旅109 神魂神社(かもすじんじゃ)

2012年 4月29日 No.5
神魂神社(かもすじんじゃ)[大庭大宮(おおばおおみや)]
 島根県松江市大庭町にある神社。旧社格は県社で、意宇六社の一社。通称「大庭の大宮さん」の名で親しまれている古社。「大庭」という地名は神様の祭りごとをする場所のことだという。神魂(かもす)という社名の由来については、神坐所(かみいますどころ)や神縁結(かむむすび)などの言葉から転じたものとする複数の説がある。
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 意宇六社(おうろくしゃ)とは、意宇郡(おうのこおり=現在の松江市、安来市、八束郡、能義郡)に鎮座する神社のうち、熊野大社、真名井神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社、揖屋神社の6社を指し、この6社を巡礼する事を「六社参り」と呼んでいる。今回の旅で図らずも熊野大社、八重垣神社、神魂神社の三社を参拝した。またの機会があったら残りも参拝してみたい。ここで問題にしたいのは、意宇郡は出雲国の国府が置かれ、古代においては神都として執政の中心地だったと云うことだ。その執政の中心地に鎮座していることは重要な意味がある。
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 社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられている。
 近くの熊野大社、八重垣神社、六所神社とともに意宇六社の一つに数えられ、格式も高い当社が、なぜ「延喜式」にも「出雲風土記」にも記載がないのか。この謎は、隣に出雲国造家の屋敷跡もあり出雲国造家とつながりが深く、私斎場的ものであった為ではないかと見られる。実際には大和朝廷からつかわされた役人の私的な宮だったのだろう。

 社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として、元正天皇霊亀二年(716)に至る25代果安国造まで祭主として奉仕し、元明上皇の勅令により西65kmの杵築の地に出雲大社が創建されると、祭主として大社に移住した。
 従って、現・出雲大社の最高の神官である「出雲国造」(千家、北島両国造)は天穂日命の子孫(正確にはその子である建比良鳥(タケヒラトリ)が出雲大社の祭主である出雲国造の祖先)となっている。出雲大社は大国主を祀っている。つまり、大国主を祀っているのは大国主命の子孫ではなく、天穂日の一族(千家・北島家)が祭祀を行っていることになっており、これが大国主の祟りを鎮める役目を続けているとも考えられる一因になっている。
 この神社の創建者は天穂日となっている。古事記によると、天穂日は天照大御神の第二子とされ、天照大御神が葦原の中つ国を、わが子の天忍穂耳に譲るように大国主の所に遣わした最初の神だが、出雲の神々に同化して高天原に復命しなかった神だ。天穂日の次に大国主の所に遣わされた天若日子は、同じく天照大御神を裏切ったため殺されている。しかし、天穂日の子である建比良鳥(タケヒラトリ)は出雲大社の祭主である出雲国造の祖先となっている。天穂日は大国主に信服して出雲側の神になっていったようだ。出雲国造家は熊野大社を祀ってきた。律令時代になり国司が任命され、出雲の新たな主として送り込まれてきてた時、出雲国造は郡司になって国司に仕えた。こうして出雲国造は律令制度の中に取り込まれ、やがて出雲大社の神官となり大国主を祀ることとなったのだろう。
 現在の神魂神社の宮司秋上家は出雲国造家の分家なのだろうか。秋上家は創祀以来連綿として奉仕し、出雲神話、伝説などを伝え、古文書などの重要文化財を多数保存、神秘な祭事、特種な祈祷などを伝承しているという。

 『古事記』では出雲の国譲りの場面で大国主は「子どもと同様、私は背きません。この葦原中国を献上しましょう。ただし、私の住まいだけは、天つ神の御子と同じように、大きな岩の上に宮柱を太く建て、氷木(千木)を高くそびえさせていただきたい。そうすれば私は、出雲に隠れ、おとなしくしていましょう。」と言っている。この要求を裏返せば、「この通りにしないと、おとなしくしないぞ(祟って出るぞ)」という脅迫でもある。それまで、この神魂神社で朝廷の命を受けた出雲国造が大国主の魂を鎮めてきたが、奈良時代の初期、記紀が成立する頃、記紀の内容に真実みを持たせるため、朝廷により当時の建築技術で最高の高さを求めた杵築大社の建設となったのだろう。そして、国造家も杵築へ移っていったと考えてよい。
 
 本殿は現存する最古の大社造建造物であり、大きさは三間四方高さ四丈あり、床が高く、木太く、特に宇豆柱が壁から著しく張り出していることは大社造の古式に則っているとされ、昭和27年3月に国宝に指定された。昭和23年の修理の際に、柱から正平元年(1346年)の墨書が見つかったが、現在の社殿は天正11年(1583年)の再建と考えられている。
 本殿を見ると大きな石の上に太い柱が建っていて、大国主の要求通りの設計に見える。多分、創建当時はその時代の建築技術で最高の高さで造られたのだろう。1583年の再建のときには規模は小さくしたが、形だけは踏襲されたと考えてよい。出雲大社が創建される時、当社の倍率に設計されたとの社伝がある。
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 本殿は国宝だ。島根県の国宝は多くはない。建造物ではこの神魂神社本殿と出雲大社本殿だけだ。工芸品としては秋野鹿蒔絵絵手箱(あきのしかまきえてばこ)、白糸威鎧(しろいとおどしよろい)の2点。考古資料として荒神谷遺跡出土品(380個:銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16個)、加茂岩倉遺跡出土品(銅鐸:39個)2件。計6件である。しかし、銅鐸については国指定のものは全国で4件59個だが、その内45個が加茂と荒神谷から出土している。
 本殿は一見したところ、白木造りのように見えるが、昔は彩色されていたと言われ、屋根裏あたりにかすかに痕跡が残っているという。しかし、何だか彩色された状態を想像できない。神社建築様式は,だいたい8種ぐらいに分類される。その中でも神社の大半は大社造もしくは伊勢神宮に代表される神明造で占められている。この二つの様式は、屋根が「切り妻」、その上に千木と堅魚木を載せる等、共通点が多いが、大社造と神明造では、入り口の位置に大きな違いがある。大社造は,切った側に入り口のある「妻入り」であるが、神明造では、棟と平行な面に入り口のある「平入り」となっている。南北朝の頃、天孫系の神社は平入り、国津神系の神社は妻入りと定められたと言われているが、必ずしも統一されている訳ではない。また、千木と堅魚木についても僅かであるが違いがある。千木とは、屋根の上で剣を二本斜めに交差させたような飾り木のことであるが、この千木が神明造では破風の一部としてそれが延長して突き出ているが、大社造では別材で造られたものが載せられている。また、堅魚木は棟の上に置かれている文字通り鰹節の様な飾り木であるが、神明造では9本ないし10本、大社造では3本が載せられている。
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 神魂神社・本殿内部には極彩色の壁画があるが、普段は拝観できない。狩野山楽土佐光起の筆とも伝えられる大壁画九面にて囲まれているという。出雲国造神火相続式の図・舞楽図、神有祭に因む佐太神社、加賀の潜戸図などの壁画が描かれている。天井は九つの瑞雲が五色に彩られているという。内陣の御内殿は出雲大社とは逆向きだという。出雲大社の本殿の天井にも瑞雲が描かれているそうだが、こちらは七重雲だという。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌から、瑞雲は八重雲が考えられるので、出雲大社の瑞雲の一つが神魂神社に飛んできて、出雲大社は7つ神魂神社は9つになったという伝説があるという。

 祭神は現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしているが、これは中世末期ごろからのものである。寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見える。従って出雲大社ができて遷るまでは大国主命(大己貴命)が主祭神であったと考えてよい。
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 出雲では神在祭が行われる神社がいくつかあるが、ここもその一つだ。毎年十月に祭神の伊弉冊大神の祭をするために全国の神々が集まるというが、本来はスサノオやオオクニヌシの元に集まる祭りであったと考えるのが自然だ。神紋は二重亀甲に「有」の文字だが、これは神様が集まる神在月(かみありづき)の十月の字の十と月を合わせたものとされている。
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 二間社流造の社殿は重文だ。貴布禰社と稲荷両神杜本殿だという。桃山時代の建築様式の二間社流造で、全国に一間社、三間社流造は類例が多いが二間社は類例が少ないという。流れ造りそのものが出雲地方では珍しいそうだ。

 出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた。今も秘密裏に国造就任の印綬とも云ふべき神代ながらの神火相続(おひつぎ)式、並に新嘗祭は当社に参向して行われているようだ。
 出雲国造は、祖神の天穂日命の霊を引き継ぐ。それが火継神事(「神火相続式」「古伝新嘗祭」)だ。出雲国造が危篤になったところから神事は始まる。
 まず、出雲大社から神魂神社に、神火相続(おひつぎ)の準備を始めるようにと使者が出される。国造が亡くなったら、これを秘匿するために国造に普段通りの生活をさせる。生きていることが前提なので食事も用意する。天穂日命から継承されてきた旧国造の霊は、新国造に引き継がれるのであって、国造は死にもしなければ生まれもしないのだ。だから、国造が死んだことを公表できない。
 嫡子は急いで裏門から飛び出し、一路神魂神社を目指す。直線距離でも40kmある。今なら車ですぐなのだが、車のない時代は走るのだから大変だ。しかも、他人に知られてはならない。天穂日命の霊を引き継ぐためにはマラソンランナー並の体力が必要となる。考えるだけで少し笑えるのだが、本人は必死だろう。

 必死のおもいで神魂神社に着いてからも、すぐ参籠所に入り、火鑽臼と火鑽杵でつくった神火を受け取り、五つの火桶に移す。これが火継神事の「火」ということになる。何だかオリンピックの聖火に似ている。この聖なる火を「別火」と呼び、この神火と神聖な井戸の水を用いて神饌をつくり、神に捧げ、国造もこれを食す。昔の国造は、生涯この別火によって作られた賄い以外は口にしてはならないと決められていたという。また、家族と同じものを食べることはなかったという。
 現在の国造は多分チョコレートもアイスクリームも食べているのだろう。しかし、国造になると出雲の国を出ることがなく、旅行にも行かないともいわれるので、厳粛な生活を送っているのかもしれない。旅行に神火を持っていって食事を作ることは難しい。

 出雲国造は火継神事で天穂日命の霊を引き継ぐが、一方で大国主でもあるという。第82代出雲国造・千家尊統さんは本の中で「出雲国造は“火継ぎ”によって天穂日命の霊を引き継ぎ、天穂日命そのものであると同時に、天穂日命として大国主神に奉祀する国造は、祭儀の上では、大国主そのものとなって振る舞う」と言っている。

 天穂日命は天照大神の第二子だという。天照大神の末裔とされる天皇家も大嘗祭で「日継ぎ」の神事を行う。大嘗祭では「童女井」の神水を汲み、神聖な火をおこして神饌をつくり、神に捧げ、天皇も共に食す。出雲国造は「火」を継ぎ、天皇は「日」を継ぐという違いはあるが根本原理は似ている。しかも、天皇家の神事は物部氏の神事を踏襲しているという。物部氏が祀っているのは三輪山の大物主神である。つまり、天照大神の末裔たちは出雲神を祀っているのだ。

 『先代旧事本紀』によると崇神天皇の時代に、天穂日命の11世の孫が出雲国造に任命されたのだいう。崇神天皇は三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせた天皇でもある。千家尊統さんが言うように天穂日命は大国主でもあると同様、天皇家(天照大神の末裔)こそが出雲であり、出雲から国を奪った勢力がその祟りに耐えられなくなり、出雲と血で繋がる天皇家を大和の中心に迎入れ、祟りをおさめるための祭祀を行ったのではないか。
 古代においてはアニミズムが信仰の中心であり、神は豊饒をもたらしてくれると同時に天災や疫病をもたらす両面を兼ね備えていたと考えられる。今年の梅雨は梅雨前線の停滞などの影響で九州地方に大雨の被害をもたらしている。雨は降らないと困るが降りすぎても大変なことになる。古代の人たちは自然現象も神のなせる技だと思い、感謝したり恐れたりしたのだろう。

 人間の霊に対しても畏敬の念が強く、やましい気持ちがあればなおさら祟りを恐れたり、禊ぎに精を出したりしたのだろう。出雲やその後の祟り神を恐れたのは天皇家ではなく、天皇家を利用して為政者として君臨しようとする勢力ではなかったのか。勿論、時には天皇家もその勢力に与したとして祟られたこともあっただろう。
 記紀が成立した時期の朝廷の実力者は藤原不比等だといわれる。思えば奈良・平安と続く時代は藤原氏が自家の都合で消し去った過去の名族や藤原氏によって新たに陥れられて祟り神になった神々との祟りと鎮魂の歴史だったように感じる。
 律令制度を形作った藤原不比等の優秀さは認め、時代の流れとして律令制度が導入されたのはよいとしても、律令制度を私した藤原氏は許されない。聖徳太子は「和(やわら)ぐを以て貴しとなす」と言い、違いを認め合いながら議論を尽くし、みんなでまとまることの大切さを説いた。自分の家だけのことを考え私利私欲に走る藤原氏は、歴史の中で一番非難されてもいい一族だが、一番ずる賢い一族でもあった。天皇(ある意味での権威)の影に寄り添うことにより批判をかわしてきた。そして、このような方法論を学び選択した人々が勝ち組になっている。

 本当は出雲も高天原も「和(やわら)ぐを以て貴しとなす」を実践できる資質を十分備えていると私は思う。しかし、人間の中には対立構造を構築してその中で活き活きと自己実現するタイプの人がいる。学校でも職場でも派閥を作り牽制し合う。古くて新しい聖徳太子の理想は、やはり理想のまま終わるのだろうか。共生共存の時代が標榜されて久しいが、問題は人の心の中にあるのだから厄介だ。
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 出雲国造には英雄がいる。それは天穂日の14代の孫で相撲の始祖といわれる野見宿祢(のみのすくね)だ。彼は当時大王が亡くなると奴婢などの殉死の弊風があったのを改めて埴輪(埴土)に替える様にしたという。
 垂仁天皇は、野見宿祢が怪力であることを聞き、当時大和で日本一の大力と豪語する當麻蹴速(たいまのけはや)と角力させんと勅使を当大庭に遣わし宿祢に伝えさせた。爾来、宿祢は当社に参籠、必勝を祈る内に、神夢に依って、裏山へ奇岩、怪石を累々と集めて力試をし、天磐座大神を祀り、信仰によって自信を深めた。そして、遂に蹴速を倒して天皇の親任を得たという。此の磐座には宿祢の全智全能がこもっていて角力の祖神として、勝負事(運動競枝)事業(土木、建築、相場)商売繁昌、勉学、夫婦和合、授児などの霊験ありと信仰されている。

 野見宿禰の埴輪伝承に見られるように大和朝廷で葬送儀礼・陵墓築造・埴輪などの祭祀土器製作などに従事した氏族がいた。それが土師氏である。土師(ハジ・ハニ)氏について、新撰姓氏禄には“土師連・土師宿禰”を名乗る神別氏族として6氏を挙げるが、何れの氏族も天穂日後裔とし、なかには14世の孫・野見宿禰から出たとするものもある(山城国・和泉国-土師宿禰)。後(天応元年781)に“秋篠氏”・“菅原氏”・“大江氏”の3氏に分かれている。そのひとつ菅原氏から出たのが「菅原道真」である。そして、藤原氏に陥れられた菅原道真は天神として最強の祟り神になる。
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 神様を迎える聖なる場所、神籠(ひもろぎ)かもしれない。 

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