旅 631 御前崎周辺(1)

御前崎周辺(1)

2016年 5月16日

 昨夜は国道1号線の静清バイパス沿いのファミレスの駐車場で車中泊した。朝食はこのファミレスで食べた。
 ファミレスの駐車場にはアニメをプリントした車が駐まっていた。
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 好みは人それぞれで構わないと思うが、少し派手すぎる気がする。だが人目を引くことは確かである。

 朝食を食べながら、今日の訪問地で比較的遠いところまで行って、そこから帰る道筋で寺社を廻ろうと計画した。
 まず御前崎の駒形神社と御前崎灯台へ行くことにした。

駒形神社(御前崎市)
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 頂いた「 駒形神社略記 」より
『 駒形神社略記
一、鎮座地
 静岡県御前崎市御前崎(下岬)937番地の1
一、御祭神  
 天津日高彦穂々出見命(天照大御神の曾孫)
 豊玉毘売命(海神の女神))
 玉依毘売命(農耕守護神)
一、例祭日 旧暦9月15日
一、由緒
 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月15日鎮座。
 慶長6年徳川家御朱印6石3斗の寄進あり、また、慶長9年には、歩除地(年貢免除地)15町を有した。
 神社創始よりの古文書、棟札等の資料に乏しく言い伝え等に頼る他無いが、御前崎市白羽鎮座の白羽神社元宮とされている。
 往古、延喜式に云う白羽官牧に馬を船にて運ぶ途中、厩崎沖で遭難した百頭の馬の内、一頭が岸にたどりついた地とされる。なお、残りの馬99頭は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。
 古くより漁師の信仰が厚く、殊に明治以降、個人はもとより船会社よりの絵馬の奉納は多くを数える。
 明治6年3月 村社に列す
 昭和6年   郷社に列す
 昭和21年  宗教法人令による神社を設立
 昭和29年  宗教法人法による神社を設立登記した  』

 「 駒形神社略記 」に“御前崎市白羽鎮座の白羽神社元宮とされている。”とあるが、宮司さんは当社と白羽神社を兼任しているという。通常は白羽神社の方にいるそうだ。私が話を聞いた人がその宮司さんかもしれない。フェイスブックをやっていると言っていた。

 御前崎沖は岩礁があり、航海の難所で難破船が多かったという。
「 駒形神社略記 」には、「往古、延喜式に云う白羽官牧に馬を船にて運ぶ途中、厩崎沖で遭難した百頭の馬の内、一頭が岸にたどりついた地とされる。なお、残りの馬99頭は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。」とあるが、次のような伝説もある。
『 むかし伊豆の国から99匹の馬が駿河湾を泳いで渡ってきたが、あと少しで上陸できるところで力つきて岩に化してしまった 』 
 その岩が沖の御前岩(駒形岩)という岩礁だとされ、その馬の霊が駒形神社に祀られたという。岬の人々が海上安全と豊漁を祈願するために馬の霊を祀ったのが駒形神社であろう。 
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 駒形神社は、江戸時代末期までは社名は「駒形大明神」、「駒形明神」と呼ばれていた。
 駒形神社はその社名から「馬」と縁があるようで、それは“白羽官牧”と関係があるのであろう。この後、白羽神社にも行ってみる。そこで、白羽官牧のことが分かるだろう。
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 拝殿前の円い向拝柱は伊勢神宮の荒祭宮の棟持柱だという。伊勢神宮は20年毎の御遷座があるので、まだ新しい社殿の材料が他の神社に下賜される。この向拝柱もその一つだ。余った棟持柱で神宮遥拝所もつくられていた。
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 御前崎市指定文化財の本殿は覆屋で保護されていて見られなかった。
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現地説明板より
『 御前崎市指定文化財
駒形神社本殿(一間社入母屋流造)
指定 昭和44年6月24日
 駒形神社は、縁起書によれば安閑天皇元年(531)鎮座とあります。
 元亀2年(1571)、武田の兵火により社殿が焼失しました。
 本殿の再建造営は1630~1650年代と思われます。
 意匠は、江戸期の寺社建築の基本的構造をなしている。向拝部の組物、蟇股(龍)木鼻(象)共に全体的に華やかなものであり、これらはいずれも江戸中~後期の造りを示しています。
 その後の改修は、享保9年(1724)屋根替、安永3年(1774)本殿並廊下修築、文化13年(1816)本殿の改修、明治22年(1889)本殿並屋根修繕となっています。
 御前崎市教育委員会  』

 御前崎市の指定文化財のページから写真を拝借した。

 駒形神社は、縁起書によれば安閑天皇元年(531)鎮座とあるが、実際に社殿が造られたのは聖武天皇時代(701~756)と伝えられる。その社名から律令期(奈良~平安時代)にこの地域一帯にあった白羽官牧と関係の深い神社のひとつと考えられている。

 母屋(本殿)の柱は円柱で、二手先出組で丸桁(まるけた)をしっかり支えている。
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 頭貫(かしらぬき)の中備(なかぞなえ)は蟇股となっていて、正面は鳳凰・左右は兎と馬、裏は鶴となっている。屋根は柿葺で材は檜である。
 写真では木鼻(象鼻)が白く塗られているように見える。 
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 参道には末社の「御崎神社」があった。
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 「御前」と書いて「みさき」と読む。御崎とは随神のことで主祭神の前に立ち、警護する神のことだという。
 しかし、本来は舟を前に進める舳先の神、あるいは船首に立つ命知らずの益荒男(ますらお)のことだったという。

 随神の役目は主祭神を守ることある。この“守る”に注目すると、「さきもり」という職務が連想される。
 唐では、境界地などの警備のために各地から集められた兵を「防人」といい、白村江の戦いの後に日本にも導入された。
 「防人」を日本では「崎守(サキモリ)」と呼んだのは、古来より「岬」が沖の舟を監視する拠点として重要視され、沿岸警備のための武門の職分のひとつとして確立していたからだと考えられている。日本において防衛とは侵入を水際で防ぐことであった。 それは幕末の「異国船打払令」の海防政策も同じ意味をもつ。

 大和朝廷により統一されていく過程で「崎守(さきもり)」の他にも「夷守(ひなもり)」、「津守(つもり)」、「山守(やまもり)」、「門守(かどもり)」、「殿守(とのもり)」などの守る場所によって「防人」の職務が制度化されていたと考えられる。

 また、「御前(みさき)」という言葉には、「先駆け」や、「道案内」という意味が含まれていて、「さた」「さるた」という読みと同じ意味を持つとも考えられる。
 この「さた」「さるた」と関係する神に「猿田彦(さるたひこ)」がいる。猿田彦は「道案内」や「先導」をする神ともされ、「先に出る」、「突出する」といった意味も加わり、それが岬の地理的な状態と繋がったという説もある。各地の祭の先導役の神・猿田彦の鼻は長い。
 私が知る岬に祀られた猿田彦で有名なのは鼻節神社である。

 猿田彦は記紀神話で皇孫の先導役に貶められているが、本来は出雲系の神であり西日本を中心に広く信仰を集めていたようだ。後には渡来系氏族が“白鬚大明神”として信仰したので、神系が複雑になる。
 この猿田彦を祀る氏族も東国進出の拠点を伊勢に構えたようで、猿田彦命と天鈿女命は伊勢の地主神である。

 私は猿田彦命は皇孫が大和朝廷の中心になる前に、大和朝廷の中心であったいつくかの氏族の一つが信奉していた神ではないかと考えている。
 纏向に成立した古代都市は、そこに集まったいくつかの氏族の合議制で運営されていたと考えられる。それらの各氏族の神を祀る神殿の形式もいくつかあり、そこには既に今の神明造や出雲社形式の原型が見られるとされる。アマテラスを女神として皇祖神とする祭祀は7世紀末に始められたもので、それは天皇制(大王を天皇として中央集権国家をつくる)と共に始まり、倭の神まつりとしては古いわけではない。


 御前崎市は2004年に榛原郡御前崎町と小笠郡浜岡町が合併してできた市である。しかし、御前崎という地名が現れるのはそれほど古くはないようだ。御前崎町前身の御前崎村は江戸時代の末期頃になってようやく記録されたそうだ。
 御前崎はこの辺りで馬を放牧していたことが関係し、「御厩崎(おうまやざき)」と呼ばれていたものが、いつしか「御前崎(おまえざき)」となったと言われる。
 しかし、その漢字「御前崎」の御前は、「みさき」から採られ、読みだけが「おまえ」に転じたのではないかという説もある。
 何れにしても御前崎の地名に駒形神社は深く関わるようだ。

 参道には御崎神社の他にも末社があった。
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 駒形神社の後、御前崎灯台へ行ってみた。

御前崎灯台
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現地説明板より
『 御前崎灯台 ~御前崎の象徴・灯台~
 御前崎灯台は明治7年(1874)に建設された日本で有数の歴史ある灯台です。以来長きにわたって海の道しるべとして、また、御前崎の象徴として皆様に愛されています。
 今後も未来永劫にわたり船の安全を守る灯台として、また、みなさまに親しまれる灯台としてあり続けたいと願っています。 
位置  北緯34度35分45秒 東経138度13分33秒
光り方 10秒毎に白色を1閃光
光りの強さ 56.0万カンデラ
光りの届く距離  19.5海里(約36km)
高さ 地上から灯台頂部 約22.5m  水面から灯火 約54m 
管理事務所  清水海上保安部    』

 見学料を払って入場すると灯台に上れる。駿河湾を隔てて伊豆の連山が見え、目を移せば遠州灘が果てしなく広がる光景が見える。天気がよければ富士山も見えるという。
 今日は富士山が見えるか訊いたら、残念ながら見えないと言う。入場するのをやめ、遊歩道を歩くことにした。

 初めてここに灯台が置かれたのは、1635年(寛永12年)だという。幕府大目付道中方の沿岸見廻りによって定められ、二間四方の行燈に幕府から下げ渡された毎晩三合の菜種油を使い、付近の漁民が当番で火を点した。
 1871年(明治4年)、親兵を乗せた軍艦がここの暗礁で沈没してから、中にカンテラを入れたガラス張りの常夜灯になった。
 現在の白亜の灯台は1874年(明治7年)イギリス人A.プラントによって建てられた。
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 「海上殉難碑」があった。やはりここは海路の難所なのだ。
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 ねみず塚広場に「ねずみ塚」があった。
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碑文より
『 御前崎には 昔難破船から寺の住職に助けられた子猫が十数年の後 旅僧に化けて住職を食い殺そうとしたねずみと戦い 一命を捨てて守った忠義な猫の話を伝える「猫塚伝説」があります。
 猫の亡骸は「猫塚」を作って手厚く葬られました。
 ねずみは崖の近くに捨てられました。
 その後、村人の夢枕にねずみが現れ「これからは心を入れ替えて御前崎の漁業の守り神となりますから私のお墓を作ってください」と懇願したので「ねずみ塚」を作ってお祀りしたということです。
 それ以来、御前崎の人達はねずみ塚に航海安全と大漁の願掛けをするとともに持ち前のがんばりとチャレンジ精神をもって幾多の試練を乗り越え、世界の海を制覇する遠洋漁業のまちに発展させました。 』

 「猫塚」は、駒形神社の近くにあるそうだ。猫は2匹で大ねずみと戦ったという伝説が残る。
『 ある日のこと、遍照院の住職が海上に一匹の仔猫が荒波に揺られ流されているのを見つけ、漁師に頼んで拾いあげ寺へ連れ帰りました。
 十年後の春、ひとりの僧が旅の宿を求めたので住職は快く応じます。すると三日目の真夜中に本堂の天井裏で激しい物音がしました。一夜明け、住職と村人たちが天井へ上がって見ると、寺の愛猫と隣の猫が傷を負っており、近くには今まで見たこともない大ネズミが旅僧の衣をまとって倒れていたのです。
 旅の僧に化けて住職を襲おうとした古ネズミから猫が身をもって住職を守ったという。 』

 今ある「猫塚」は、昭和7年12月に建立されたという。そしてこの「ねずみ塚」は、昭和47年12月建立されたという。

 猫とネズミになぞらえているが、ネズミという旧勢力を猫という新勢力が倒したことを暗示しているのかもしれない。
 各地でネズミと言われる賊(旧勢力)を倒す朝廷と結託した新勢力(猫)の伝承が残る。安曇野に“鼠穴”という地名があるが、坂上田村麻呂により成敗された魏石鬼八面大王と関係する地名だとされる。魏石鬼八面大王は安曇族の末裔とされる。
 ( 関連記事 『旅43 安曇野周辺』 )

 ネズミが今でも漁業関係者に祀られていることは何かを暗示しているのかもしれない。ネズミが海人族(旧勢力)、ネコが官牧の新勢力で、新勢力には地元の協力者がいたのでネコが2匹で大ネズミと戦ったという伝説が残ったのかもしれない。
 安曇野の魏石鬼八面大王を成敗した坂上田村麻呂に協力したのは地元の仁科氏(阿部氏の枝族)であり、仁科氏は安曇族の後、郡司としてこの地を支配した。仁科氏は中世においては武士団として勇名を馳せ、その出身は御牧の牧司であったと考えられる。

 ネズミが滅ぼされた海人族だとそうすると、駒形神社は滅ぼされた海人族の鎮魂の社であった可能性もある。今でも駒形神社は海運業者の信仰を集めているが、何らかの言い伝えがあり、海神の祟りを鎮めるための生け贄が“駿馬”であったのかもしれない。

 神は中央の祭祀から外れたとき“鬼”と表現される。鬼神という言葉があるように、古代において“神”と“鬼”は同義であり、いずれも人間が及ばない威力を持つ。魏石鬼八面大王も神であり鬼であったのだろう。
 私は“荒魂”とは神の鬼の部分を表したものではないかと考えている。


 私の育った長野県の千曲川沿いにも大ネズミを唐猫が退治したという伝説がある。ネズミは神道の神、猫は仏教の仏という色彩が見受けられる。
   ( 関連記事 『旅255 泥宮』 )
 そして何よりもこの千曲川沿いには御牧が多く、上古から渡来人が移り住み馬の飼育をしていた所でもある。
   ( 関連記事 大室古墳群 『 旅64 若穂周辺 No.3』 )
 ( 関連記事 『旅263 望月牧周辺』 )


 この地域(御前崎)と信濃国は繋がっているのだろうか。
 ここでポイントとなるのが秋葉山本宮秋葉神社である。

 秋葉山といえば火防の神を祀った霊山として有名だが、この山へ登るには昔からいくつかの道が知られている。それぞれに秋葉道または秋葉街道の名で呼ばれる。
 東海道から秋葉街道への入口は、浜松の田町と掛川の鳥居町があり、かつてはどちらにも秋葉山の大鳥居があった。
 その中で古道というのは、太平洋の相良港から牧之原・塩買坂・青田嶺を経て、掛川に至り、東海道と交わり更に森・犬居・坂下から秋葉山へ登る道である。
 つまり駿河湾の西側の相良港から発する道なのである。
 この道は山を北へ下り、天竜川筋に出て、平山・西渡・水窪を過ぎ、青崩峠を越えて信州伊那谷方面へ通じる。別名「信州街道」とも呼ばれ、昔から遠州と信州を結ぶ重要なルートだった。
 太平洋の塩や魚が人夫の肩や駄馬を利用して運ばれた“塩の道”でもあった。信州街道としての役割はJR飯田線や国道152号線の開通によって、その地位を失った。
 しかし、遠州地方の縄文時代の各遺跡から出土する黒曜石の鏃の多くが信州和田峠のものであることからも、天竜川を遡るルートは、何千年も昔から存在していたことが分かる。
 また、静岡県西部の弥生時代の遺跡は浜松や磐田のほか天竜川上流の水窪(みさくぼ)にも発見されている。
 この地域(御前崎)と信州は“塩の道”でつながり、和田峠を越えるとそこは、「大ネズミと唐猫」の伝説が残る上小地域(上田市など)である。そして千曲川沿いに御牧が多い。

 2015年に新潟県長岡市の金峯神社を訪れた時、修験者の秋葉三尺坊のことを知った。金峯神社は神仏分離までは蔵王権現と呼ばれていた。
 修験者・秋葉三尺坊は蔵王権現で修行し、更に信州戸隠にて修業の後、遠州にて一大修験勢力を築いた(秋葉山本宮秋葉神社)とされる。
「秋葉寺縁起」によれば、三尺坊は観音菩薩の垂迹として信濃国戸隠(現在の長野県長野市、旧戸隠村)に生まれ、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した修験者だという。三尺坊の名は彼が小人であったからとも、越後国蔵王堂の三尺坊で修行したからとも云われる。鎌倉時代なのか室町時代なのかはっきりしないが、三尺坊は秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。

 この御前崎地域は、“塩の道”を通して、秋葉山本宮秋葉神社に通じ、そして、秋葉三尺坊を通して千曲川(新潟県に入ると信濃川と呼ばれる)の下流の金峯神社(蔵王権現)にも繋がる。信濃川通船は信濃国への“塩の道”でもあったのだろう。
 この越後国から入る塩を使い信州味噌が作られた。千曲川上流の佐久市にある安養寺は信州味噌の発祥の地とされる。

 明治初年に禁止された修験道の実態は今ではよく分からないが、修験者のネットワークの広さと影響力は無視できず、蔭で日本を動かすほどの力があったのかもしれない。



 御前崎灯台の後、海福寺に寄った。
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海福寺
 台地の上から港へ下りる坂の途中に海福寺はあった。この寺には“いもじいさん”の愛称で親しまれた大澤権右衛門の墓がある。
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現地説明板より
『 御前崎市指定有形文化財 いちょうの木
 銀杏は中国原産、日本での野生はないという落葉高木。この銀杏の木は町内で一番古く樹齢500年から700年といわれ、高さ13mから14m、幹円周約4m、枝幹より気根がたれさがり、昔より乳がたれるということから母乳の出るようにとの願かけの木でもある。 』

 「いもじいさんの碑」があった。碑というより宝篋印塔である。
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現地説明板より
『 御前崎市指定有形文化財 いもじいさんの碑
 法名玉輪道桟居士俗名大澤権右衛門
 明和3年(1766)薩摩の御用船豊徳丸が難破しているのを助け、その礼金20両をことわり、かわりとして薩摩芋栽培方法を伝授され、今日の榛南一帯の甘藷の源となる。
 この徳をしたい、いもじいさんの碑が建立され毎年10月10日追善供養を行っている。 』

 これも御前崎沖が海路の難所だったからの出来事である。

 薩摩藩の御用船が1766年(明和3年)江戸へ行く途中、御前崎沖で難破した。名主の大澤権右衛門は、里人と共に暴風雨の中で危険をおかして乗組員を救助した。そのお礼に出された20両を受け取らずに、3本のサツマイモとその栽培方法を教えてもらったのが、遠州地方にサツマイモが普及した始まりだという。
 江戸時代から度々の飢饉に、人命を救ったのがこのサツマイモだった。やがて遠州名物の“からっ風”を利用して作られたのが「いも切り干し」だという。

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