽっく乾いた砂の上を足で強く擦るように歩いたり、この辺り一帯の砂をワイングラスなどに3分の1ほど入れ、先の丸い棒で突くと ほら聞こえてきます。よみがえる伝説の音色が……
 鳴り砂の条件は、砂に石英粒が多いこと、丸みとつやがあること、そして油やゴミなどで汚染されていないことです。この貴重な資源を絶やさないため、砂を持ち帰ったり、砂浜を汚さないようご協力ください。 』
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 北海道の地名などで片仮名で書かれたものはほとんどアイヌ語由来だという。イタンキ浜のイタンキもアイヌ語で「お椀」という意味だという。

 なぜイタンキ(お椀)が、砂浜の名に出てくるのかというと、次のような悲しい民話がある。
『 イタンキ浜民話
 昔、日高地方が不漁でコタンは飢餓になった。風の噂で、室蘭の絵鞆が豊漁だというので移住の旅に出た。途中の白老できくと、絵鞆は豊漁どころか天然痘の大流行で人間の住めるところではないそうだ。引き返すことも出来ずイタンキ浜に辿り着いた。
 ところが沖の方で波に見え隠れするクジラを発見、人々は狂喜し、クジラの寄るのを待った。流木を集め焚き火で寒さを凌いだが、クジラは近づかない。ついに焚木も尽きて持参したイタンキ(椀)まで燃やしたあげく、人々は飢えと寒さで死んだ。クジラだと思っていたのは沖の岩だった。 』

 私はこの地名伝説に違和感を感じたが、民話や伝説は得てして不条理なものだからそれほど気にも留めなかった。しかし、後に「銀のしずく記念館」の人から違う説を聞いた。これについては、「銀のしずく記念館」のところで記す。

 今日の見学を終えて、宿泊場所の道の駅「みたら室蘭」へ急いだ。
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 霧が出てきた。見える島は大黒島であろう。
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 白鳥大橋も風力発電のプロペラも霧で霞んでいる。
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 昨日泊まった道の駅「あぷた」の説明板にあったプロビデンス号が室蘭にも来航したようで、「プロビデンス号室蘭港来航200年記念碑」があった。
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 鎖国下の1796年(寛政8年)6月、ブロートン率いる帆船プロビデンス号が海図制作のために蝦夷地に接近した。ブロートンは内浦湾へ入り、噴煙を上げる山を見てこの湾をボルカーノベイ(噴火湾)と命名した。絵鞆に寄って、事故死した水夫オルソンを大黒島に葬った。
 大黒島は周囲500mの小島で、大正時代にはもうオルソンの墓は不明で、戦後に墓碑が再建されたそうだ。絵鞆には古くからアイヌコタンがあり、絵鞆チャシ跡もあるという。

 霧が少し晴れてきて、白鳥大橋(東日本最長の吊り橋)が見えるようになった。
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 対岸の工場地帯も見えるようになった。
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 白鳥大橋の名は、むかし室蘭港が白鳥澗(はくちょうのま・門の中は日ではなくて月)と呼ばれたことから名付けられたようだ。きっと白鳥が飛来していたのだろう。今はその面影は少しもない。
 室蘭の地名は対岸の室蘭本線「崎守駅」辺りの崎守が、アイヌ語でモルエラン(小さい坂をくだる道)と呼ばれていたことから名付けられたという。

 鉄の町室蘭は北海道有数の工場地帯だ。戦前は海軍軍需工場の色彩が濃厚だった。そのため昭和20年7月15日に、米軍による最後の大規模な艦砲射撃を受けた。戦艦ミズリーなど機動部隊13隻が攻撃をしかけ、午前9時30分から10時40分までに約800発が打ち込まれ、工場地帯は大きな被害を受け、被災民家1000余り、死傷者540余りにのぼった。

 道の駅「みたら室蘭」の隣にむろらん温泉「ゆらら」があったので入った。そこで旅のまとめをしたり、夕食を食べたり、サッカーワールドカップの前半だけを見た。前半までしか見なかったのは温泉が閉店の時間になったからである。  



6月20日(水)
 朝、起きて車から出ると石炭を燃やしたような臭いがした。私が住む近くにも久里浜火力発電所があり、朝風向きによっては石炭を燃やしたような臭いがすることがあるが、室蘭も空気はよくないようだ。(久里浜・浦賀はペリーが来航した所である)

 少し走ってセブンイレブンで朝食を買った。昨夜のサッカーワールドカップの結果が気になったので、スポーツ新聞を見ると日本が勝っていた。試合のはじめに相手側が退場者を出して、日本が一人多い状態での試合なのだから、これで勝てなかったら問題外である。それでも勝ったことで、気分を良くして車を走らせた。

 先ず、登別温泉へ行って湯沢神社に寄った。境内でエゾシカを見た。
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 地獄谷を散策するときには、まだ少し腰が痛かった。左手親指付け根の薄皮をむいた傷は瘡蓋が出来てきた。

 駐車代は500円であった。駐車場の係りの人に朝から入れる温泉がないか訊いて、「夢元さぎり湯」を教えてもらい、登別温泉に入った。
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 湯は白濁している。
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 この「夢元さぎり湯」も前はホテルであったようだ。
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 温泉に入って、湿布を貼り替えたら、腰がすごく楽になった。太田神社に登った時の後遺症から解放されつつある。

 海岸近くまで下ってきて、知里幸恵の墓に参った後、アイヌの資料が欲しかったので「銀のしずく記念館」に寄った。そこを管理している人と長く話した。特にアイヌ語について面白い話をいくつも聞けた。比較的安い資料も買った。

 イタンキ浜の民話の話になったとき、その人はイタンキ(お椀)を燃やしたのではなく、ある貝が卵を産むとき粘液を出して、それが砂と一緒に固まってお椀の様になった物を、アイヌがイタンキと呼んだことが始まりらしいと言っていた。
 アイヌ語には日本語にはない発音があるようで、片仮名で書くときも日本語表記ではつかわれない小文字をつかって表していた。例えば、植物の藤のことを「プンカル」と書いていたが、ルが小文字で書かれていた。
 日本人が英語のRとLの聞き取りが難しいように、日本人がアイヌ語をつかうときに間違ってつかっていることも多いようで、笑える話をいくつか聞いた。

 イタンキのことが気になったので、調べてみるとツメタガイが“砂茶碗”と呼ばれる不思議な形の卵を産むのだという。
 “砂茶碗”のサイズは小さめの飯茶碗くらいだという。ツメタガイの卵塊と言っても茶碗状のそれぞれが一つの卵というわけではなく、卵自体は非常に小さいが、砂と卵と粘液が混ざったもので“砂茶碗”が出来るらしい。黒くてゴムのようであるらしい。
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 ツメタガイは肉食の貝で、アサリの天敵なのだという。ツメタガイがいるとアサリは壊滅状態になるようだ。
 そこでイタンキ浜民話にある、「昔、日高地方が不漁でコタンは飢餓になり、風の噂で室蘭の絵鞆が豊漁だというので移住の旅に出た。」ということが気に掛かる。

 アイヌは狩猟採集を生業にする。狩猟採集であるがゆえに移動もする。アサリも含めて不漁になると飢餓になるのも当然で、獲物が捕れる場所に移動することで活路を開こうとすることも当然である。
 イタンキがツメタガイの卵塊と関係する“砂茶碗”のことであったのならば、イタンキ浜民話はアサリの不漁と関係した出来事と関連があるのかもしれない。しかし、ツメタガイも食べられるのだという。

 「銀のしずく記念館」の後に、白老のポロト湖畔にある国立アイヌ民族博物館に行ったが、工事中で見学できなかった。大きな工事で立ち入りが禁止されていた。2020年にリニューアルオープンするようだ。オリンピックの観光客を北海道にも呼び込もうとしているのだろうか。

 近くにスーパーがあったので、弁当や惣菜を買って昼食にした。ノンアルコールビールも飲んだ。

 白老はアイヌ観光の町とも呼ばれる。ポロト湖畔にあるポロトコタンには観光土産を販売している店が並ぶと聞いた。
 白老アイヌは日高西南部サルウンクル系統で、17世紀に酋長イベニックルが移住してコタンを形成した。板垣源治郎の書いたものに、「白老アイヌは古来御味方(おみかた)蝦夷として知られ……」とあるように和人との協力関係があり、1881年(明治14年)天皇巡幸の際白老に一泊、男女40人が熊送り・歌舞踊りを演じた。このため白老の名が全国に知られ数多くの学術調査が行われ、貴重な記録を残してきた。
 当時のコタンは白老駅南西500mで、国道36号線登別寄り海岸にあったという。戦後、観光ブームが起きるとコタンが市街地中心にあるため客と車を収容できず、古い家屋は防火上危険との行政診断から、昭和40年にポロト湖畔へ集団移住し、現代版コタンの成立となった。
 この現代版コタンでのアイヌ観光は、その後アイヌ解放運動との関連で見直される気運が高まり、体質改善を迫られているようだ。2020年の国立アイヌ民族博物館のリニューアルオープンもそれと関係しているのかもしれない。
 地元のアイヌ関係者に聞いた話では、見せ物的なアイヌ観光には問題があるが、一部のアイヌがそれで生計を立てているのも事実だという。

 昼食を食べてリフレッシュし、錦岡の樽前山神社に寄った後、苫小牧の樽前山神社に行った。2つの樽前山神社の規模の違いに驚いたが、現在の姿をもって神まつりを判断してはいけない。

 苫小牧の樽前山神社から国道276号線(樽前国道)を走り、支笏湖へ向かった。残念ながら支笏湖は霧で見えなかったが、千歳川の流れ出す場所は確認した。
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 少し霧が晴れてきた。この橋は「湖畔橋」で、流れ出す川は「千歳川」である。
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 湖畔橋の上から支笏湖の方を撮ったが、まだ霧でよく見えない。
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 支笏湖は日本最北の不凍カルデラ湖である。地熱が高いから凍らないようだ。苫小牧から少し上がってきたが、水面標高が248mある。水深が360mあるので湖底は海水面より低い。驚くべき火山活動である。
 カルデラ湖は円形が多いが、恵庭岳、風不死岳、樽前山などの火山がカルデラ形成後にできたため、湖は東西に長いマユ型をしている。

 千歳川に沿って県道(道道)16号線(支笏湖スカイロード)を下り、今日の宿泊場所である道の駅「サーモンパーク千歳」へ行った。この川は石狩湾から石狩川を通り千歳川へと鮭が遡上する路でもある。
 サケ・マスの孵化場がある蘭越には名水100選にも選ばれているナイベツ湧水があり、千歳川対岸の林の中には、擦文時代の竪穴住居跡群があり墳墓遺跡もある。また、やや時代の新しいチャシ跡もある。なかでも、ウサクマイ遺跡の墳墓からは、擦文土器の他に蕨手刀などの金属器も発見され、古い時代のアイヌの歴史を探る貴重な資料とされる。

 チャシは砦とも霊送りの場ともいわれるがよく分かっていないようだ。
 私は、アイヌ文化の一部は縄文からの伝統を引き継いでいるように感じる。縄文遺跡は北海道だけでなく日本各地に存在する。東日本にはアイヌ語由来の地名などがあるが、私は茶臼山もそうではないかと考えている。
 茶臼山はいろいろな場所にあるが、別に茶臼の形をしているわけではない。しかし、近くに古墳が造られていることが多く、茶臼山古墳などの名も散見される。この茶臼山の名はアイヌ語のチャシからきているのではないだろうか。


 道の駅「サーモンパーク千歳」の横には千歳川が流れ、親水公園のようになっていて子どもたちが遊んでいた。
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 道の駅ではパソコンを持ち出し、旅のまとめと今後の計画を立てた。

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