旅 295 總持寺祖院

2013年10月1日
總持寺祖院
 總持寺祖院(そうじじそいん)は、石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗の寺院である。山号は諸岳山。通称、能山(のうざん)あるいは岳山(がくざん)。
 かつての曹洞宗の大本山「總持寺」。本山の機能が横浜市鶴見区へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなる。

 七尾市田鶴浜町の東嶺寺からカーナビに導かれて總持寺祖院まできた。ルートはおそらく国道249を穴水まで北上し、そこから左折し地方道7号線を外浦まで能登半島を横断したのだと思う。
 總持寺祖院の在所も輪島市だが、ここから約17km北上すると輪島である。今回の旅では輪島まで足をのばさなかった。
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 拝観料は400円だった。神社では参拝のため境内に入るのに有料な所はほとんどないが、寺院ではよくある。ここに寺の排他性を感じる。宗教法人で固定資産税などが優遇されているのだから、開放して欲しいと思うのだが、建物の維持管理には多少の拝観料もやむを得ないのかもしれない。文化財を残していくことも難しい時代になってきている。
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 現地説明版より
『 経蔵(きょうぞう)
昭和42年石川県指定有形文化財
  寛保2年(1742)着工 延享2年(1745)竣工
 加賀藩主前田家をはじめ北前船で地元との交流が深かった京阪の豪商や多くの人々の協賛によって、総工費1361両という莫大な工費で建立された華麗な御堂である。
 八角の輪蔵(りんぞう)には、日本を代表する鉄眼版といわれる教典334巻が納められており、この輪蔵を一回転することによりこれら一切の経典を読んだ功徳が得られるとあって、この地方一帯の信仰を集めている。
 当地は中世以来 浄土真宗の信仰が盛んな土地柄であるが、当寺近隣の49ヶ村から3622人もの人が参加して、この狭い面積の地搗きが行われたと言われ、宗派を超えた当山に対する信仰の厚さは、平成19年3月25日の「能登半島大震災」で、この経蔵がほとんど被害を蒙らなかった強さによっても証明されるであろう。
 輪蔵は、大阪で組み立てられたものを一度解体し北前船で黒島に運び、能登の建具師(当地方の建具は全国でも特に有名)が組み立て、建物は、金沢と能登の大工によって建設され、完成までに延べ3万人を要したという。  』

 輪蔵は今まで訪れた寺でよく見てきたが、“輪蔵を一回転することによりこれら一切の経典を読んだ功徳が得られる”などという安易な方法が厳しい修行をする禅寺で許されるのか。学問に王道がないように、経は読んでこそ、その有り難みが分かるのであろう。

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 空、無想、無作の三解脱に入るという意味から「三門」とも呼ばれる。焼失後、昭和7年真鍋老師により再建された。高さ17.4m、間口20m、奥行14.4mと堂々とした入母屋造りの門だ。山門の上には観音様、地蔵様のほか五百羅漢も祀られているという。

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 工事中で入れない場所が多く、この法堂(大祖堂)も遠くから写真を撮った。
この總持寺祖院も2007年(平成19年)3月25日のマグニチュード6.9、震度6強の能登半島地震で、大きな被害を受けた。損壊した建物の修復作業が現在も行われているが、完全復旧にはほど遠い状態だという。

 仏殿の中の仏像の写真を撮った。本尊の釈迦牟尼仏を正面にして、左手に達磨大師、右手に大権修理(だいげんしゅり)菩薩が奉られている。フラッシュなしでの撮影で大権修理菩薩の写真は手ぶれしてしまったが、載せておく。
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 仏殿の中には次のような掲示があった。
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 靴を脱いで、御真殿と紫雲台を拝観しようとした。入っていくと、ここからは別料金だと言われた。
 仏殿の掲示を見る限りでは、能登半島地震からの復興修復工事によりメインである法堂及び放光堂が拝観できないのを詫びた後、“工事期間中のみ特別に拝観できる”として御真殿と紫雲台の拝観を挙げている。
 私は、“工事中でメインである法堂及び放光堂が拝観できない迷惑をかけているので、代わりに特別拝観として御真殿と紫雲台が見られる”と解釈した。
 他の拝観者にも、“そうとれる”か訊いてみたら、私と同じだった。ここへ入るために既に400円の拝観料を払っている。
 誤解を招きかねないので、文面を工夫した方がいいのではないかと苦言を呈したが、余計なことだったと後で反省した。
 ただ、境内を散策している観光客が、「前に来た時は、奥まで入れて全部観られてよかったが、今回は入れない場所が多すぎる。これじゃあ400円は高い。」と言っていたことを付け加えておく。


 境内には「峨山道」のスタート地点があった。
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 現地説明版より
『 峨山道ここより始まる 
 峨山道とは当本山より羽咋永光寺五老峰に至る約50kmの能登半島の中央を貫く難路の古称である。
 当本山二祖 峨山韶碩禅師は本山の2代と永光寺4代の御住職を兼ねられ、毎朝早く永光寺の朝の勤行をお勤めになって、この峨山道の難路を越えて、ここ総持寺に馳せつけ、総持寺の朝の勤行をされたと伝えられております。
 それ故、総持寺の朝のお勤めを粥了諷経と云って、朝食後にお勤めになられたとのことであります。人々はこの様な長距離の嶮路をお通いになったとは信じられぬかも知れませんが、大勇猛精進佛の峨山禅師なればこそ耐え難きを耐え行じ難きを行ぜられたので吾等凡人の思い至る所ではないと固く信じて疑いません。
     大本山総持寺祖院 』

 峨山禅師が総持寺と羽咋市にある永光寺の住職を兼ねていたため、朝粥を終えてから禅師の来着を待ちつつゆっくり読経する「粥了ふ経の大真読 」と呼ばれる慣しが禅師の没後620年余の今も行われているという。峨山禅師は52キロの道のりを20年間往復したというが俄には信じられない。総持寺には頭を丸めた青い目の修行僧もいたが、外国の人もこのような伝説を信じているのだろうか。

 峨山道(峨山往来)を調べてみると、永光寺から総持寺まで最短距離で来ているわけではない。永光寺から田鶴浜・中島を通って総持寺へ向かう約60kmの山道だという。ここを毎日往復するなどと云うことはマラソン選手の練習でもきつすぎる。
 説明版には“固く信じて疑いません”とあるが、このような伝説を信じられるからこそ、仏教者は吾等凡人とは感覚が乖離するのだろう。私は父の葬儀で喪主をつとめたが、葬儀にはお坊さんが三人来てお経をあげてくれた。お布施はいくらでもいいということになっているが、相場があり三人分で約給料2ヶ月分弱と云ったところか。2時間足らずで、数十万円の収入を得るのは一般勤労者の感覚では異常である。よく婚約指輪は給料3ヶ月分と云われた時代があったが、今の若者で指輪に3ヶ月分出せる人がどれだけいるだろう。父の葬儀では父がいくらかの蓄えを残してくれていたのと、私も現役だったのであまり負担を感じなかったが、高齢化が進み老老介護の時代になると、葬式にそのような大金を出せなくなるのは目に見えている。葬式の在り方も現実に即して変わっていく必要があるが、仏教者は吾等凡人の感覚に寄り添って頂けると嬉しい。9月27日に叔父の葬儀があったが、お斎の席での坊さん(曹洞宗)が妙に陽気であったのが気になった。従兄弟の家はある程度の資産もあり、お布施がたくさんもらえたのかもしれないと勘ぐりたくなるのも凡人のいじましさか。
 峨山往来(峨山道)のルートは能登の修験の道筋ときれいに重なり合うという。峨山は瑩山紹瑾の弟子になる前は天台宗の僧だったようだ。峨山は修験者だったのかもしれない。いずれにしても峨山往来は口能登から奥能登へと布教を進める道筋であったのだろう。

 
 總持寺祖院で戴いたしおりより
『 曹洞宗大本山 總持寺祖院の由来
 「大本山總持寺祖院」がここの正式な名称であるが、地元の人は「能登の御本山」「總持寺さま」と呼んでいる。しかし観光バスで初めてここを訪ねた人がまず疑問に思うことは「永平寺も曹洞宗の本山でしょう?」ということであり、次に考えるのは「總持寺は横浜鶴見にもあるけれど、ここにも在ったのですね」ということのようである。
 そこで「大本山が二つあって一つの宗派の曹洞宗」と「二つの總持寺-鶴見の本山、能登の祖廟」ということを説明しないと、この素朴な疑問に答えることはできないであろう。
 ここ諸嶽山總持寺は鎌倉時代の半ば、元享元年(1321)、日本曹洞宗の初祖 道元禅師から4代目の法孫にあたる瑩山禅師が開創されて以来、明治31年(1898)4月の大火災以後の明治44年(1911)7月に布教伝道の本山として鶴見總持寺ができて移転するまで、実に590年の間、日本曹洞宗15000ヶ寺の根本道場として発展してきたのである。
 永平寺を開いた道元禅師の時代には、まだ日本曹洞宗の名称が用いられていなかったが、総持寺を開いた瑩山禅師は、後醍醐天皇から「日本曹洞出世第一道場」の論旨をいただき、以来ここが日本曹洞宗の中心道場となり、その基を作られたのが瑩山禅師であった。こうした歴史的経緯からわが宗門では、
永平寺開山高祖承陽大師道元大和尚
總持寺開山太祖常済大師瑩山大和尚
として、この二人を両祖と崇めており、その関係は「道元禅師は宗門の父であり、瑩山禅師は宗門の母である」とも表現されている。
 冷静に考えてみても道元禅師が永平寺を開かなかったなら、日本曹洞宗は始まらなかったわけであるし、瑩山禅師が總持寺を開かなかったなら、曹洞宗における今日の発展はなかったわけである。
 明治44年(1911)に、鶴見總持寺ができて、本山としての地位は失われたが、その後、大正、昭和の各時代にわたり、ここが能登祖院として再興されたのであり、また、ここは瑩山禅師の祖廟「伝燈院」が現存する霊域でもあることを理解していただくと、ここの存在価値が自ずから理解されると思う。 』


 曹洞宗と總持寺の歴史をみてみよう。
 日本における曹洞宗は道元に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山で曹洞宗の長翁如浄に師事し、1226年に帰国した。ただし、道元は曹洞宗とは名乗っていない。
 道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
 後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅後、次第に禅宗を標榜するようになった。

 道元、懐奘のあとを継ぎ、越前(福井県)の永平寺3世となったのは徹通義介であったが、兄弟弟子の義演との間で永平寺の住持をめぐって相論が起こる。いわゆる永平寺3代相論である。
 それは、教団の発展を意図した義介の一派と道元の純粋禅を守ろうとした義演の一派との永平寺住持職をめぐる争いであったとされる。
 宋に渡り知識を深めた義介と、道元の『正法眼蔵』の書写に尽力した義演とには差異があった。
 結局、義介は永平寺を出ることにする。組織が大きくなると必ず内部分裂が起こるのは世の常だ。
 徹通義介は門弟の澄海の招きにより、加賀国石川郡押野荘野々市の大乗寺へ移った。永仁元年(1293)のことであった。大乗寺は、押野荘の地頭 富樫家尚の外護を得て、義介に帰依した澄海が真言から曹洞に改宗した禅刹であった。ここに大乗寺は、加賀の有力武士富樫一族の外護のもとで曹洞宗徹通義介派の拠点となる。
 今の大乗寺は金沢市長坂町にあるが、ここに移転したのは江戸中期の元禄7年(1694)のことで、はじめは野々市にあり、所在を転々としたようだ
 義介の弟子の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)のオルガナイザーとしての資質は群を抜いていたようだ。
 瑩山紹瑾は、文永5年(1268)越前(福井県)多禰(たね)の里で生まれ、8歳で永平寺に登り、徹通義介(1219~1309)について出家している。18歳で諸国行脚の旅に出たという。永仁元年(1293)、義介に従って大乗寺に移り、正安2年(1300)、日本曹洞宗の法脈を明確にした「伝光録」を著す。これは道元禅師の「正法眼蔵」とともに、曹洞宗の宗旨の根本経典とされている。瑩山は義介のあと大乗寺の住持になっている。

 永仁2年(1294)瑩山が45歳の時、能登国羽咋郡中川の地頭・酒匂頼親(さかわよりちか)一族の招きで、能登に赴いた。正和2年(1313)鹿島郡酒井保(現羽咋市酒井町)の山中に茅屋を結んだが、それが現在の豊財院である。
 文保2年(1318)10月、酒匂頼親の娘やその夫・海野信直(滋野信直)の寄進を得て、洞谷山永光寺を建立する。
 永光寺が建立されるに至って、加賀についで能登にも曹洞禅が伝わることになった。瑩山は元応元年(1319)、洞谷山尽未来際置文を作成した。嗣法の次第を守り輪番交替して住持すること、檀信徒の重視、女人救済を強調し、弟子の育成につとめた。

 元亨元年(1321)6月、奥能登鳳至郡櫛比荘諸岡村の律宗系寺院の諸岡寺(観音堂)を、定賢権律師(じょうけんごんのりっし)から寄進された。
 定賢は霊夢を見て永光寺の瑩山紹瑾に寺を譲ったという。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、「総持寺」と命名して開山となった。瑩山は、永光寺と總持寺の2寺の住持を兼ねることになった。
 瑩山は、時代に即応した進歩的、積極的な立場に立ち、密教や地域信仰、祈祷や追善供養なども受容し、能登、加賀を中心に民衆教化に励んだ。
 こうして、大乗寺を基点とし、永光寺・總持寺の両寺を拠点とすることになった瑩山の門下から、後に明峰素哲(めいほうそてつ)・峨山韶碩(がざんしょうせき)らの傑僧が登場し、曹洞禅の全国的発展の基礎が築かれていく。
 宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第4祖瑩山紹瑾とその弟子の峨山韶碩の頃からである。 日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓山慧能禅師(638~713)と洞山良价(807~869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
 「臨済将軍 曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。
 史実かどうかは別として、尾張の大うつけと称されていた織田信長は父・信秀の葬儀で焼香の香を掴んで投げたという。この葬儀も曹洞宗であった。因みに織田氏のルーツは福井県丹生郡越前町(旧織田町)とされる。
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 瑩山は大オルガナイザーであった。常に教団の拡張を意識して活動した。世俗への調和主義、祈祷的仏教への接近、仏事・葬儀などの法式の整備とその荘厳化、旧仏教との習合化も随所に見られ、教団拡張のためには何でもありといった様相を呈している。そのような許容範囲が広く排他的ではない部分が人々に受け入れられたが、その節操の無さが本山であった永平寺との溝を深めた。
 瑩山は現代社会でも経営者として成功しただろう。しかし、私は永平寺を去らなければならなかった師である義介の思いを実現し、本山である永平寺を見返すという思いが強かったのではないだろうかと考える。義介は教団の発展を意図した結果、永平寺から立ち退くことになったのだから……。

 住職の輪番制を敷き教団の結束を保持し分裂を防ぐ一助にしたのも、師である義介が永平寺で兄弟弟子の義演と対立したことを教訓に考え出したものかも知れない。

 1324年(正中元年)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、総持寺貫首を峨山韶碩禅師に譲って永光寺に帰山。曹洞宗独自の日常規範である「瑩山清規」を制定。正中2年(1325)、58才で遷化している。

 瑩山没後の曹洞宗教団は、明峰・峨山の門流の人々が経営の中心となり、明峰派は加賀の大乗寺を、峨山派は能登の總持寺をそれぞれ本拠とした。
 そして、瑩山の墓所を持ち、その門流の中心寺院については、瑩山が生前に撰述した置文に従い、瑩山門下の明峰・無涯・峨山・壷庵の4派が交代で住職の地位につく、輪番制が敷かれた。

 師である瑩山の資質を一番強く受け継いだのは、總持寺を任された峨山韶碩だったかも知れない。
 峨山は、羽咋市瓜生の生まれといわれ、16歳の時、比叡山へ修行に出て、その後瑩山禅師との問答で禅師に傾倒したといわれる。
 2代目総持寺住職になり、瑩山と同様 永光寺の住職を兼ねた事から、峨山道(峨山往来)の伝説が生まれる。
 峨山韶碩(1276~1366)は、瑩山について約30年修行し、瑩山禅師の進歩的積極的な宗風を継承するとともに、25人のすぐれた弟子を育成。これらの弟子は全国的に進出し、それを拠点にして、教団が形成され、活発な布教活動を展開した。

 瑩山派の禅風は、多くの武士達に受け入れられ、南北朝から室町期にかけて、ことに峨山門流の人々を中心に急速に全国的発展をとげていく。
 武家に受け容れられていく際、曹洞宗寺院の建立にあたっては、特定の仏菩薩を祀る在地武士たちの持仏堂や村堂が、禅僧に帰依した武士の外護を得て禅寺に改められ、そこを寺領として田畠の寄進などが行われて、そこの武士の「氏寺」となるケースが多かった。
 また、峨山派の民間布教伝承に、悪龍・鬼神退治や灌漑工事など、神秘的な霊験や公益事業にかかわるものが多く見えることも興味深い。

 總持寺は寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5ヶ所の子院が設けられた。総持寺も峨山が永光寺にならい輪番住持制を敷いた。住職の就任期間は、当初は5年であったが、次第に短くなり、一年間に、永正7年(1510)には25人、慶長元年(1594)には71人にも達している(住山記)。
 総持寺の場合は、住持期間がいくら短くなっても正住である。正住がこのような状態であったので、寺の管理運営は五院(峨山の弟子五人の塔頭)の住持たち(各院も一年交替の輪番住持制)と近隣の寺院との合議によった。
 五哲と呼ばれたのは太通・通幻・無端・大徹・実峰で、それぞれ普蔵院・妙高院・洞川庵・伝法庵・如意庵を設け「総持寺の五院」と呼ばれた。
 東嶺寺は実峰が設けた如意庵の後身である。
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 峨山が總持寺と永光寺の住職を兼ねたこともあり、当初は総持寺峨山の門派も永光寺の輪番住持制に参画し、その運営を支えていたが、明峰の門派が、大乗寺を拠点にして派内の優位を唱えだしたので、14世紀後期より永光寺からの独立を模索しはじめ、15世紀半ばころには完全に独立した。
 總持寺は、峨山の門下から多くの優秀な弟子が育ち、全国に出て布教したので、やがて曹洞宗本山として、越前永平寺とならんで、全国の末寺の8割近く(約16000寺)を統括していた。

 では、義介が去った後の永平寺はどうなったのだろう。
 永平寺は義演が住職となったが、5世に越前大野の宝慶寺から寂円派の義雲が入り、以降の永平寺は宝慶寺を拠点とした寂円派が住持となって維持していった。寂円派が中心となった永平寺は細々としたものであった。
 ついに15世紀はじめころからは、能登総持寺を拠点に全国的発展を遂げた瑩山・峨山の門派やその外の門派などが運営を支援するようになってくる。これらの人々が、正住とは別に臨時的な住職として入ってくるようになり、しだいに増加していった。
 永平寺は総持寺の支援をうけるようになり総持寺と同じ曹洞宗を名乗るようになった。なぜ一旦は袂を分かった永平寺を総持寺は支援したのだろう。それは恐らくルーツとしての永平寺を切ることはできなかったのだろう。永平寺というよりルーツとしての道元との繋がりをきることはできなかったのだろう。
 私たちも教科書で習ったように、臨済宗と言えば栄西、曹洞宗と言えば道元が開祖として常識だ。瑩山や峨山を知らなくても道元の名を知っている人は多い。組織として総持寺(横浜市鶴見区)の方が大きいにもかかわらず、永平寺の方が有名だ。
 系列の学校法人も永平寺系の駒澤大学、東北福祉大学の方が總持寺派の愛知学院大学、鶴見大学などよりもプロ野球選手が出ていることもあり知られている。
 今でも道元、永平寺の金看板は生きている。


 能登総持寺の歴史的経過をまとめてみる。
 創建は天平年間(729~749)に行基が開いたのが始まりと伝えられているが、伝説の域をでない。当初は、諸岡寺と称し延喜式神名帳に記載されている諸岡比古神社の社僧院だった。密教系の寺で一説には真言宗だったという。

 瑩山らの布教活動が功を奏し、元亨元年(1321)6月、定賢から諸岡寺(観音堂)を寄進され、瑩山はこれを「総持寺」と命名して開山となった。
 山号の諸岳山は諸岡寺(諸岳寺)からきているようだ。

 翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問10問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている。

 1324年(正中元年)、瑩山紹瑾は総持寺を峨山韶磧に託した。峨山の門下からは優秀な弟子が出て全国的布教が開始される。
 曹洞宗の多くの寺院が総持寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた。

 中世には室町幕府や能登守護職である畠山氏や地頭である長谷部家(長氏)の庇護を受ける。

 1570年(元亀元年)の戦乱で焼失したものの、新領主の前田氏のもとで再興される。
 天正17年(1589)、後陽成天皇の綸旨を受けて曹洞宗の本寺として和尚の資格を取得し活性化したという。
 1657年(明暦3年)には寺領400石が与えられるなど、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けた。

 江戸幕府は1615年(元和元年)永平寺・總持寺をともに大本山として認めるとともに徳川家康の意向で1,000両が寄付されて幕府祈願所に指定された。住持の地位は5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)による輪番制が採られたが、1870年(明治3年)の栴崖奕堂以後独住の住持が置かれた。

 1898年(明治31年)4月13日の大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失した。
 1905年(明治38年)再建されたものの、これを機により大本山に相応しい場所への移転を求める声が高まる。
 1911年(明治44年)11月5日、横浜鶴見への移転遷祖の儀式が行われ、以降能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになった。


 總持寺祖院を参拝した後、永光寺も訪れたのだが、永光寺の住職が次のような話をしてくれた。
 1615年(元和元年)に江戸幕府は、寺社奉行制度などの整備のため各宗派に本山は一つにするよう通達したという。しかし、曹洞宗はどうしても一つに絞り込めず幕府も永平寺と總持寺を本山として認めざるを得なかったという。
 總持寺のお坊さんによると、当時は永平寺系列の寺と總持寺系列の寺の割合は1:9だったという。当時の曹洞宗においては名は永平寺、実質は總持寺であり、幕府もこの2つを認めざるを得なかったことが分かる。現在の実態はよく知らないが、總持寺のお坊さんによると現在でも總持寺系列の寺が圧倒的に多いという。曹洞宗の寺を訪れて住職と話しているとき、「どちらからおいでになったのですか?」と訊かれ、「神奈川県からです」と答えると、「私は横浜鶴見の總持寺で修業しました」と懐かしそうに話す住職が多いのは確かだ。
 永光寺の住職の話では、永平寺と總持寺は大本山で別格だが、江戸時代この永光寺と熊本県熊本市にある大慈寺と岩手県奥州市にある正法寺が格式が高かったとさりげなく永光寺の存在をアピールすることを忘れなかった。大乗寺の名は出なかったのが気になった。
 帰ってから調べてみると、歴史的には正法寺(岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺(熊本県熊本市)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となったことが分かった。

 本山であることのメリットは何か。
「出世」という言葉は、比叡山で公卿の子息が剃髪して僧になることを言うが、これらの子息は昇進が特に早かった。そこから一般社会でも出世という言葉がつかわれだした。
 これが禅宗では格のある寺院の住持になっていくこと出世(しゅっせ)あるいは瑞世(ずいせ)と称した。
 建長・円覚・相国寺などの五山派の寺院は、将軍の辞令である公帖(こうぢょう)をうけて、住持に就任したが、南禅寺と天竜寺は、それとともに、朝廷からの綸旨も受けて就任した。
 これに対して、五山派ではない大徳寺・妙心寺や永平寺・総持寺は朝廷からの綸旨を得て住職に就く資格を獲得していった。 
 綸旨とは天皇の命を朝臣が受け賜って出される書状のことで、これによって出世できるのである。この綸旨は出世道場である寺に出される。そして出世道場である寺が本山ということになる。
 江戸期には、各地の寺院住職は永平寺なり総持寺から請状あるいは公文を受けて入寺し、京都に廻って宿所の道正庵(木下家)や伝奏役の公家の指南を受け、朝廷より綸旨を受けて帰国している。住持(出世者)が納める金銭は、寺に五両、朝廷に五両である。
 江戸中期には、一年で永平寺に300人、総持寺に300人の出世者があったという。つまり、永平寺と総持寺は一年に1500両、朝廷は3000両もの金額を得ることになったのである。なお、僧侶はこの他に紫衣や禅師号などを得るには、別に朝廷に金銭を納めることになっていた。

 家元制度などでも上納金があるが、仏教界にも同じような制度がありその頂点には朝廷が君臨していた。そして本山になることは大きなメリットがあった。
 永平寺と総持寺は、朝廷より綸旨を受けて住職となる出世道場になることで本山としての格を維持していったのである。またこのことが、曹洞宗に二大本山が存在した所以である。

 現在、曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の有道会と、總持寺派の總和会に所属が二分されており、宗務総長も両派が1期4年ごとに交代で担当している。両大本山の住職を貫首と呼び、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。何れにしても仲良くやっているようなので安心した。


 總持寺祖院を参拝した後思ったことは、總持寺は将来の発展を考慮して交通の便の良い横浜市鶴見区に移転できたが、気多大社は移転できないということだ。神社はその土地の神とともにあるということを強く感じた。
 日本曹洞宗は「懺謝文」(さんじゃもん)を出し、先の大戦を総括して宗派としての戦争責任に対する見解と謝罪をしている。三大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲げ、前向きに活動している。それに比べ神道は後ろ向きなイメージから抜け出せない。
 個人的にはその土地と生きる各地の神社に頑張ってほしいと思っているのだが、神社には秘め事が多く地域に開かれていない印象がある。その秘められた部分に魅力を感じる人もいるようだが、神様に手を合わせて祈るとき、神様に大事な願い事をするとき、その神の本質を知らないことには本当に願いを託せないような気がするのは私だけだろうか。

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