旅 312 大洞院

2013年 11月6日
大洞院
 大洞院(だいとういん)は、静岡県周智郡森町にある曹洞宗の寺院で山号は橘谷山。本尊は麻蒔地蔵菩薩。
 応永年間(1394~1427)に恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師の開山により創建されたと伝えられる。「森の石松」の墓があることで有名だ。

 門前には森の石松の墓があった。石松は“やくざ”であるという理由から寺の敷地内ではなく、門前に建てられているのだという。仏教では死んでからも生前の行いが関係するようだ。因みに石松の墓は他にも複数あるというが、ここの墓が一番有名だという。なにしろ森町にあるのだからそれも頷ける。
画像

画像

 酒が好きだった石松のため、墓の前にはワンカップ(酒)が供えられていた。墓石の隅は削られていた。
画像

画像


 現地説明版より
『 森の石松の墓
 石松の墓は従前、御影井戸付近にありましたが、昭和18年現在地に移転されました。昭和30年頃より誰言うとなく、石松の墓の石を持っていると「商売繁盛」「勝負運強い」との風評が流れ、これがため墓参者によって墓が削られ始め、最近では墓に書かれた文字も無くなり丈も低くなり、これでは墓の意味が失われてしまうと有志相謀り再建を計画しましたところ、各地からの協賛、浄財が寄せられてここに再建されたものです。
昭和52年3月 森の石松墓碑再建期成会  』

 石松の墓は昭和10年に建てられたというので、それほど古いことではない。昭和30年頃から墓石は削って盗まれるようになり変形してしまったという。石松の墓石の欠片を持っているとギャンブルに強くなるという風評があるようだ。
 昭和52年に2代目の墓石が建てられたが2年後にまるごと盗まれ、現在は昭和54年に建てられた3代目の墓石だという。盗まれた2代目の墓石は天竜川の河原で発見され大騒ぎになったという。墓石を盗んでみたものの、ギャンブルでお金をすってしまい、効力がないことに怒って捨てられたのかも知れない。
 3代目の墓石はアフリカ産の極めて硬い石材を使用しているというが、それでも削られて彫った字が読めなくなり、彫り直して現在に至っているようだ。

 森の石松は実在の人物か定説がないというが、モデルとなった人物はいたのかも知れない。講談や浪花節(浪曲)では、酒飲みの荒くれだが義理人情に厚く、どこか間が抜けており、温泉地の賭場でいんちきサイコロを使って100両儲けたと思ったら翌日以降300両負けて親分の次郎長の湯治費を丸ごとすってしまい、仲間から「馬鹿は死ななきゃ直らない」とからかわれた、といった愛すべきキャラクターとして登場する。このエピソードから分かるように、、石松はギャンブルに強いわけではない。したがって石松の墓石を削って帰った人は、ギャンブルですっているのではないか。
 ともあれ石松の墓は観光名所になっているようだ。かくいう私も石松の墓があるからこの寺に寄ってみたのだ。

 現地案内板より
『 「石松の墓」の変容
昭和10年 石松墓石建立。(御影井戸付近) 天竜川の自然石 H150cm W90cm D20cm

昭和18年 石松墓石を各位の奉仕により、現在地に移転。墓石移転祭に清水次郎長3代目が関係者と共に石松の墓参に来寺。

昭和28年3月 清水次郎長翁碑建立。(この頃から削られ始めた)

昭和30年 石松墓石が削られ、墓石の字が欠かされた。

昭和40年 墓石が丸く変形してきた。

昭和46年 石松供養祭に続いて、清水一家28人衆に扮した勇士が四国金比羅様へ参拝に旅立つ。

昭和47年 金比羅代参の帰りに殺された石松を、悔やんだ次郎長親分が、建立したものと思われる石松の石塔を、愛知県鳳来町の渡辺さん方から移転。

昭和50年 墓石の変形著しくなる。

昭和52年3月 森の石松墓石(2代目)建立。神奈川県根府川の自然石 H180cm W90cm

昭和54年1月26日 石松墓石(2代目)盗難。 H70cm W40cm

昭和54年3月11日 石松墓石(3代目)建立と同時に次郎長翁碑建立。南アフリカ産黒御影石 H180cm W75cm D24cm

平成7年3月12日 石松の墓石(3代目)・次郎長翁碑修復。  』


 愛知県鳳来町の渡辺さん方から移転された「石松の石塔」は金属製の柵で保護されていた。
画像

 「石松の石塔」までもギャンブル愛好家のターゲットとされ、削られたようだ。昭和10年に建てられた石松の墓とは違い、こちらは取り替えがきかないのでガードされている。
 何だか「石松の石塔」は牢屋に入れられているようでかわいそうだ。この金属製の柵の出現は飽くなき人間の金欲が生み出したものともいえる。

 私は他にも石松の墓石のように削られる墓石を訪れたことがある。それは武田信玄の重臣、高坂弾正の墓である。
  ( 関連記事 高坂弾正の墓  旅61 松代 No.4 )


 大洞院のしおりには、石松は次のように紹介されている。
『 石松略歴
 愛知県三河の生まれ、元は代々庄屋もつとめた事のある家柄であったが、石松の父の代に家は没落し父親は幼い石松を連れ遠州森村に流れて来た。ある日、神社祭礼の日、石松は雑踏の中で迷子になってしまったが、この頃、秋葉街道一帯に縄張りを持ち、遠近に侠名をはせた森の五郎親分に救われ、そのまま少年時代を五郎親分宅で過ごした。月日が流れ大人になった石松は五郎親分の世話で清水次郎長の子分となった。
 次郎長親分に可愛がられた石松は、次郎長の代参として四国金比羅参りに出かけ、その帰りの途次に都田村(現浜松市)の都鳥吉兵衛兄弟にだまし討ちに遭い悲惨な最期を遂げた。万延元年(1860)6月17日の事であった。
 石松は、正直で単純な性格であったが、正義を尊び、不義背徳を恨み、横暴な権力に反抗し、常に弱者の味方であった。当時の侠客社会において稀にみる快男児であったと云われる。
 境内には石松の墓と清水次郎長の碑があり、石松の墓は、今なお多くの人達に削られ、現在の墓は三回建て直され一度修理したものである。 』

 文面では石松をかなり褒めている。また、石松の墓が削られることもしょうがないと容認しているようにも感じる。石松は森町の観光大使でもあるようだ。

 石松のことを伝える史料の代表格は、一時期次郎長の養子であった天田五郎(ペンネーム:山本鐵眉。後に出家し天田愚庵と号した)が1884年(明治17年)に出版した『東海遊侠伝』だという。そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していたとも云われ、これが石松が実在したかの疑われる原因にもなっている。
 しかし、清水次郎長は実在の人物である。、出所後の晩年を興業主として相撲や芝居などの開催を仕切っていたという。その頃の次郎長から森の石松の事を聞いたという記事が「遠州っ子」(1980年、ひくまの出版・刊)に載っているという。幕末のことでそれほど古いことではないのだから、隻眼という人物像はともかく、森村出身の清水次郎長の子分はいたのだろう。

 一方、講談や浪花節に描かれる石松や次郎長は、彼らの仲間であり後に旅講釈師となった清竜が講談師の三代目神田伯山に金銭と引き換えにネタとして提供したものが元であり、さらに浪曲師の二代目広沢虎造が伯山の講談を採録して脚色し浪花節としたという。

「石松三十石船道中」 広沢虎造



画像

 大洞院のしおりによると、縁起は次のようになる。
『 大洞院略縁起
 応永18年(1411年)恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師は観音菩薩の教示により、初めてこの地に錫を留めますと、時の将軍足利義持公は禅師の高徳を慕い帰依して、自らその荘園とその境内の地とを寄贈し、禅師の為に一大梵刹を創建し、これを橘谷山大洞院と号した。以来数百年大洞院の門風ますます栄え、今や大本山総持寺の御直末で全国に末寺3400余ヶ寺の総本山であり、曹洞宗屈指の名刹であります。 』

 この寺は何度か火災に遭ったのだろうか、現在の堂宇は大きいものではない。しかし、“全国に末寺3400余ヶ寺の総本山であり、曹洞宗屈指の名刹”だという。
 大洞院は浜松の普済寺とともに遠州地方の曹洞宗布教の中心になったという。普済寺が末寺約500ヶ寺であるのに対して、大洞院の末寺3400余ヶ寺はすごい数だ。
 現在、遠州の仏教寺院を数の上から見ると曹洞宗が圧倒的に多いと言われる。何故そうなったかと言うと、15世紀後半から17世紀前半にかけて、寺院が開かれたり、旧来からの寺院が曹洞宗に改宗されたことによるという。その頃の曹洞宗教団の宗風は布教の対象を、国人や土豪だけでなく一般民衆にまで目をむけたからである。
 遠江、或いは東海地方に曹洞宗教団の発展する基礎をつくったのは恕仲天誾(如仲天珖とも書く)であり、その拠点となったのが大洞院であったという。
 如仲(1365~1437)は永平寺8世の嫡孫だというので、総持寺系ではなく永平寺系ということだろうか。
 如仲は信濃国の生まれで、9歳で仏門に入り、後に越前国(福井県)平田山竜沢寺梅山聞本 ( ばいさんもんぽん ) の許で印可を受けた。如仲の遠江への布教は、当時、遠江国の守護が今川氏から 斯波氏 へ交替しており、越前守護でもあった斯波氏の意向に沿うものであったと考えられる。
 教団が発展するためには優秀な弟子が輩出されることが必要条件だが、如仲の門下から優れた僧侶が輩出された。
 特に 喜山性讃 ( きざんしょうさん ) (喜山派)・ 真厳道空 ( しんがんどうくう ) (真厳派)・ 物外性応 ( もつがいしょうおう ) (物外派)・ 大輝霊曜 ( たいきりょうよう ) (大輝派)・ 不琢玄珪 ( ふたくげんけい ) (不琢派中田雲林寺)・ 石叟円柱 ( せきそうえんちゅう ) (石叟派飯田崇信寺)の6人は、それぞれ寺を開き、如仲を勧請開山とし、自らは二世となり、教線を拡大していった。如仲も本師梅山禅師を請して大洞院の開闢開山とし、自らは第二世となっている。
 曹洞宗発展の理由の1つに葬祭と授戒会(じゅかいえ)があり、これらは禅僧が直接民衆1人1人と因縁を結んだもので、従来の諸宗教が満たしてくれない禅僧が持っていた機能であったという。


 大洞院のしおりに「消えずの灯明」とあったが、開山堂を覗いてみたら、本当に灯明が点っていたので驚いた。火事が心配なので、寺でも電灯を点すところが多く、お勤めの時だけロウソクに火を点すだけの寺が多い。
画像

 開山堂には開山の梅山聞本大和尚禅師と二世の恕仲天誾大和尚禅師が祀られている。

 大洞院では正月の1日~3日に、恒例のもち焼き行事が行われるという。開山以来消えていない灯明からとった火で餅を焼くのだという。この餅を食べれば年内を無病息災で過ごせるとの言い伝えがあり、多くの参拝客にふるまわれるようだ。元日は午前7時半すぎから徐々に初詣客が訪れ、10時ごろには客間がごった返すという。「もち焼き」の始まりは江戸期との説がある。


画像

『 森の石松愛用 縞の道中合羽 大洞院蔵  』とあった。


 大洞院とは直接関係ないのかも知れないが、3月中旬の日曜日に石松供養祭がある。3年に1度は清水一家28人衆の仮装行列があるという。
 また、11月23日には「紅葉まつり」がある。大洞院も小國神社と同様、紅葉の名所で毎年多くの人が訪れるそうだ。私が訪れたのは11月6日で、紅葉にはまだ早いようだ。

 森町も「小京都」を名乗る。森町は太平洋側から秋葉山を経て信州へ通じる昔の信州街道沿いに発達した宿場町だ。今でも往時を偲ばせる白壁の土蔵などが風情を誘うという。
浪曲「石松三十石船道中」にある『流れも清き太田川』に沿った地は次郎柿の原産地だという。
画像

 次郎柿は愛知県と静岡県で、全体の8割を生産しており、愛知県豊橋市が生産量日本一である。
 次郎柿は1844年(弘化元年)、松本治郎吉が、静岡県周智郡森町の太田川で見つけた幼木を自宅に持ち帰り植えたのがはじまり。現在では、全国各地で栽培されている。原木は1869年(明治2年)に火災に遭ったが、翌年再び芽を出し現存する。
画像


 森の石松は1860年6月17日に亡くなったという。松本治郎吉が次郎柿を発見したのが1844年だとされる。次郎柿は治郎柿とも書かれる。石松と治郎吉は同じ時代を生きた。石松は講談や浪曲にその名を残し、治郎吉は柿にその名を残した。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック