旅 238 名古屋城

2012年 5月17日 No.4
名古屋城
 名古屋城は愛知県名古屋市中区にある城である。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
画像

 伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われているように、名古屋へ来たからには名古屋城は素通りできないと思い寄ってみた。時間の都合でゆっくりできないし、本丸御殿復元工事の最中でもあり、今回は下見のつもりで天守閣に上るだけでもいいと考えた。それとこの旅で熊本城を見学したので、加藤清正が築城に携わった名古屋城の石垣も見ておこうと思った。
 名古屋城は姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられることがあるが、日本三名城そのものが主観であり、国宝でもないこの城が果たして三名城に値するかは各々の判断に任される。空襲で焼ける前の名古屋城は国宝にも指定され、間違いなく三名城だったのだろう。(姫路城は国宝でもあり世界遺産にも登録されているので名実ともに名城だろう。私はまだ行ったことがないので訪れるのが楽しみである。)

 駐車場への入り方が分からず、周辺をぐるぐる回ってしまったが、何とか正門前有料駐車場に入れた。案内図にある正門から入城した。(観覧料500円)
画像

 正門は明治43年に旧江戸城内の蓮池御門を移築したものだったが、空襲で焼失したため、昭和34年に天守閣と共に再建されたものだ。

 現地案内板より
『 名古屋城の概要
 名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また大坂(現大阪)方への備えとして清須(現清洲市)から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工、17年(1612)に完成させた代表的な平城です。
 普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれの運んだ石に刻んだ目印(刻紋)が多数残っています。その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
 明治にはいり陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930)12月、離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。
 昭和20年(1945)5月の空襲で大小天守閣と本丸御殿などが焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁画1,047面が国の重要文化財に指定されています。昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。 』

 現在残る尾張藩時代の建物は6棟(西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓、表二之門、二之丸大手二之門、旧二之丸東二之門)のみ。すべて重要文化財である。
画像

画像

画像

現地説明板より
『 石垣の勾配
 名古屋城天守閣の石積みは、上部で外側にそりだした「扇勾配」の技法が取り入れられている。これは加藤清正が担当して築いたので、特に「清正流三日月石垣」と云われている。この技法は、石垣を内面に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるためである。 』

 場違いなものもあった。
画像

 現地説明板より
『 石棺式石室
 島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があって、手前に羨道(石室への通路)を備えていた。古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室である。
 寄贈者 名古屋市 長谷川祐之氏 』
画像

現地説明板より
『 不明門(焼失再建)
 多門塀の下をくぐる埋門で、本丸御殿の大奥へ通ずる秘門であり、常に鍵が厳重に施され、別名「あかずの門」と云った。壁は外部の軒桁を忍返しにした「剣塀」である。昭和20年5月14日、空襲で天守閣などとともに焼失、昭和53年3月、原形の通り再建した。 』
 写真をクリックして大きくすると分かるが、軒桁に30cm余りの槍の穂先を並べて忍返にしたものが「剣塀」だ。
画像

不明門を入って見上げると大天守に上げられた金の鯱(金鯱・きんこ)がよく見えた。金鯱は城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。江戸時代には回りに高い建物がなかったので、かなり遠くからその輝きが見えたという。

 大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6m。加藤清正が築いた19.5mの石垣の上に鉄筋コンクリート造りの建屋36.1mが建つ。18階建ての高層建築に相当する。大天守閣内部は地下1F地上7F建て。1Fから5Fが展示室になっており、エレベーターが最上階の展望台まで運んでくれる。
画像

 天守閣への出入口は昔同様に一ヶ所しかない。しかも小天守閣(地下1F、地上3F)を通らねばならない。天守閣と小天守閣は橋台(きょうだい)という通路で結ばれ、橋台の外側(西面)には30cm余りの槍の穂先を並べ、忍返しとして使われた剣塀(つるぎべい)になっていて外部から簡単には入れない。

 “尾張名古屋は城でもつ”と詠われたように、名古屋の人々にとって名古屋城と金鯱は名古屋のシンボルとして欠かせないものだったようだ。昭和20年空襲で焼失したが、敗戦から10年も経たない1954年(昭和29年)には名古屋市民から声があがり名古屋城再建基金が始まった。
 1957年(昭和32年)名古屋開府350年、名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組(はざまぐみ)により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったが、焼失で傷んだ石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とした。1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
 再建大天守は5層7階、城内と石垣の外側にはエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子でも5階まで上がることができるバリアフリー構造となっている(5階から最上階展望室までは階段のみ)。外観はほぼ忠実に再現されたが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓と意匠が異なる。
 竣工式は1959年(昭和34年)10月1日であった。大々的に行う予定が、伊勢湾台風襲来直後だった為に極めて簡素な形で挙行された。
 工事を請け負った当時の間組社長は豪放磊落というか傍若無人というか変わった人だったようだ。正門が竣工した時など、ひいきの芸者衆それも30人か50人かに見せようとしたので、名古屋市建築局の関係者が慌てて止めたそうだ。金鯱を設置するとき加藤清正がサラシに巻かれた鯱に乗って屋根まで釣り上げられたという伝説があったが、自分も加藤清正と同じ様な事をやろうとして一悶着おこしている。
 実際、シャチに巻かれたサラシが解かれる日、職員の目を盗んで天守閣の上で堂々と「奉納碁」をやってのけている。この時は名古屋市建築局の人も工事用のエレベーターで知らないうちに上がられてしまって全く気が付かなかったとか。工事用のもうせんを引いて、日本棋院の島村八段を相手に堂どうと碁を打ち、おまけに事前に新聞社に連絡がしてあって、その写真が新聞に載ったので関係者は大いに迷惑したという。
 シャチの目にダイヤモンドを入れたいと言い出したのもこの人だ。「正確な復元」を主張する市側の猛反対で実現せず、その夢は会津若松城で断行されることになる。
 この間組社長、東宮御所の建築をたったの1万円で落札して話題を呼んだこともあり、名古屋城も4億を切る価格で入札、「あまりにも安過ぎる」と逆に話題になったほどだ。

 天守閣の中にはいろいろな展示品があった。
画像

画像

長い銃は全長249cmある。これらの火縄銃は近江の国友村(滋賀県長浜市)で作られたものだ。国友村は、堺とならぶ鉄砲の一大生産地で、多くの鉄砲鍛冶がいた。
画像

画像



 那古野城(名古屋城)は織田信長が生まれて城だと云われる。ここで名古屋城と織田信長についての歴史をまとめておく。
・大永年間(1521~1528) 駿河国の守護今川氏親(義元の父)、尾張進出のため「柳之丸」を築き、子の氏豊の居城とする。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。城と呼ぶには規模が小さく、「柳之丸」と云っていた。 
・1532年3月 織田信秀(信長の父)、今川氏豊から「柳之丸」を奪ってこれに移り、「那古野城」と称する。
・1534年  織田信長、「那古野城」に生まれる。(異説あり) 信長が3才になると、信秀は古渡城(現 中区東別院境内)に移り信長を城主とした。幼名を吉法師のちに三郎と呼ばれた信長はのびのびと育った。そして後見役の平手政秀らが政務を代行しながら、信長の教育にあたった。
 信長が元服したのも那古野城時代の天文15年(1546)、父の居城、古渡城に出向き、元服式を挙げている。織田三郎信長と名乗ったのはこの時以来である。
 若い頃より奇行が始まる。髪は抹茶たてる茶せんのように結び、半袴、腰に巻いたしめ縄に朱色の太刀をさして町を闊歩した。朝夕、馬を乗り回し、家来たちに竹槍で試合をさせたり、夏は付近の川で泳いだりの毎日だった。
 天文17年(1548)、美濃の斎藤道三の娘、濃姫と結婚したが、「尾張の大うつけ、大馬鹿者」という評判は近隣にも伝わっていた。
 道三は濃姫を嫁にやる前、「本当に大うつけならこれで刺せ」と短刀を手渡したという。濃姫は「父上を殺す刀になるかもしれません」と言葉を返し、道三をうならせている。
 そんな濃姫との新婚生活も、那古野城が舞台だった。
・1555年4月 信長22歳の時、清洲城の織田信友を攻め滅ぼして、清洲城へ入る。織田信友は守護代で尾張清洲城城主だった。主家・斯波氏の当主・斯波義統を傀儡の守護として擁立していたが、義統を暗殺した。義統の子・義銀は信長を頼り逃亡。信長の家は元々は織田信友の家の家来筋であったが、信長相続の時、信友に干渉されて関係は冷え切っていた。織田信友は斯波義銀を擁した信長の反撃を受けて滅びる結果になった。
 那古野城には叔父(父信秀の弟)の信光が城主となったが12月に変死する。一説には邪魔な存在になったので信長が家臣に殺させたともいわれるが、変死の翌年廃城となった。那古野の台地に再び活気が戻るのは約半世紀後の名古屋築城時である。  
・1560年5月 信長、桶狭間の戦いで今川義元を破る。
・1567年8月 信長、美濃国稲葉山城(現岐阜城)の斎藤竜興を攻略、居城をここに移す。
・1576年2月 信長、近江国安土に新城を築き居城とする。
・1582年6月 明智光秀、本能寺の信長を襲う。(本能寺の変)
・1584年   小牧・長久手の戦い。豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が戦う。
・1598年8月 秀吉、伏見城に没する。
・1600年9月 関ヶ原の戦い
     10月 家康、第四子松平忠吉を清洲城主にする。
     11月 家康の第九子義直、大坂城で生まれる。
・1607年3月 松平忠吉、江戸で病死する。
    閏4月 家康、義直を清洲城主にする。
・1609年11月 家康、名古屋城築城を決定する。
・1610年1月 名古屋城普請始まる。
     8月 加藤清正、天守台を完成する。
     12月 本丸、二の丸、西の丸、御深井丸の石垣の工事がほぼ完成する。
・1612年12月 天守閣が竣工する。
・1614年10月 徳川義直、大阪冬の陣へ出陣する。(14歳)
・1615年2月 本丸御殿完成。
     4月 徳川義直、紀州藩主浅野幸長の女・春姫と結婚。
     4月 徳川義直、大阪夏の陣へ出陣する。
・1616年4月 徳川家康、駿府城で没する。享年75。


 名古屋城の普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一(小堀遠州)ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。
 石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の20人の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し延べ558万人の工事役夫で僅か1年足らずで石垣を完成させた。
 城の大部分は名古屋台地の上に築かれてはいるものの、二之丸の北部と本丸、御深井之丸の一部は、台地北部の沼地に張り出し台地面まで高くして造られた。木材などで敷地を固めるのは、大変な物入りであったという。
 名古屋城築城が始まったのは慶長15年(1610)のことである。まず堀や石垣を築く土木工事(普請)から始まった。家康は外様大名二十名に手伝い(助役)を命じた。手伝いとは名ばかり。工事費用はすべて大名が負担し、家康は口は出すが金はビタ一文も出さない。指名された大名は莫大な量の資材を人夫ともども国元から運ばねばならず、一度指名されると、相当な大藩でもやせ細るといわれた。家康の狙いは指名した大名の藩財政を窮乏させる事にあり、指名を受けた二十大名は、いずれも以前豊臣方に通じていた外様大名ばかりだった。前年別の城の築城を手伝ったばかりの福島正則が「もう国に帰る」と言い出したのも無理はない。ところが普請総大将の加藤清正は「お手伝いが嫌ならすぐに国へ帰って謀叛を起すがよい。それが出来ないなら、軽はずみな事を言うな」と一喝。正則がしぶしぶ納得したエピソードが残っている。
 5月、工事分担表が発表され、指名された諸大名たちは二度びっくりした。工事区分が非常に細かく分割され、しかも同じ大名の現場が少なくとも2、3ヶ所、多いところは10数ヶ所に分散されている。工事区分をわざと複雑に分けて境界部分の大名同士がケンカしやすいようにする。そしていさかいを起せば御家の取り潰し、あるいは小藩への移封ができると読んだ家康らしい深慮遠謀だった。
 秀吉の又従兄弟にあたる加藤清正は戦に強く、家康ににらまれる条件が充分である。ひたすら恭順の意を示すため、もっとも費用のかかる大小天守台の土木工事を自ら進んで申し出ていた。ところが細かく区分された工事分担が発表されると、「肥後殿(清正)だけが1ヶ所の現場で逆にもうけた」とうらやましがられる始末である。
 大名たちは石垣に使う大石を各地から必死に集めた。そして苦心して集めた石が盗まれない様、それぞれの大名の刻印を打った。また担当箇所の境界の石に印を付けて間違えないようにした。城内の石垣に象形文字のように刻まれた文様は、外様大名たちの苦心の跡である。
 普請は夜、昼を問わず突貫工事で行われ、清正が受け持った大小天守台は3ヶ月ほどで完成した。完工検査が行われたが、大天守の四隅の目立つ大石に工事を担当した清正の家臣たちの名が刻んであった。不審に思った検査の侍が問いただすと、清正は「石が盗まれないため」と答えた。「目印にしては丁寧に彫ってあるな」と検査の侍は皮肉をいいながらも、そのまま認めた。家臣たちの苦労を後世に伝えたい。清正の意地の刻印は現在でも天守台の石垣にくっきりと残されている。
 天守台以外も、ほとんどが年内に工事を終えて、大名たちはやれやれと国元へ帰りひと息ついた。
 しかし、外様大名に安泰はなかった。元和5年(1619)、福島正則は、広島50万石を没収され、川中島へ追放される。
     ( 関連記事 福島正則 旅75 岩松院 )
 元和5年(1619年)の福島正則改易に伴い浅野家が紀州藩から安芸国広島藩に移されると、それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀州徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。

 名古屋城石垣の普請が終った翌年(1611年)3月、加藤清正は二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。死因は色々推測されているが、その一つに毒殺説もある。
 清正が没したあと長男忠広が後を継いだが、寛永9年(1632)、清正にとっては孫にあたるわずか14歳の光広の冗談話が幕府にもれてしまった。謀叛をたくらんだという罪で加藤家は熊本52万石を奪われ、庄内へ移封される。飛騨高山へ流された光広は責任の重さにうちひしがれ、餓死同然でまもなく果てたという。
 手伝った普請大名二十家のうち、明治維新までそのまま残ったのはわずか十二家という。


 金鯱は名古屋っ子にとっては誇りで、Jリーグクラブに「名古屋グランパス(grampus)」があるが、グランパス(grampus)は広義でシャチを指すという。名古屋城とセットで親しまれる金の鯱(金鯱・きんこ)にも受難の歴史があった。
画像

 金鯱の鯱(シャチ)は海に住むシャチではなく、雨を呼び、波を起こし、水を吐くという中国の伝説上の魚である。木造の建物は火災に弱く、防火のまじないとして室町時代あたりから城や寺院など大規模な建物の屋根の両翼にシャチを置くようになったようである。ほとんどは木の芯に青銅を貼ったり、土瓦など地味なものだった。ところが安土桃山時代あたりから、城は防衛のための砦であるとともに城主の威厳を誇示するものとなり、金銀いたるところに散りばめられるようになった。
 織田信長は派手で、清洲城に金の鬼瓦を使ったり、安土城に城として始めて金のシャチを乗せるなどしている。しかし、黄金好みの豊臣秀吉によって造られた大阪城や伏見城はなかった。
 名古屋城よりわずか数年前の江戸城築城の際にも、徳川家康は天守に金シャチを置く事を思いつかなかった。それなのに名古屋城の天守閣には金シャチを飾っている。現在でも全国に名城は多いが、なぜ名古屋城だけ金のシャチホコなのだろう。
 大棟の両端に装飾をつけるのは、中国では宋代、日本では室町の頃からの事で、飾るシャチを金にした例は名古屋城以前にもあった。名古屋城だけが、江戸時代を通じて残ったのだという。
 1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。鯱は雄雌一対で、天守の北の雄は八尺五寸(約2.58m)、南の雌は八尺三寸(約2.51m)。鱗は雄が194枚、雌は236枚。心木(軸)はカヤ材、銅などの金属で下地を作り、その上に金を貼った。
 徳川家康が天守閣に金シャチを乗せたのは、いざ戦争という時の軍資金にする狙いもあったとも、家康が溺愛した九男の義直のために将来財政に困った時のことを考えてとも云われている。いずれにしても金鯱(きんこ)は金庫だったのである。しかし、この金鯱は天気の良い日にはかなり遠方からでもその輝きが見え東海道の旅人の土産話と、城下の住人の誇りになった。
 名古屋城の金鯱は有名だが、誰がどうやって造ったかとなると全く分っていない。いわば一種の埋蔵金のようなもので、どうも極秘にされた形跡がある。しかし、埋蔵金なら秘密にできるが在処が分かっているお宝は手が付けられる。
 最初は享保11年(1726)六代藩主継友(つぐとも)の時代に「せっかくの黄金を雨ざらしとはもったいない」ともっともな理由をつけ、うろこをはずして改鋳した。
 おりしも将軍吉宗が物価取締まり令を公布した年で尾張藩も倹約令を布き、富商に御用金を収めさせるなど財政立て直しに懸命だったとも、江戸の大火で尾張藩邸が類焼し、その再建の為に多大な費用がかかったためとも云われている。
 約100年後、文政10年(1827)の改鋳がもっともひどかった。前年に破損したので修理したばかりだが、藩財政窮乏のため、「本磨きは黄金さんさんとして、かえって優美でない。半磨きは黄金にして光輝温瀾」と訳の分からない理由をつけて改鋳した。改鋳でうろこが風に吹き飛ばされたり、鳥につつかれる恐れが出るほど薄かったので、金シャチの周りに金網が張られた。しかし、縁起が悪いし格好も悪い。金網を取り払おうという意見が出た。ところが半磨きまで改鋳したため、取り払うどころか、より頑丈な金網が必要になるほどやせ細ってしまった。改鋳は弘化3年(1846)にも行われた。
 計3度にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けたため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。幕末の金シャチの輝きは、藩の威光と同じく風前の灯火だった。
 この金網は、表向きは盗難防止や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。
 1869年(明治2年)、版籍奉還が行われ、第16代藩主徳川義宜が藩知事になる。
 1870年、徳川慶勝(徳川義宜の父)、名古屋城を取り壊すこと、金鯱を宮内省へ献納することを決定する。
 1871年、金鯱が地上に降ろされたが、監視に当っていた陸軍名古屋分営番兵が3枚の鱗を盗み処刑される。二之丸御殿が取り壊された。
 1872年、雄鯱が東京湯島聖堂博覧会へ出品される。その後、雄鯱は石川・大分・愛媛などで開催された博覧会へ出品。雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。ウイーンから帰国の船旅の途中の明治6年(1873)乗っていた船が伊豆沖で沈没したため「金シャチ遭難」と一時は騒然とした。しかし香港で積み替えられていたため難を逃れるというオマケ付けの外遊だった。
 1872年5月、東京鎮台第三分営(名古屋鎮台)が名古屋城におかれる。天守閣と本丸御殿が壊される噂を聞いた在日ドイツ公使M.フォン・ブランドが、名古屋藩知事と政府に取り壊し中止の強い勧告を行った。もともと取り壊しを惜しむ地元の声も強かった。徳川慶勝藩知事は解体を思いとどまり、宮内省へ献納することにした。
 そんな中、金鯱は流浪の旅を続けていた。雌鯱は帰国後、東京の博物館に納められ一休み、雄鯱は明治7年(1874)名古屋市中区の東本願寺名古屋別院で開かれた博覧会に里帰りしたあと、東海・北陸道など各地を転々とした。この間も盗難の被害は続いた。1876年(明治9年)4月、東京博物館保管中に盗難、犯人は懲役10年。1878年(明治11年)、復元作業中に盗難、犯人は陸軍兵卒であるとされ軍の機密として処理されたため詳細不明。
  一方、名古屋城天守閣は解体を免れたが、金鯱が無い状態が続いた。「やはりシマリがない。何とか返してもらって復活させよう」と名古屋っ子の間でシャチ返還の声が年々高まったのも無理はない。そこで地元財界の有力者らが中心になって金シャチ返還を宮内省に請願した。明治11年(1878)9月、宮内省は特別に返還を許可、11月には雄雌のシャチが名古屋に戻った。そして翌12年の2月、8年の別居生活を終えて、ようやく元のサヤ「天守」に納まった。

 明治時代の始め、金鯱が天守閣から下ろされていた時期に数回の金鯱盗難事件があったが、ウロコ1枚か2枚程度で、そんなに大騒ぎになっていない。ところが昭和12年(1937)1月、一挙に58枚のウロコが盗まれる事件が起こった。事件が起きる前年から、名古屋城は実測図をつくるため天守閣に足場をかけていた。犯人は足場のあるこの時期を狙った。しかも正月三ガ日があけたばかりで、参観者がほとんどいない1月4日の昼間から天守閣にひそみ、じっと夜を待った。夕闇が濃くなり人目につかなくなると、足場を使ってやすやすと天守へよじ登り、北側の雄のシャチの金網をペンチで切り裂いてウロコを盗んだ。盗まれたウロコは58枚、雄のウロコは全部で194枚だったから、その3分の1近くが盗まれたことになる。昭和5年に宮内省から下賜されたばかりの国宝が盗まれたのだから名古屋市は大変なことになった。すぐに箝口令を敷き内密の内に捜査が開始された。金のウロコを盗んだ犯人は、鋳つぶして小口の金塊にし、大坂の地金商や貴金属商へ売り歩いていた。1ヶ月後、大坂船場警察署に御用となる。捕まったのは広島県出身、40才の男性で、前科2犯。モルヒネの盗みで8年の刑を終え、名古屋刑務所を出所した。その時に、立寄った名古屋城の金シャチが忘れられず、犯行を思いついたという。
 1612年(慶長17年)に天守が完成して以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜け、推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えた金鯱だったが、ついに終焉の時がきた。
 日本の敗戦が濃厚になり、名古屋の空に敵機がひんぱんに姿を現すようになった昭和20年5月、戦禍から国宝を守ろうと金鯱の撤去が進められた。金鯱を下へ降ろし、土の中へ埋めようと作戦が立てられた。南側の雌から始めたが、重い為ワイヤーが切れて、3階の屋根まで落ちてしまった。かなりの重さがあり、機材の不足している時ではどうしようもなかった。あきらめて北側の雄の金鯱を降ろしかけていた時に空襲をうけた。
 金鯱は城もろとも焼失。しかし、雌の金鯱が途中まで降ろされていたことが幸いした。雌の金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と金茶釜2個に加工して保存している。

 現在、名古屋城天守閣に輝いている金シャチは昭和34年(1959)の名古屋城再建時に造られた2代目である。
 幸い実測図が残されており、外観や大きさなどは初代とほとんど変わらぬ姿で再現された。ただし中身は初代と少し異なる。胴はヒノキ?(カヤ)から青銅鋳物にかわり、表面にはウルシが焼き付けてある。鱗は銅板に金板を張り付けてメラミン樹脂でカバーしてある。鱗は18金で出来ており、雄の鱗は112枚、雌の鱗は126枚。雄の重さは1272kg、雌の重さは1215kgで、雌雄一対の鱗に使用された金の合計は約88kgだという。
 現在、天守の上で光り輝く2代目は、大坂造幣局の勲章作りのベテラン達が腕によりをかけてつくり上げた。この2代目金シャチ製造の時、名古屋市当局に突然「2週間の納期延長願」が届いたという。事情を訊いたところ職人がウルシにかぶれて作業が遂行できなくなったという。金シャチの本体はブロンズ製で、防蝕剤兼接着剤としてウルシが用いられている。仕事の途中にその職人がトイレへ行ったという。上質のウルシにより下腹部が腫れ上がってしまったのが原因だと分かった。笑い話のようなことだが、本人にとっては大変だったことだろう。
 私も子供の頃、母の実家の山で遊んでいてウルシにかぶれた経験を持つ。そのお蔭で木の種類などには疎い私もウルシの木だけは分かる。ウルシにかぶれた記憶は少しあるだけだが、もう一度おそらく消毒液か何かでかぶれたことがあり、そのときのことはかなりはっきり覚えている。


 徳川家康は名古屋城を築城し、第九子の直義を城主にしたあと、清洲の城下町をそっくり名古屋へ移住させている。この移住は「清須越し」と称され、家臣、町人はもとより、社寺も移るという徹底的なものであった。この地方の中心地が清洲(清須)から名古屋に移り、その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄え、今の名古屋の反映へと繋がっている。なお、地名を「名古屋」に統一したのは、1643年(寛永20年)頃だという。
 尾張徳川家は徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀州徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後には御三卿が創設された影響もあって、結局尾張家からは将軍を出せなかった。
 初めから水戸徳川家は石高も大きくないので将軍を出す可能性は低かった。その為か水戸家は水戸学を奉じる勤皇家として知られており、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。そのため、幕臣からは親藩でありながら外様と同様に警戒されていた。
 尾張家も藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家であったという。そのせいか朝廷とのパイプも太い。このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続けた。最終的には幕末の戊辰戦争では官軍についた。

 尾張徳川家の支系(御連枝)として、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、尾張藩も高須藩も共に短命の藩主が多く、1799年に尾張徳川家、1801年には高須松平家で、徳川義直(尾張家藩祖)の男系子孫は断絶し、19世紀以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返して現在に至っている。10代から13代まで8代将軍吉宗の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は14代慶勝を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。慶勝は水戸家から高須藩に養子に入った松平義和の血筋である。
 尾張家と紀州家はある意味でライバルであった。8代将軍の座を紀州家の徳川吉宗に奪取されてからは、徳川将軍家との関係もギクシャクした。第7代尾張藩主徳川宗春は吉宗から一字を賜ったにも関わらず、吉宗の質素倹約策に対して規制緩和政策をとった。幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。名古屋の景気はよくなり自由な雰囲気に名古屋っ子はその政策を歓迎したという。しかし、藩財政が回復したわけではない。幕府の方針に逆らったこともあり、1739年(元文4年)には、吉宗は宗春に蟄居閉門を申し渡している。宗春は1764年(明和元年)68歳で没しているが、名古屋での徳川宗春の人気は高い。

 幕末の最後の15代将軍徳川慶喜は一橋徳川家から出ている。しかし、慶喜は第9代水戸藩主徳川斉昭の子で一橋徳川家に養子に入った人だから、血筋的には水戸家だといえる。こうして、幕末には徳川将軍家、尾張徳川家、水戸徳川家とも水戸家の血筋となり、徳川家も勤皇家としてのベースが整い大政奉還への態勢的準備はできていたのかもしれない。(水戸家は幕末まで藩祖頼房の血統で続いた。)


 名古屋市は2002年(平成14年)から本丸御殿復元のための「名古屋城本丸御殿積立基金」の寄附募集を開始した。
 2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2009年(平成21年)1月19日に着工された。
 2010年(平成22年)に第一期工事のうちの玄関部分の復元過程の一部が特別公開された。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画(取り外されて疎開していた)の復元模写も同時に進められている。
 2013年(平成25年)5月29日より、玄関と表書院(謁見の場所)が一般公開されている。
 2016年度(平成28年度)対面所等公開、2017年度(平成29年度)工事完了、2018年度(平成30年度)全体公開を予定し、総工費150億円が投じられて復元されるている。

 毎年4月に市民団体「本丸御殿フォーラム」が名古屋城の本丸御殿再建を目指すため「春姫道中」として春姫の嫁入りを再現したイベントが名古屋城等で行われてきた。「本丸御殿フォーラム」はその役目を終えたのか、今は「名古屋城文化フォーラム」と名前を変えて活動を続けている。
 なぜ、イベントが「春姫道中」なのかというと、春姫が本丸御殿に居住した唯一の女性だからだという。 当初、本丸御殿は尾張藩主義直の居館とともに藩の政庁として使われたが、その後、将軍が上洛する際の宿館となり、寛永11年(1634)には最も豪華な上洛殿が増築され、3代将軍家光が宿泊した。藩主の居館は二の丸に移り、その後上洛する将軍が幕末までいなかったこともあり、本丸御殿は使われなくなった。
 春姫は藩祖徳川義直の正妻でその嫁入り道中は豪華絢爛で名古屋の豪華な結婚式のルーツともされる。春姫には子供がなかったが、謹厳実直な義直は側室を置こうとはしなかった。しかし尾張徳川家の存続という責務も果たさねばならず、土井利勝は公命により側室を置くことをすすめた。後に義直の跡は側室の子である徳川光友が継いでいる。

 「本丸御殿」の復元工事が行われる中、2009年(平成21年)名古屋市の河村たかし市長は8月10日の定例記者会見で、名古屋城天守閣を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。
 2013年(平成25年)1月4日、名古屋市は2013年度から、名古屋城の天守閣を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。市では2010年度予算案に調査費1500万円を計上し、2012年(平成24年)3月には市民検討会を開き準備をすすめてきた。試算では復元にかかる費用は300億円で寄付金を含め調達方法を検討する。

 こう見ると名古屋っ子の名古屋城にかける思いは並々ならぬものを感じる。「本丸御殿」は2018年には公開されるようなので、2020年の東京オリンピックに間に合うので外国人観光客を呼べるかもしれないが、その時天守閣が工事中では様にならない。本丸御殿の復元工事でも約9年を要するのだから、天守閣の木造復元は2020年までには無理ではないだろうか。もっとも、お江戸のオリンピックなどには興味が無く名古屋は名古屋で我が道を行くというスタンスは昔ながらの伝統なのかもしれない。木造の天守閣がいつできるか分からないが、できたら是非行ってみたい。その時こそ名古屋城が真の日本三名城になるときだろう。

 観覧を終えて、駐車場へ戻る途中に像があった。
画像

題は「深緑」。「この地に名古屋陸軍病院がありき、再び戦火でこの平静を乱さぬことを希う」とあった。

 名古屋城の三の丸は現在、愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。

この記事へのコメント

2015年06月28日 10:18
非常に良くわかる解説で大変参考になりました。
私は西の丸の発掘調査をへ、現在三の丸の発掘現場にいる作業員です。
これだけ詳細に説明できる方は、身近にもなかなか居ないです。有り難うございます。
ハッシー
2015年08月30日 19:44
 南さん、読んでいただいて有り難うございました。
 伊勢音頭に、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」と歌われますが、尾張国は名古屋城だけではなく、興味深い歴史が隠されているように感じています。
 それは恐らく伊勢神宮の闇にも繋がる歴史ではないかと考えています。どうしても愛知県は通過するとき寄るような感じになってしまいますが、いつかゆっくり愛知県を訪れたいと思っています。

この記事へのトラックバック