旅 519 沙沙貴神社(1)

2015年 8月22日
沙沙貴神社(1)
 桑実寺の次ぎに沙沙貴神社を訪れた。
 沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は滋賀県近江八幡市安土町常楽寺一番地(JR琵琶湖線 安土駅やより徒歩約10分)にある式内社で、旧社格は県社。
 少彦名命を主祭神として計四座五柱の神々(少彦名命・大彦命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王)を祀り、「佐佐木大明神」と総称する。佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座する。
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 石柱には「近江の国 沙沙貴神社 佐佐木源氏発祥之地」「佐佐木源氏の神社 沙沙貴神社」とあった。
 佐々木氏は、宇多天皇(869~931)の皇子・敦実親王(892~966)の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、成頼の孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされる。
 佐々木庄は、沙沙貴神社の建つ近江八幡市安土町常楽寺周辺から佐々木氏の館があった小脇(東近江市小脇町)辺りまでの広範な候補地があるが定かではないという。ただ、蒲生郡内にあったことは間違いないようだ。

 都から下向する貴種が、その土地に土着する為には、その地の豪族の娘を妻にすることが一般的だが、宇多源氏も古代豪族の沙沙貴山君の末裔と姻戚関係を結んだと考えるのが穏当だろう。
 沙沙貴神社の祭神には宇多天皇・敦実親王といった宇多源氏の祖の他に、沙沙貴山君の祖と云われる大彦命(大毘古命)が祀られている。

 大彦命は8代孝元天皇の子で弟に9代開化天皇がいる。大彦命を祖とする古代豪族で有名なのは阿倍臣である。阿倍氏は大彦命の子である武渟川別を祖先としている。大彦命も武渟川別も10代崇神天皇の四道将軍として有名だ。
 大彦命は阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君(沙沙貴山君)、筑紫国造、越国造、伊賀臣など7族の始祖とされる。

 佐々木氏が近江に確固たる基盤を得るきっかけとなったのは源平の合戦であった。
佐々木経方の孫の秀義は源為義の女を娶って源氏と姻戚関係を結び、保元・平治の乱で源義朝軍に属して戦った。平治の乱で源義朝が平清盛に敗れると、秀義は近江を追われ相模国まで逃れ、渋谷重国の庇護を受ける。

 治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木秀義とその4人子、定綱、経高、盛綱、高綱はそれに参じて活躍した。
 秀義はこの戦いで戦死したが、長男の定綱は戦功により近江国の惣追捕使(後の近江守護職)に任じられた。

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 表参道の鳥居に掲げる扁額は、佐々木定綱が頼朝から拝領した額のレプリカだという。
 定綱は頼朝の自筆と伝えられる「佐佐木大明神」の神号額面を文治2年(1186)7月28日に物部清貞氏の調整で表参道大鳥居に掲額した。この古額は保存されている。
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 参道を進むと楼門があった。楼門には「沙沙貴神社」の額がかかっていた。この額については後で記す。
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 この楼門は葭葺(茅葺)二層門で、江戸時代中期(延享4年、1747年)に再建されたものだ。平安、鎌倉時代の建築様式を継承しているそうだが、屋根が大きく安定性に欠けるように感じた。境内の多くの建物同様、滋賀県指定有形文化財である。
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 楼門を入ると正面に拝殿がある。
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 拝殿は入母屋造で、間口三間八尺 奥行三間八尺の正方形である。拝殿には賽銭箱はなく、賽銭箱は奥の本殿に繋がる幣殿の前にあった。
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 幣殿の奥には本殿があった。至る所に佐々木氏の家紋・四つ目結(七ツ割平四ツ目)が付いている。これが神紋にもなっているようだ。
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 本殿は、五間社流造(間口五間 奥行三間)の銅板葺で向拝三間が付いている。

 拝殿、本殿、東西廻廊は、四国九亀藩主京極家によって弘化5年(1848)に建築されたもので、大工は水原源四郎俊勇である。いずれも滋賀県指定有形文化財である。

現地石碑より
『 式内 沙沙貴神社
第一座 少彦名神(すくなひこなのかみ) 神代の昔よりお鎮まりの産土の神
第二座 大毘古神(おおひこのかみ) 沙沙貴山君の祖神
第三座 仁徳天皇(おおささきのすめらみこと) 沙沙貴の地に由縁深い祭神
第四座 宇多天皇(うだのすめらみこと)敦實親王(あつみのみこ) 宇多源氏の祖神

 右四座五柱の神々を佐佐木大明神と申し上げる。古くより沙沙貴郷また佐佐木庄の守護神、安土地域の氏神と崇められ、佐佐木源氏一門の祖神としても尊信されている延喜式内の名社である。 』


 本殿に向かって左手に「権殿」があり、本殿などと同じに四国九亀藩主京極家によって弘化5年(1848)に建築されたもので、大工は水原源四郎俊勇で滋賀県指定有形文化財になっている。
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現地説明板より
『 沙沙貴神社 権殿 御祭神  佐佐木源氏ゆかりの神様
東の座  
 乃木希典命 乃木静子命  乃木家は9代秀義公の四男四郎高綱公の子孫

中央の座 
 置目姫命(おきめひめのみこと) 狭狭城山君の祖 倭帒(やまとふくろ)宿禰の妹
源雅信公 佐佐木源氏第3代当主 宇多天皇 2代敦實親王 3代雅信公賜源姓
源秀義公 佐佐木源氏第9代当主 定綱・経高・盛綱・高綱・義清・厳秀の父親
源氏頼公 佐佐木源氏第18代当主 崇永公 永源寺・慈恩寺などを御創建

西の座
 沙沙貴郷 旧蒲生郡 明治・大正・昭和 戦没者参千七百余柱命  』

 権殿は本殿などと同じに江戸時代後期の弘化5年(1848)に建築されたものであることを考えると、初めに祀られていたのは中央の座の4柱だけであったのだろう。

 中央座の4柱については後で記すことにして、東の座の乃木希典について述べる。
 日露戦争の陸海軍の大将である乃木希典と東郷平八郎は、共に軍神として神社に祀られている。元長府藩士であった乃木希典は、自ら出雲源氏佐々木氏の子孫と称し、「源希典」との署名もよく用いた。
 境内にある「乃木将軍御手植の松」は1906年(明治39年)6月28日に参拝された時、本人が鍬を持って植えたという。社宝の佐々木四郎高綱像軸装三幅対(小堀鞆音画)や・乃木家玉木家系図二巻は乃木希典が献納したものである。
 日露戦争における日本海海戦を指揮した東郷平八郎の評価は高いが、乃木大将の旅順攻囲戦における作戦指揮に関しては評価が分かれる。
 横須賀の三笠公園には東郷元帥の大きな銅像がある。

 乃木大将を祀る神社も各地にあるし、東京には乃木大将の名を採った乃木坂もある。 

 他人の評価はともかく乃木希典本人はどう思っていたのであろう。大正元年(1912年)9月13日、乃木は明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった。世間ではこの殉死について賛否両論あったが、当時は美化する論調が主流であったとされる。現代ではほとんどの人が時代錯誤の行為だと思うことも、100年前には肯定し共感する人が多かったということだ。

 乃木の自殺は一般的には明治天皇を慕っての殉死とされるが、私は天皇の崩御に事寄せた日露戦争における自責の念から出た一つの責任のとりかただったと考える。乃木は日露戦争の遺族に対して、「私はみなさんの兄弟や子息を多く殺してしまった。償いをしなければならないが、今はその時ではない。」と語っていたという。乃木自身も息子達を亡くしている。
 東郷は元帥の位を受けたが、乃木は辞退している。乃木も東郷も日露戦争の英雄とされ「聖将」と呼ばれたが、自己評価において乃木は自らに厳しかったことは確かであろう。
 乃木は日露戦争の負傷兵や遺族に対して、その待遇改善に尽力している。自殺という責任のとり方が適当だったかどうかはともかく、乃木の頭の中には常に「死」があったのであろう。それを一番近くで感じていたのは妻の静子だったのだろう。乃木は遺書を残しているが、細かいことについては静子に言い残しているとし、当初妻の殉死を想定していなかったと思われる。静子は夫に殉じたのであり、乃木もそれを止められなかった。

 私は2012年の九州への旅で知覧平和公園を訪れた。「俺も後から逝く」といって、若者を特攻機で送り出した上官の中には、終戦後、「お供しますので一緒に逝きましょう」と部下に言われ、発進したにもかかわらず帰還して永らえたものが何人もいる。乃木からわずか40年の間に、責任を取らない日本人が増えたということだろうか。
 責任を取らないというより、平気で嘘をついて若者を騙したのだろうか。そして今も責任を取らない日本人が多いし、嘘をついて老人から金を騙し取る詐欺が横行し、「騙される方が悪い」とうそぶく人がいる現実に憤りを感じる。

 戦争は人の命を軽くする。個人は組織の中で一つの歯車ぐらいの感覚で切り捨てられる。私は戦争の英雄を軍神として祀ることには反対だが、乃木希典のような一兵卒の死に心を寄せる大将がいたことは救いである。恐らく乃木自身が戦争で息子達を失っていることが、兵士の親や兄弟の悲しみに寄り添える心情の深層にあったことは想像に難くない。どんな大義があったとしても、それは自分の子や兄弟が非命の死を死んだことへのパーソナルな憤りや悲しみを癒す助けにはならない。
 
 沙沙貴神社の権殿に東の座に乃木希典命、乃木静子命が祀られている。それは佐々木源氏一門の子孫の中の有名人としてではなく、中世から続く武家(軍事貴族)の末裔が幕末から明治の時代を生きて辿り着いた一つの結論を伝えるメッセンジャーとして祀られていると解したい。
 乃木は沙沙貴神社での植樹の折に安土小学校の児童たちに話す機会があったという。教育者(学習院院長)でもあった乃木は平易な語彙を選び、「御先祖様を大切に」との主旨を説いたという。
 「御先祖様を大切に」とは、先祖供養をせよと言うことで、その為には生きていくことが大切である。一番の親不孝は親よりも早く亡くなることだともいう。私は旅で地方の由緒ある寺を訪れることがあるが、最近墓地確保のために供養する人がいなくなった墓石を一つの所に集めて小山のようにしてあるのを目にする。子孫が絶えたのか、遠くへ移住したのか理由は知らないが、墓守がいなくなった墓が多いことは確かなようだ。私の親戚の親族にも、カナダで成功し数十年ぶりに里帰りをした際、檀家寺にこれから先いつ来られるか分からないということで、永代供養費として100万円を奉納した人がいる。

 乃木が初めて戦ったのは、第2次長州征伐の幕軍との戦いだったという。小倉口での戦いには18歳の乃木希典が参戦し、長府藩報国隊として戦ったという。乃木は、結核で余命少ない高杉晋作の最後の戦いの姿を見たかもしれない。
 秋月の乱や西南戦争にも政府軍として参加している。国内の反乱軍との戦いの後は、敵は清やロシヤという外国にかわった。

 中世から続く武士の戦いは、武士同士の戦いであった。特に信長は農民をかり出して兵士にするのではなく兵農分離による専業の武士団を形成した。つまり戦国時代後半は、戦に出たくない者は農民として参戦しない選択があった。しかし、明治以降「徴兵制」が敷かれ、国民は兵士になることを義務づけられた。その中で、乃木は陸軍大将として日露戦争を戦った。

 乃木は自分は中世から続く武家(軍事貴族)の末裔として、職業軍人であるから戦って死ぬのは本望であり覚悟もできていただろうが、目の前で多くの自分の意志ではなくかり出された若者が死んでいくのを見る結果となった。「天皇陛下万歳」と言って死んだ若い兵士はほとんどいないという。胸に家族の写真を携え「お母さん」と言って死んでいった若者の声なき声をたくさん聞いたことだろう。

 乃木は人の命を預かることの重さを感じたことであろう。そして、自分の意志ではなくて人生を奪われた若者に替わって、大将として生き残る理不尽さも味わったことだろう。
 乃木が天皇の崩御に事寄せて自殺してまで残したメッセージは、戦争で亡くなった若者の遺族への“謝罪”と、問題解決の方法として安易に戦争を選ぶ為政者への“戒め”だったと解したい。
 日本はその後も軍部の独断先行で、自分勝手に大東亜共栄圏を掲げて、太平洋戦争に突入していった。そこでは、非戦闘員も含め多くの非命の死を死ぬ国民が出たことは歴史的事実として語り継がれねばなるまい。それでも、連帯責任としての自国民の死は受けいれなければならないのかもしれないが、勝手に掲げられた大東亜共栄圏内の人々の非命の死については責任をとる必要がある。
 勝者が敗者を裁いた「東京裁判」について賛否両論あるが、私はこの戦争を引き起こし負けた責任はとる必要があると感じる。特に勝手に大東亜共栄圏に組み込まれて侵略された人々に対しては何らかの形で責めを負う必要があったと考える。戦争を主導した軍部のトップや政治家が、おめおめと生き永らえていいはずはない。終戦の時(1945年)は明治も遠くなり、武士道の美学を体現する軍人が少なかったことは致し方なかったのであろう。もし霊魂があるのなら、あの世から乃木はどのように見ていたのであろう。

 戦前、国家神道は国威発揚の名のもとに戦争に加担した。そして、今尚、戦争の英雄として乃木希典を祀っているのであれば、全国の佐々木さんの氏社としては情けないし、乃木希典の本意でもないであろう。
 私の先輩にも佐々木さんがいる。後で佐佐木大明神と酒の関係を述べるが、佐々木さんもお酒が大好きな人である。小学校の教師であった佐々木さんは、「教え子を戦場に送るな!」のスローガンを掲げて教育活動をしていた。
 佐佐木氏は杉田玄白や間宮林蔵といったユニークな人物も輩出している。現代の佐々木さん達も平和を願う人々であることを信じたい。


 本殿と権殿の間に、磐境があり少彦名命・沙沙貴山君が祀られている。
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 磐境(いわさか)の前に大きな「勾玉」(まがたま)などを模した石が置かれていた。
 「勾玉」は、胎児に似た形から「生命の種」の意味があるとか、霊を表すとか云われるが、沙沙貴神社では子子孫孫の繁栄や物事の弥栄(平和と繁栄)を祈るために祀られているという。

 三種の神器は、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣であるが、鏡や剣と違い勾玉はそれらよりも古い信仰を表すように感じる。
 八咫鏡は伊勢神宮に草薙剣は熱田神宮にあるとされる。八尺瓊勾玉についても石上神宮にあったとされる。
 『日本書記』では、八尺瓊勾玉について神代の部分ではすべて「曲玉」の字を使っている。「勾玉」の字が使われたのは、垂仁天皇の御代かららしい。
 垂仁紀に、丹波国桑田村にいた、甕襲(ミカソ)という人の足往(アユキ)という名の犬が山の獣をかみ殺した。すると、獣の腹の中に八尺瓊勾玉があったので、それを天皇に奉った。この八尺瓊勾玉は物部氏が神宝を管理している石上神宮に納められた。
 石上神宮には七支刀や鉄盾などが納められているので武器庫の性格も備えられているが、本来は神宝が納められるている神社である。

 丹波国桑田村とは現在の京都府亀山市あたりらしい。亀山市の北にある京北町は2005年に合併されて京都市右京区の一部になる前は北桑田郡京北町であり、ここにも桑田の地名が残されていた。亀岡市には出雲大神宮丹(波国一宮)や丹波国分寺跡などがあり、訪れるのが楽しみな土地である。

 今の皇室に父系として直接繋がる可能性がある男大迹王(継体天皇)は越の土地から迎えられ、河内の樟葉で即位したとされるが、『日本書記』では男大迹王を迎える前に、まず白羽の矢が立ったのは丹波桑田郡にいた倭彦王であった。丹波国の桑田とは天皇候補がいた土地であることが注目される。
 現在でもここには国道9号線が走り、山陰道の一部であり、日本海側勢力との接点であったことは間違いない。男大迹王も倭彦王も日本海側勢力を代表する人物であったと推測される。

 勾玉は6世紀の埴輪の人物の首に普通に付けられているアクセサリーであり、前期古墳の棺の中からは勾玉と管玉が一連の首飾りの形として出土する。沙沙貴神社の磐境の前にあるに大きな「勾玉」を模した石も、管玉と繋がれている。
 『日本書紀』の神代の部分では「八尺瓊曲玉」と書かれている場合と「八尺瓊の五百箇御統(いおつのみすまる)と書かれている場合がある。『古事記』の神代の部分では「八坂勾璁の五百津美須麻流珠(いおつのみすまるのたま)」と書かれていて、一個の玉ではなく一連の首飾りを指している。
 勾玉の古いものは硬玉ヒスイの勾玉であり、これは俗に「姫川ヒスイ」と呼ばれる新潟県の糸魚川、青海町に産するヒスイである。日本列島でヒスイを産する場所は他にもあるが、古代人が原石を採取して玉に加工していたことが確実なのは「姫川ヒスイ」だけである。ここで作られた玉が北海道や沖縄を含むほぼ日本列島全域に流通していることを考えるとき、古代人の交易の広さに驚かされる。これは南島産のゴホウラ貝やイモ貝を加工した腕輪が広く日本列島に流通していることとも合わせ、手広く交易に関係した海人族の存在を推測させる。

 硬玉ヒスイの勾玉は後期古墳からは出土しなくなることを考えると、6世紀には注目されなくなったようだ。三種の神器の中で、鏡(八咫鏡)と剣(草薙剣)よりも前に玉(八尺瓊勾玉)の存在が希薄になるのは、朝廷内での日本海系海人族(出雲族も含む)の存在が衰えたことが原因かもしれない。

 古墳の副葬品には、鏡、剣、玉などがあるが、それぞれに役目が違うようだ。しかし、一貫して形を変えていないのは勾玉だという。
 鏡は時代によって形や文様や材質が異なる。剣も時代によって材質や装具の形や文様が異なる。例えば弥生時代には銅剣であったものが、古墳時代には鉄剣になる。片刃のものを刀、両刃のものを剣と定義すると、奈良時代にはほとんど剣は存在しない。記紀が書かれた時代においては剣そのものが古代のものとして認識されていた。
 それに対して勾玉は、縄文時代に既に出現し、弥生時代、古墳時代を通してさかんに使われ、時代による形の変化がほとんどない。硬玉ヒスイの勾玉は日本において鏡や剣などよりも古くからの神宝であったのかもしれない。
 硬玉ヒスイを装身具として利用していた文化は特殊なものらしい。古代においては、マヤ・オルメカ・アステカなどの文化を持つメソ・アメリカと日本列島だけであるという。何やら太陽信仰と関係でもあるのだろうか。

 
 沙沙貴神社の磐境で少彦名命・沙沙貴山君が祀られていて、その前に大きな勾玉の石像があるのは何故であろうか。それは単なる神社のオブジェなのかも知れないが、勾玉と少彦名命・沙沙貴山君に何らかの関係があるのかも知れない。
 沙沙貴神社の祭神は、少彦名命・大彦命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王である。このうち宇多天皇・敦実親王は佐佐木源氏との関係で祀られ、大彦命は沙沙貴山君の始祖として祀られている。
 主神である少彦名命と仁徳天皇について神社との関係を調べれば、勾玉との関係も分かるかも知れない。

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