旅 263 望月牧周辺

2012年 11月28日
望月牧周辺
 布引山釈尊寺(布引観音)の説明板に、“天文17年(1548年)武田信玄が楽厳寺入道・布下仁兵衛を攻めたときに兵火にかかって焼失したのを、弘治2年(1556年)に望月城主であった滋野左衛門佐が再建しました。”とあった。そして私は釈尊寺を実態としては滋野氏一族の外護寺(げごじ)だったようだと書いた。また、布下仁兵衛の名は如何にも布引観音の下に領地を構えた豪族の名に相応しい。

 小諸城跡(懐古園)から千曲川の対岸に見上げる台地を「御牧ヶ原」といい、勅使牧である望月牧の中心の地である。釈尊寺はその望月牧の北の端である。千曲川を挟んで釈尊寺の対岸には滋野という地名もある。
 望月牧は平安時代には東国32牧の筆頭で一年間の信濃の貢馬80頭中、20頭をこの牧から朝廷に献上している。
 紀貫之に「逢坂の関の清水に影見えて 今や牽(ひ)くらん 望月の駒」と詠まれているのをはじめ、数多くの歌に「望月の駒」は詠まれている。
 清和天皇の貞観7年(865)から駒牽きの御儀が毎年8月15日に行われるようになったので“望月”の名が起こった。今も馬の逃走を防ぐための野馬除けの土手の一部が御牧ヶ原に残っているという。

 長野新幹線は「軽井沢」の次に「佐久平」に停まる。その為、佐久は活気があり上田とともに東信の中心地に成長しているという。東京で週の内3~4日講義をすれば済む大学教授で、佐久に家を持ち新幹線で通っている人が数人いると聞いた。週末は田舎で過ごし、講義が忙しいときには都内で泊まるが、新幹線で十分佐久から通えるのだという。
 信越線が廃止になり、今まで特急が停まっていた駅は、活気がなくなったというが、「佐久平」のように新幹線の駅を誘致できた所は発展したということのようだ。私の従兄弟は佐久に数店のドラッグストアをもっていて、彼が従兄弟の中では出世頭かもしれない。腰が低く物腰のやわらかい彼は商売に向いていると感じる。彼は今ベンツに乗っていると聞く。
 「佐久平」から「上田」へ向かう新幹線は「御牧原」の台地を御牧原トンネルなどで抜けるので半分以上地下を走ることになる。私は長野新幹線に乗ったことはないが、地図で見る限りそうなっている。
 
 望月牧の中心は「望月」「浅科」になる。ここには中山道が通っていて望月宿もある。この地域には御馬寄、駒寄など馬に関連した地名がある。また、駒形神社など牧と関係したと思われる神社もある。
 千曲川河畔の浅科の御馬寄(みまよせ)は望月牧の貢馬を集めたところと云われる。また、佐久市下塚原、望月町牧布勢、北御牧村藤沢、小諸城跡南方駒形坂の各駒形神社は望月牧の境に祀った神社だと云われている。
 “駒形”は浅科の八幡社境内神社「高良社」の“高良”(こうら)とともに“高麗”の転訛したものと云われる。
 佐久市の三河田大塚古墳のような大円墳のほか、八幡・望月・佐久市平根・小諸市加増などに積石塚を含んだ小円墳群が蓼科山麓から入山峠に至る「古東山道」(青木村を通り上田に出る東山道の前は上諏訪から望月へ抜ける古東山道があった)にそって分布することから、7・8世紀には帰化人を部民とした牧場が盛んに営まれていたと考えられている。今でも望月から南の山側には牧場がいくつもある。
 平安末期から南北朝時代にかけて望月牧を中心に、その周辺に勢力を扶植したのは信濃国の牧監(もくげん)を出自とする滋野氏であった。保元の乱や木曾義仲の挙兵の際は海野・祢津・望月三家とその支族がこぞって参加して活躍している。
 御牧ヶ原は江戸時代には周辺11ヵ村の入会まぐさ刈場になっていたが、明治初期の帰農武士、戦後の開拓民によって開拓が進んだ。

 布引山釈尊寺から台地に上がり、「望月」「浅科」方面へ車を進めた。この辺を走るのは初めてだが、前にも走ったことがあるような何となく懐かしい場所のような気がした。
 道の駅「ほっとぱーく浅科」で情報を仕入れた。すぐそばに「五郎兵衛記念館」があった。この辺が本で読んだことがある五郎兵衛新田の場所かと思ったが、今回の訪問の目的は五郎兵衛新田や用水路ではないので、「五郎兵衛記念館」には寄らなかった。機会があったら、五郎兵衛新田についても調べたい。

 浅科の八幡神社と佐久市下塚原の駒形神社に寄ることにした。
 
八幡神社・高良社
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 現地説明板より
『 八幡神社随神門
 構造 三間一戸楼門 組物三手先腰三手先 中備蟇股 間斗束 軒繁垂木 屋根入母屋造 妻虹梁大瓶束 本瓦葺
 楼門とは楼造りの門のことで二階建の門を言う。一階と二階の境は親柱に擬宝珠をつけた高欄の縁側を巡らしている。頭貫木鼻の唐獅子、各所に施されている彫刻等、江戸時代末の特色を示す門の両脇の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神像の随神をおく。  建立 天保14年(1843)6月、今から150年前小諸藩牧野遠江守康哉が大願主となり数百本の材木を、また欅材は川西方村々の寄進により造営された。
 楼門高く懸かっている額は明治時代奉納されたもので、戈を止めて武を為すと横書きされている。 』 
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『 止戈為武 明治32年7月 大勲位彰仁親王 』
 武は撫なり、止戈なり、禍乱を鎮撫するなり、禍乱を平定して、人道の本に復せしめ、敵を愛撫統一することが、武の本義なり。
 「武の本義は、人と人との争いを止め、平和と文化に貢献する、和協の道を表した道徳的内容をもつものであり、いたずらに敵を殺し、闘争を求め、敵に勝つことのみが目的ではない。」という意味だそうだ。
 小松宮彰仁親王は皇族として戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争に出征した人だ。官軍の名誉総督として旗頭としてまつりあげられただけで、実際の戦闘には参加していないとみる。如何にも皇族のきれい事の言葉として空々しく聞こえるのは私だけだろうか。
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 現地案内板より
『 八幡社由緒
 御祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫命 
 由緒
 創建年月未詳なれど伝承に貞観元年滋野貞秀公によるといわれ、望月三郎公は鬼門除の神として信仰されたという。
 「吾妻鏡」に「佐久八幡宮御前二十騎」とあるを見ても当時の武将の崇敬の厚かった事が偲ばれます。
 延徳3年滋野遠江守光重公建立の棟札に「仰彼八幡宮之其始雖送数百歳更不知建立始爰」とあり、また「建立始望月御牧中悉致本意云々」とあり当時御牧七郷の総社として七郷住民総発起の形で建立された事が考えられる。
 その後、天正5年武田信玄の臣武田左馬助豊公、滋野印月斉公、馬場遠江守信重、息女弥保姫等によって修理、寛文4年酒井日向守公葺替、さらに牧野藩主となっても代々崇敬厚く、元禄16年、享保9年、寛保元年、天明3年には康満公によって寺尾山、諏訪山の用材を頂き、両佐久、上小諏訪、上州方面からも寄進と相まって本殿の再建立が行われ、旧本殿は、高良社として祀られ後、文化14年、天保14年、嘉永7年、明治31年、昭和9年と営繕が行われ今日に至っています。御神徳は古くより地方の守護神として殖産興業、武神、縁結び、その他、深く厚く各方面の人々に重く崇敬されています。

 重要文化財 八幡社旧本殿高良社
一、御祭神 武内宿禰公(神名 高良玉垂命)
一、建立年月日 延徳3年9月30日(1491年)
一、国宝指定 昭和17年12月 室町時代の遺構 (今は重要文化財)  』
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 厳島社もあった。水神であるため周りに堀を巡らせ、水が張られ橋で渡るようになっていた。
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 貞観元年といえば859年である。恐らく先に高良社があり、後に八幡社が勧請されたのではないか。中世の騎馬武者にとって馬は必需であることを考えれば、信濃国の牧監(もくげん)を出自とする滋野氏が武士に成長するのは当然の成り行きだったと考えられる。信濃国は古代から何かと帰化人の痕跡が多い。東山道、古東山道は帰化人流入の道でもあったようだ。
 帰化人たちの集団はやがてその土地で豪族へ発展していったが、一同に団結することはなかった。信濃国は山国で地理的に分断され、耕作地が限られていたことも要因であろうが、元もと職能が違ったりして独立性が高かったのではないか。
 しかし、信濃武士が決して弱い訳ではなかった。木曾義仲という旗頭を頂いたときは、一気に都へ攻め上る快進撃を見せたことでも明らかだ。村上義清も武田信玄を二度にわたり撃退した。
 しかし、結果として国をまとめるような有力豪族が育たず、戦国時代には甲斐の武田氏、越後の上杉氏の草刈場になってしまった。
 甲斐も信濃同様、各地の豪族たちの独立性が高かったようだが、武田信玄というリーダーが育ち求心力となった。信玄は求心力を保つために外への勢力の拡大を宿命付けられていたのかもしれない。しかし信玄であったからこそ甲斐をまとめられたのである。信玄亡き後、武田勝頼(諏訪氏系)が当主になったが、若い為もあり旗下の豪族たちに侮られた。勝頼は実績をつくるため信玄の遺言を無視して、外部への侵攻を進めざるを得なかった。勝っているうちは旗下の豪族たちも従ったが、長篠の戦いで負けてからの崩壊は早かった。勝頼は立場もあり焦りすぎたのかもしれない。そして独自性の高い旗下の武将たちも勝頼に対して命を預けるような信頼を寄せていなかったのだろう。そのことは即、戦闘に反映する。
 戦国時代、この君主についていけば自分も大きくなれるという夢を持たせることができるのがリーダーの条件だったのだろう。織田信長はそれに応えた。そして勝頼の父である信玄もそうであった。父が偉大であればあるほど、その跡を継いだ嫡子は大変だ。
 その信玄でさえ天下取りに向かう前には、旗下の武将たちから起請文を取った。
  ( 関連記事 信玄武将の起請文 旅252 生島足島神社(2) )



駒形神社(佐久市下塚原)
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 神社の入口は川があり、深い掘りのようになっていて橋を渡り神社へ入る。この深い掘りのような川は馬が越えられないので、馬を追い込むには適当な場所だったかもしれない。

 現地説明板より
『 説明文
 駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないが、この地方はいわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎乗の男女二神像を安置しているので牧に関連した神社と推定されている。
 昭和24年5月30日、国宝保存法により国宝の指定を受けたが、文化財保護法の施行により現在は重要文化財に指定されている。
 再建は文明18年(1486)と伝えられているが形式手法からみてもその頃の建物と考えられている。
 その後の沿革については棟札により寛永11年、延宝4年、元禄12年、宝永元年、および寛保2年にそれぞれ修理、宝暦8年および安永7年に屋根葺替、寛政4年に再び修理、ついで寛政10年、文政8年および万延元年にそれぞれ屋根葺替が行われたことが知られる。
 構造形式 一間社流造り とち葺(こけら葺が保存修理により改められた)
 規模 桁行 1.512m
    梁行 2.228m
   軒高 2.395m     』
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 境内には男女の象徴が祀られていた。子孫繁栄を願うものだが、ここでは馬の繁殖が順調で数が増えることを願ったのかもしれない。

 重文の社殿は覆い屋で保護され大切にされていた。
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 馬はいつ頃日本に入ってきたのだろう。「魏志倭人伝」には倭国には馬はいないという記述があるが、3世紀には馬は日本にいたとして珍しい存在だったのではないか。
 私は弥生時代後期には渡来人により馬は日本へ持ち込まれていたと思う。モンゴルからの馬の持ち込みを考えると、出雲など日本海勢力の方に先に馬が入った可能性があるのではないか。鉄と馬を手に入れれば強力な軍隊を組織できる。騎馬民族の日本への流入を示唆する説もあるが、いち早く鉄と馬を手に入れた集団が戦闘では優位に立ったことは確かだろう。スサノオの伝承もそんなところにありそうだ。

 古墳時代には、馬の存在が全国へ広がったことが分かっている。明らかに馬と馬具は、古墳時代になって同時に日本全国に出現する。これは大和朝廷と結びついた地方の豪族が馬の導入を始めたからだろう。それは馬と一緒に馬を飼育する渡来人もセットであったであろう。古墳時代の終末期には相当数の馬が日本にいたと考えられる。
 古墳などから宮崎県から埼玉県に至る地域に類似する馬具が出土するという事実は、馬具が伝播していったと考えるより、馬具を使用していた人たちが馬とともに日本列島を移動したと考えるほうが自然である。
 5世紀代の馬の骨は、長野県飯田市を中心とする伊那地方からも多く出土しており、伊那地方にも早くから馬がいた事が分かっている。

 ここで注目したいのは、馬を養う為には人の約十倍もの塩の摂取が必要とされることだ。古代の遺跡から出土する馬骨の付近からは製塩土器も見つかっている。
 従って、騎馬軍団を人馬共々に維持する為には膨大な塩が必要となり、補給する場所やルートの確保も条件となる。
 私は、『旅255 泥宮』のブログで、“私は安曇族が扱った交易品のなかに「塩」があったのではないかと考えている。”と述べた。長野県には私が育った塩崎も含め「塩」の付く地名が多い。そして、長野県には勅使牧も含め多くの牧が存在した。
    ( 関連記事 泥宮 旅255 泥宮 )

 かつて武田信玄が駿河側から塩を絶たれたとき、上杉謙信が信玄に塩を送った。そこから「敵に塩を贈る」という諺ができた。しかし、これは今川氏の、当時最強と言われた武田騎馬隊の弱体化を狙った戦略の一つだったと考えられる。
 上杉謙信が武田氏に塩を贈ったのは、甲斐国領民が苦しんでいるという噂から“人道的支援”をしたという美談として語られるが、実際には内陸の騎馬軍団にとって重要なのは、馬を維持する為の塩の方だと考えられる。
 謙信がそんなことを知らないわけがない。ここで、謙信の「武将は正々堂々と戦場で決着をつけるべきで、姑息な手段は必要ない」というヒーロー像が形づくられる。
 私は美談ではなくビジネスとして謙信が信玄に塩を送ったのではないかと考えている。そして、信濃川・千曲川周辺の豪族にとっても、その運搬はいい仕事だったのではないか。つまり、北信濃の豪族にとっては武田信玄は敵でもあったが、馬や塩の商売相手でもあったのではないか。そんなところに信濃の豪族が信玄の謀略により切り崩されていく要因があったのではないかと考える。
 しかし、善光寺で見るように信玄も謙信も信濃国にとっては所詮侵略者にすぎなかった。善光寺の本尊も宝物も謙信と信玄により持ち去られた。

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