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zoom RSS 旅 749 石上布都魂神社

<<   作成日時 : 2018/02/03 13:41   >>

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2016年 8月22日
石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)

 車中泊の旅は、朝起きて明るければ活動を始める。今日の初めの訪問地は石上布都魂神社である。
 諸国の一の宮一覧には、備前国の一の宮として吉備津彦神社と石上布都魂神社が載る。
 石上布都魂神社は、岡山県赤磐市石上字風呂谷にある式内社(小)「備前國赤坂郡 石上布都之魂神社」で、旧社格は郷社である。
 一の宮巡りをしていなければ、この山の中の神社を訪れることはなかったであろう。
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現地説明板より
『 石上布都魂神社の由来
 当社は日本書紀に素盞嗚命が八岐おろちを退治した剣を奉斎したと記す古社である。
 延喜式内社であり備前一宮として格式高い神社で、広く全国から参拝される。
 山頂は磐座で、禁足地である。 』

 朝早いこともあり、車で参道を上がれるところまで上がった。
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 流造の本殿はこぢんまりしていた。本殿に向かって右側には稲荷神社が祀られていた。
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 拝殿に向かって左側に、奥の院に続く山道があった。
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『 石上布都魂神社奥の院
 この山頂にある本宮の後の磐境(磐座)は神霊を祀ったもので古代信仰を伝える貴重な遺跡である。
 昭和58年11月 吉井町教育委員会  』

 山上にある本宮(奥の院)が、昭和59年(1984年)2月18日に赤磐市史跡(指定当時は旧吉井町)に指定された。この説明板は史跡指定の3ヶ月前のものになる。
 石上布都魂神社の創建は不詳とされる。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興したのが、当社の事実上の創建といえるようだ。江戸時代には藩主は領地の名勝や旧跡の復興を盛んに行ったようだ。自分が治める領国が歴史ある風光明媚な土地であることを喧伝したかったようだ。古文書に載る石上布都魂神社もこのような観点で復興されたようだ。

 説明板には「吉井町教育委員会」とある。
 当社は岡山県赤磐市石上字風呂谷に鎮座しているが、以前は赤磐郡吉井町石上にあった。延喜式神名帳には、「備前國赤坂郡 石上布都之魂神社」とあるので、それ以前は赤坂郡にあったということか。更にそれ以前は磐梨県(あがた)に含まれていたようだ。磐梨県は磐梨氏(石成氏)と関係することは確かであろう。

 赤磐市は2005年(平成17年)に、赤磐郡山陽町・赤坂町・熊山町・吉井町の4町が対等合併してできた市である。東に隣接して和気郡和気町があるが、ここは和気清麻呂の本幹地である。和気清麻呂の本姓は磐梨別公という。和気氏の本拠は備前国石生郷(石成郷)であり、和気氏もその同族の石成氏(磐梨氏)も金属の精錬に縁由をもつ氏族で、鐸石別命(ぬてしわけのみこと、垂仁天皇の皇子)の末裔である。

 私がこの石上布都魂神社に興味を引かれるのは、奈良県天理市布留町に鎮座する石上神宮(いそのかみじんぐう)の元社と言われていることである。この大和国にある石上神宮は物部氏との関係が深い。

 『和名抄』によると、大和国にも山辺郡石成郷がある。これをイシナリと読ませているが、イワナシから転訛したものと考えられる。『地名辞典』には、「今山辺村大字布留及び其山中の古名なるべし、石上神宮の石成神社参考すべし。備前国磐梨より蛇の麁正(おろちのあらまさ)神を此に移したるに因り、其名出しならん。以之以波(いしいは)、古言相同じ」とある。
 この「蛇の麁正」(おろちのあらまさ)というのはスサノオが八岐大蛇を退治したときの剣の名とされ、「此は今、石上に在す」と『日本書紀』は伝えているが、一書の三に、「今吉備の神部(かむとも)の許に在り」ともあることから、石上は大和の石上神宮ではなく、延喜式内社の備前国赤坂郡にある石上布都魂神社であるとも言われる。
 赤磐市石上は、古くは磐梨県に含まれていた。吉備の神部、つまり吉備の神主といわれるのは、赤磐市石上にある石上布都魂神社と考えて間違いない。石上から南流する新庄川に沿って走る県道468号線は平岡小鎌線とも呼ばれる。この谷はもと平岡庄とも呼ばれた。新庄川は旭川の支流であるが、この新庄川が旭川に合流する手前に伊田山があり、その北に銅鉱を出す場所があるという。吉井川と旭川に挟まれた地域も鉱石に恵まれた場所であったようだ。

 大和の石成郷は、山辺郡にあったことは分かっているが、その地域は明らかではないという。また、石成神社のあったことは『続日本紀』や『続日本後紀』などにみえるが、その所在は確認できていない。石上神宮のあるところから更に山奥に入って、桃尾の滝の手前にある石上神社と名乗る小祠が、石成神社だったのではないかと言われる。つまり、そこが大和の石成郷の鎮守ではなかったかと考えられている。そこには次のような伝承がある。
 昔、出雲国のひの川に住んでいた八岐大蛇は一つの身に八つの頭と尾を持っていた。スサノオ命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲(あめのむらくも)の神剣に従って大和の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八つ岩という。

 天叢雲剣は八岐大蛇の尾から出てきた剣で、後にヤマトタケルの手に渡って草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになる。
 天叢雲剣はスサノオからアマテラスに献上されている。記紀ではスサノオはアマテラスの弟とされ、従ってスサノオは天孫族とされる。 日御碕神社では、今でも「神剣奉天神事」というスサノオからアマテラスへの天叢雲剣献上の神事が行われている。

 スサノオの末裔とされる大国主命はアマテラスに「国譲り」をした。しかし、国譲りを受けて天孫族が高天原から降臨した地は、出雲ではなく九州の地であった。その後、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が大和に東遷するが、神武が大和に東遷する前に、饒速日命が大和に天降ってナガスネヒコの妹三炊屋媛を娶って、大和を治めていたという。饒速日命もスサノオ同様天孫族ということになる。
 神武天皇はこの饒速日命(あるいは子である宇摩志麻治命)から、大和を禅譲されたようだ。宇摩志麻治命(物部氏の祖)は石上神宮の祭神の一柱でもある。
 こうしてみると、「国譲り」とは、宇摩志麻治命から神倭伊波礼毘古命(神武天皇)への大和の禅譲のことであったのではないだろうか。

 私は神倭伊波礼毘古命は九州王朝の傍流で、九州の本家に対して大和の分家となったように思えてならない。更に言うと、饒速日命も出雲の本家に対して大和の分家だったのではないかと考えている。問題なのは、これらの分家が本家よりも強大になり、本家を圧倒し名実共に日本の覇者になり、その過程で本家と争った歴史があるように推測されることだ。記紀は初めから大和が日本の王朝であるかのように歴史を改竄したが、倭国と呼ばれた頃の名としての中心は九州(本家)で、権力の中心は既に分家の大和にあったものの、日本と名乗るようになった頃、名実共に大和が日本の中心になったのではないだろうか。
 スサノオも饒速日命も天孫族であるが、天孫族の主流ではないような扱いを受けている。

 石上神宮は、古くは石上振神宮とか布留神宮とか呼ばれていたようだ。
 天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。
 ここに言う八つの岩が桃尾の滝の近くの国見山にあり、祭祀の跡をしのばせるという。
 これらの伝承は、出雲から備前、播磨、河内、そして大和へと鉄や銅の精錬に従事した人たちの移動を物語るようにも感じられる。



 奥の院まで登ってみた。山道を500mほど上ると磐座があり、奥の院が鎮座していた。
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 朝日が差し込み、かなり明るくなった。
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 朝早かったので、授与所も開いていなかったので、栞などをもらうことができなかった。
ネットから当社の栞を引用する。

『 当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡六座のうちの「石上布都之魂神社」にあたり、備前国総社神名帳128社の中2位に正二位と記され御神徳の高い神社である。
 現在御祭神は素盞嗚命であるが、江戸時代後期、寛政年間に岡山藩土大沢惟貞が編纂の「吉備温故秘録」では「布都御魂」、明治初年編の神社明細帳」「延喜式内神社・国史見在之神社」では「十握劒」を祭神と記している。
 御祭神名の変更は、明治6年郷社列格の際と思われる。いずれにしても素盞嗚命の大蛇退治の神話に起因する。
 日本書紀一書に「其の蛇を断りし劒をば、號けて蛇之麁正(おろちのあらまさ)と曰ふ。此は今石上に在す」また一書に「素盞嗚尊、蛇の韓鋤(からさひ)の劒を以て、頭を斬り腹を斬る、(中略)其の素盞嗚尊の、蛇を断りたまへる劒は、今吉備の神部の許に在り。」さらに一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断(あまのははぎり)の劒を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と 記す。
 総合すると素盞嗚尊が大蛇を切った劒は「蛇の韓鋤の劒」「天蝿断の劒」あるいは「蛇の麁正の劒」で、吉備の神部のところ、石上にあることになる。
 「韓鋤の劒」は韓から伝来した刀の意・「天蝿断の劒」は蛇を切った劒、すなわち韻霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀ったのが布都魂神社である。
「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀の神代巻・旧事記・神社啓蒙旧事紀・天孫本紀、古語拾遺・言金抄などから「私に曰、此数書を以て参考ふるに、上古素盞嗚尊、蛇を断の剣は当社(注・石上布都魂神社)に在事明かなり、其後、崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉るとあれ共、当社を廃されしとは見へず、又延喜神名帳にも大和国と当国に布都魂神社載せられたるは、当国石上神社を大和国に勧請して地名も石上といひしならん、さすれば、当国の石上本社なることも分明なりし」とす。
 寛文9年(1669年)時の備前藩主池田綱政が山頂にあった小祠を造営復興し、延宝2年(1674年)には神道衰之古事を知る人の少なきを歎き広沢元胤に命じ社記を作らせ(一巻)、社領二十石を奉納した。
 その後累代の藩主(綱政→継政→宗政→治政→斉政→斉敏→慶政→茂政→章政)崇敬懈りなく廃藩の時に至る。この間の藩主交替時には必ず折紙が奉納された。
 神剣(蛇の麁正・別名蛇の韓鋤・蝿断劒)は大和(奈良県天理市)の石上神宮にお移ししたということは石上神宮にもこのことが記されている。「布都斯魂大神 素盞嗚尊の以って八岐大蛇を斬り給ひし十握劒の威霊を称奉る御名なり。日本書紀神代巻一書に、其断蛇劒、号曰蛇之麁正在石上宮也と見之、古語拾遺に、素盞嗚神、自天而降到於出雲国簸之川上、以天 十握劒(其名天羽々斬、今在石上神宮古来大蛇謂之羽々、言斬蛇也)斬八岐大蛇とありて、もと備前国赤坂宮にありしが、 仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る。(抜粋・大正15年発行官幣大社石上神宮御由緒記)
 かくして神剣奉遷の後、石上神宮においても神剣所在は明らかでなかったが、明治7年水戸の人菅政友が古典に石上神宮(当時布留神宮)社内の禁足地に韻霊の神剣埋蔵されていることを知り教部省の許を得て発掘し神剣と勾玉を発見した。
 明治天皇にお見せし再び布留神宮の御霊(これを布都斯魂之大神と呼ぶ)を祀ることとなった。
 その時この剣を模して造ることを月山貞一に命ぜられ宮内省に納められた。その影造の剣が本神社に寄進された。明冶初年神社調によって郷社となり、明治39年神饌幣帛料供進神社に指定される。明治43年火災によって貴重な棟礼等ことごとく消失、大正4年現在の位置に社殿を改築した。
 昭和20年県社の資格ありと認められた。幻の県社である。平成5年現拝殿を建立する。この神社は近郷では「神社様(じんじゃさま)」と敬称し、疫病災(えやみ)を断つということ、安産、農耕、養蚕の守り神、子授かりの神として篤く信仰されている。近年一宮の朱印を求める参拝者多くなる。 』

 「近年一宮の朱印を求める参拝者多くなる。」とあるが、一の宮巡りでもしていなければ、めったに訪れる神社ではないであろう。

 現在の祭神は素盞嗚尊とされるが、明治6年(1873)に郷社に列したときに、祭神を素盞嗚尊に変更したようだ。社名の石上布都魂神社から分かるように、もともと布都魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀っていたのであろう。
 しかし、社伝などではスサノオが八岐大蛇を斬った剣を祀るとされる。スサノオが八岐大蛇を斬った剣については、石上神宮では布都斯魂剣(ふつしみたまのつるぎ)とされ、この剣が天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)とされている。つまり、布都魂剣と布都斯魂剣は別々の剣として扱われている。

 今でこそ神宮と言えば伊勢神宮を指すが、かつては神宮と言えば石上神宮を指したようだ。石上布都魂神社から石上神宮へ剣が移されたのは、崇神天皇の時代とも応神天皇の時代とも言われるが、とにかく大和に剣は移されたようだ。また、布都魂剣の「フツ」は剣で物を切断する時の「フツ」という音から来ていると言われるが、私は違うと考える。
 石上神宮に祀られる、布都斯魂大神、布都御魂大神、布留御魂大神などについては、ある考えを持っているが、石上神宮を訪れたときに記すことにしたい。その時には、石上布都魂神社ももう一度取り上げることになるだろう。


 当社の山の裏には、「土師方(はじかた)」という地名がある。これは、陶器職人を表す言葉、備前焼の発祥の地は、この「土師方」とも言われる。備前焼は高温で焼かれる須恵器であり土師器ではないが、名前だけは旧来の土師方が残ったものであろう。
 
 赤磐市の東には備前市があるが、備前焼は、岡山県備前市周辺を産地とする陶器で、日本六古窯の瀬戸・常滑・丹波・越前・信楽・備前のなかでも、もっとも古い窯場と言われている。
 備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つ。伊部(いんべ)は岡山県南東端に位置し、古墳時代から陶器が焼かれていた窯跡が多く残るという。
 伊部焼自体の歴史は鎌倉時代以降とされるが、古い窯跡が総社市奥ヶ谷で見つかっている。その発見によって須恵器窯が備前に導入されたのは、5世紀中頃になってからのことと考えられている。
 岡山県備前市伊部という地名にも名を残す伊部は、「斎瓮(いわいべ・いんべ)」のことで、祭祀に用い神酒を入れる神聖な甕のことである。勿論、祭祀氏族である忌部氏(斎部氏)が関わったことが考えられる。

 備前焼の歴史を遡ると、和気郡の南、邑久郡長船町須恵(現・瀬戸内市)を中心につくられた古代の須恵器に辿り着くという。
 須恵からは数十ヶ所の窯跡が発見され、また、祭器・日用雑器などいろいろな須恵器が出土した。そのなかに既に備前焼の特徴を伺わせるものがあるが、やはり備前焼のもとは熊山焼であると言われる。古代の末期、須恵器の技術を持った人たちが熊山(赤磐郡熊山町の南端(現赤磐市))の麓に移って、その中腹に窯を築いてもので、熊山窯の窯跡から瓶・壺・擂鉢が発見されている。ろくろを使った胴つなぎの様式で、荒々しい山土の素肌をいかした豪快な作品だという。「一遍聖絵」の備前福岡市の店頭に並んだ焼き物は、この熊山焼と考えられている。
 室町時代になると、陶工は熊山から伊部に移り伊部焼の時代に移ったようだ。この頃の陶工たちは座を組織して、共同して大窯を築いた。不老山の北大窯、榧原山の南大窯、医王山の西大窯がその中心で、以後明治初年まで大窯時代が続いた。窯は半地下式の登窯で、原料も田土を使うようになったから、肌は前代の荒々しさが消え、ねっとりしたものになった。
 茶の湯の流行しはじめた大窯初期の頃は、備前焼も力強く、健康な美しさがあり、当時の茶人に愛好され、茶器として珍重されるようになって華やかな桃山の茶陶時代を迎えた。その反面、秀吉や岡山藩の保護を受けるようになると、その作品は堕落し、素直な姿にわざと“ゆがみ”や“へこみ”をつけ、これを美と称するようになり、この傾向は近世後期の天保窯時代になって極まった。備前焼が一部の人の間で顰蹙を買っているのはそのためだという。


 『古事記』の孝霊天皇の段に、「大吉備津彦命と稚武吉備津彦命とは、二柱相副ひて、針間の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いわいべ)を居ゑて、針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき。」とあることからも、古代から、備前で斎瓮(忌瓮)が焼かれていたことが推測できる。

 製鉄も窯業も火を扱う共通点がある。石上布都魂神社の周辺では砂鉄が多く、銅も産出される。「真金吹く」は、吉備の枕詞であるが、当社周辺は「たたら製鉄」に適した場所であったのだろう。石上布都魂神社に鉄の剣の伝承が残るのは当然なのかもしれない。
 輸入に頼っていた鉄素材を、新羅などからの渡来人から製鉄技術を学び国産化でき、国産の鉄剣の量産化に成功した記念碑であった可能性もある。大和の石上神宮には内外の大量の剣が集められていた。
 銅と鉄では融点が違うので、その技術的ギャップを克服するのは大変なことであっただろうが、銅製品の製造者が鉄の生産にも関与していったことが十分考えられる。銅と鉄の生産には、その生産者において断絶はないように思われるが、倭鍛冶と韓鍛冶の呼称があるように、銅生産者は渡来人からの技術供与を受ける必要はあったようだ。
 

 石上布都魂神社は近郷では「神社様(じんじゃさま)」と敬称されていたというが、江戸時代から本殿、神輿の改修は、(平岡)八幡神社、(寺部)熊野神社と共同負担とする制度があった。例祭の御神幸は、八幡神社と合同で、熊野神社へ 、熊野神社で獅子舞、棒術等がある。
 石上布都魂神社は備前国の一の宮ともされ、特別な神社であったようだが、江戸時代には八幡神社や熊野神社と合同で神事が行われる普通の神社となり、そのため郷社どまりであった。
 大和の石上神宮と繋がる伝承がなければ、一の宮ともなることもなく、顧みられることのない神社になっていたことだろう。それにしてもスサノオは出雲神話に登場するので、出雲が主な活躍の舞台かと思っていたが、吉備の国でもスサノオの伝承がかなり多いことが分かった。スサノオはやはり新羅と関わる鉄の男である。

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