旅 773 姫社神社(ひめこそじんじゃ)

2016年 8月23日
姫社神社(ひめこそじんじゃ)

 姫社神社へ行こうとカーナビをセットした。鎮座地は高梁川の右岸であるが、渡る橋をカーナビが選択できず、かなり上流まで行って高梁川を渡った。そこからの道も山越えの道で農作業をする軽トラックがやっと通れるぐらいの道であり、通り抜けられるのか心配になった。

 北の吉備高原ではなくても、すこし外れて山にはいると、道も細く不便な所で人家もない場所であることが分かった。
 かなり遠回りしたが、着いてみれば高梁川さえ間違わずに渡れば国道180号線から近い場所であった。
 前にもカーナビを頼ってかなり遠回りしたことがあったが、今回もガソリンと時間の浪費をしてしまった。文明の利器に頼るばかりではなく、道路マップにより自分の目でも確かめることの大切さにあらためて気づかされる経験であった。
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現地説明板より
『 姫社神社由緒
一、鎮座地 総社市福谷1423番地
一、創建  不詳
一、社格  式外社 村社
一、御祭神 比賈碁曽神(阿加流比売命)
一、祭日  春祭(5月13日)、秋季大祭(10月第二土・日曜日)、新嘗祭(11月30日)
一、由緒
 古事記によると応神天皇の代に新羅の王子、天之日矛(天日槍)は美人の「阿加流比売(あかるひめ)」を妻としていたが、ある時、王子が罵ったので、自分の祖国に帰ると言って日本へ逃げて来た。その後、王子も妻を追って日本に来たとある。阿加流比売の生誕の説話には、聖なる神の石(赤い石)から聖なる乙女が誕生するという神女神石誕生伝承もある。
 天之日矛の渡来集団に象徴される文化は、青銅器の文化ではないかと考えられる。さらに製鉄技術を持込み伝承したと思われる。
 天之日矛の妻「阿加流比売」は比賈語曽神とも呼ばれ、製鉄の神として祀った。ヒメコソ神社と呼ばれる神社は全国に4社ある。当地総社市福谷の姫社神社、佐賀県鳥栖市姫方町の姫古曽神社、大分県東国東郡姫島村の比賈語曽神社、難波の比賈碁曽神社があり、ルートとしては北九州から瀬戸内海、そして難波へと伝わったと思われる。
 吉備の国が、製鉄王国であったと思われる理由には、高梁川西岸・新本川流域は製鉄関連の遺跡が点在していること、さらには渡来系の秦氏が治めた地であり、秦氏は天之日矛や阿加流比売を崇拝していたということで、福谷へ社を建て祀ったのではないかと思われる。
 神社下の水田は上条、中条、下条と言った地名が残っており飛鳥時代の条里制を表す跡と思われ、古来からの由緒ある神社といえる。
 平成27年 10月  秦歴史遺産保存協議会  』 
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 随神門も拝殿も瓦葺であった。

 本殿は銅板葺の流造であった。
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 現地にはパウチされたプリントの掲示があった。
『 姫社神社由来のこと
 姫社の姫とは天の日矛の妻、阿加流比売(アカル姫)
 昔、新羅の国に国王の子がいました。名前は天の日矛といいました。この人は、海を渡ってわが国にきました。渡来してきたわけは、こういうことです。
 新羅国に沼がありました。その名を阿具沼といいました。この沼のほとりで、卑しい一人の女が、昼寝をしていたそうな。すると日の光が虹のようにその女のホトのあたりを射したそうな。また、その様子を見ていた卑しい男がいて、女をいつも観察していました。女は昼寝をしたときから身重になって、赤い玉を産んだそうな。卑しい男は女に産んだ玉を所望し手に入れました。男はいつもこの玉を包んで腰につるしていました。
 ある日、この男は谷間にある田んぼに、農夫の食べ物を、一頭の牛の背に乗せて運んで谷間に入りました。そこで国王の子、天の日矛に出会いました。天の日矛は男に尋ねて「何だってお前は牛の背に食べ物を乗せて谷間に入るのだ。牛を殺して食うのではないか」、男を捕らえて牢屋に入れようとしました。「私は牛を殺そうとはしていません。ただ農夫に食事を運んでいるだけです。」でも許してもらえません。男は腰につけた玉を、天の日矛にゆずって、許しを請いました。男を許した日矛はその玉を持ち帰り、床のあたりに置いていますと、玉は美しい乙女となりました。日矛は、乙女と結婚し妻にしました。
 妻は至れり尽くせり、天の日矛に献身していましたが、国王の子が高慢になって妻をののしるので、「私は耐えられません、あなたの妻になるような女では有りません、私の祖国に行きます」と、小船に乗って逃げ渡って来て、難波に住みました。これが摂津の国の比売碁曽の社鎮座する阿加流比売という神だそうです。垂仁、三年三月、新羅から天の日矛は妻を追って渡来、難波に行くが、入れられず但馬の国に住み、タジマノマタオの娘マエツミと結婚し、産んだ子がタジマモロスクである。
 天の日矛は、製鉄の技術を伝えたと言われています。真金吹く吉備、古代吉備の国は鉄の文化で栄えたと言われています。姫社神社は、鉄の神様として福谷の地に祭られています。また、鬼の城は朝鮮式山城です。高梁川をへだてて東にあります。朝鮮半島と日本列島、民族と文化の交流は古代より、寄せては返す潮のように、続いていたのです。 』


 天之日矛(天日槍)は現在、出石神社に祀られている。



 参拝を終えて車で走っていると、秦の郷(はだのさと)の案内図があった。
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 この案内図には、姫社神社も載っている。他に、秦原廃寺、石畳神社、一丁ぐろ1号墳、麻佐岐山神社などが載っていた。
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 一丁ぐろ1号墳は全長76mの前方後方墳で、3世紀後半~4世紀初期の古墳とされるのでかなり古い。方墳であることが興味をさそう。
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 姫社神社に行くのにカーナビが遠回りの道を選んだために、山越えで麻佐岐神社の近くを通ったが、道も細く不便な場所であった。
 岡山県神社庁のページには次のようにあった。
『 麻佐岐神社 マサキジンジャ
 鎮座地 総社市秦4035
由緒
 当社は吉備の国最古の創建であり、鎮座地の全山を麻佐岐山と称し、山頂の霊石を霊代(ミタマシロ)としているため、本殿は無く、山腹の大祓谷に祓所がある。
 延喜式内社であり、本国一宮格を定められた。また、岡山藩主池田氏においても、旱魃の時は祈雨の祈願所と定められ、非常の災害流行病などが起こった時には、藩主が祈願の奉幣を行った。享保18丑歳5月岡山藩主池田継政の自筆による五穀成就祈願の守箱が現存する。
 式内22社の明細帳には「旧久代村に麻佐岐田の遺跡あり」と記している。
 祭神は備中誌には天照大神、吉備郡神社誌には大国魂神とあり、明治40年に村社に列格する。
 「備前国式内書上考録」の内の「備中国式内18社之内4座岡山藩支配所分書上」に「山上に霊石二顆大小二つ粗なる石の玉垣もてかこひ前に一間四面の拝殿立てあり当山は郡中の高山にて四方の眺望甚よし一山樹木なく絶頂に松樹四五十本あるのみなり。如此高山にてうつくしき山なれば社はなくてただの麻佐岐山を神体として斉き祭れるものならんか」と記されている。
 その姿は今は緑深くはなっているが、南方の眺めは素晴らしく、遠く瀬戸内海が展望される。
 神座(磐座)
 麻佐岐神社のご祭神は古来この磐座(巨岩)と云われ、磐座信仰の姿が今に残り、社地は極めて狭く、それらしい社殿の所在した跡も見当たらず、現在簡素な板囲いの幣・拝殿兼ねた1棟が残るのみである。
 磐座とは岩石などに神を招いて祭祀を行う神聖な磐境、岩肌のある場所や見晴らしの良い高山や容易に近づけない山頂などである。
 当社は清浄な磐座を聖地として注連縄を掛けて、古来から守っている。 』

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 秦原廃寺は中四国最古の寺院跡だという。気になって調べたので後で載せる。

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 石畳神社は高梁川のすぐ近くに鎮座する。高さ約60mの磐座が御神体だという。

 『総社御利益辞典4 石畳神社』 という動画があったのでリンクを張っておく。



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 岡山県神社庁のページには次のようにあった。

『 石疊神社 イワダタミジンジャ
 鎮座地  総社市秦3995
由緒
 本神社は本殿がなく、大自然石を御神体としている。創建年代、由緒等は不詳である。明治四十年五月二十二日村社に列した。 』

 『平成祭データ』には次のようにある。
『 延喜式内の神社にして、上古より神殿を設けず20数米の磐石を以て神の御室と定め石畳の神と奉称す。大和の国三輪の大神の三輪山を以て神の御室と定め給えるが如し。 万葉集に(石畳さかしき山と知りながら我は恋しく友なくに)とあり。また祭田の遺跡あり。 』

『備中誌』には、「荒平山の内有高サ十六丈餘今廃して社なし数十丈の石壁を神体とす」とある。

 昭和22年頃に御神体の磐座にトンネルを造り、交通の便が一段と良くなったというが、御神体の磐座に穴を開けトンネルにしてしまったのだから、戦後は磐座信仰も廃れ、交通や生活の便利さが優先される時代になってしまったようだ。そしてそこにはもはや神はいない。
 石畳神社には、「辺津宮」と書かれた小さな標が建っていて、正木山山頂にある麻佐岐神社には、「奥津宮」という標があるそうだ。磐座を祀る2つの神社は、関連した祭祀を行っていた可能性がある。
 おそらくその祭祀は、高梁川(たかはしがわ)の水神を祀るものだったのだろう。

 麻佐岐神社は、「岡山藩主池田氏においても、旱魃の時は祈雨の祈願所と定められ、……」とあるので、水神を祀っていたと考えられる。
 また、「本殿は無く、山腹の大祓谷に祓所がある。」とあるので、祓戸四神の1柱である瀬織津姫が祀られていた可能性もある。

 『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。
 これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。
・瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す。
・速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む。
・気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ。
・速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う。

 本居宣長は、瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てている。
 『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は伊勢神宮内宮荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記している。  


 現在、正木山(381m)山頂にある麻佐岐神社は、あまりにも不便なため、訪れる人も僅かだと聞くが、石畳神社はトンネルも橋もでき交通便利になったので訪れる人が多いという。


 石畳神社と麻佐岐山神社は式内社である。
 備中国の式内社は18社あり、そのうち7社が総社市内にある。その7社を列挙すると以下のようになる。
・百射山神社(三輪) 大山積命、猿田彦命
・古郡神社(総社) 吉備武彦命
・野俣神社(総社) 大年神
・石畳神社(秦) 経津主神
・麻佐岐山神社(秦)  大國魂神
・神神社(八代)
・横田神社(久代) 天穂日命、菅原道真

 これらの式内社のうち、野俣神社(備中総社宮の境内社)と神神社を訪れたが、秦の郷にも2社の式内社がありいずれも磐座が関係していることは興味深い。式内社が2社あることからも、秦氏が住んだと言われる秦の郷は古代においては開けた場所であったのだろう。



秦廃寺
 総社市秦2328番9にある岡山県指定史跡の秦廃寺(はだはいじ)は、宝福寺の西約1.6kmの高梁川西岸にあり、7世紀前半に建立されたとみられている。
 秦廃寺(秦原廃寺)跡地には、現在、塔心礎や礎石が一同に集められているが、出土した瓦等から、飛鳥時代に創建された中四国最古の寺院跡とされている。

 現在は小さなお堂の横に塔の心礎が見えるだけだが、当初は築地に囲まれた東西109m、南北109mもしくは163mが寺域で、寺域の南限に南門、現在塔心礎がある所に塔、その西側に金堂、それらの北側に講堂が存在したと考えられ、建物の礎石が現地にいくつか見られる。
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 塔心礎は上面に一辺約125cmの平滑な方形座を4cmほど高く造り出し、中心部に径約45cm、深さ33cmの円形柄穴(ほぞあな)が加工されている。このような飛鳥様式をもつ心礎は県下でも唯一のものだという。

 ここから出土した軒丸瓦は、二種類が確認されており、その一種類が、岡山県内で最古の飛鳥様式の八葉単弁の蓮華文の瓦で、もう一種類は、吉備式と呼ばれるものである。なお、瓦の窯跡が秦天神社の境内内で発見されている。
 次の写真の1が飛鳥様式の八葉単弁の軒丸瓦で、2が吉備式と呼ばれる白鳳時代の軒丸瓦である。
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 出土品では押出仏(おしだしぶつ)が注目される。押出仏は型に粘土を押しつけて作った仏像で、如来像や菩薩像など数体分の破片が見つかり、釘が残るものもあり、建物などの壁に取り付けていたことが分かる。
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 秦の郷(はだのさと)には、式内社が2つあり、飛鳥時代の創建とされる秦廃寺もあることを考えると、古代の先進地域であったと考えられ、その文化は秦氏が導入したものと考えてよい。
 県内には多くの古代の廃寺があるが、飛鳥時代のものはここ一つだけで、故に中四国最古の寺院跡とされている。古代豪族が権力誇示のために造ったのは、初めは古墳であったが、それが後に寺院に代わっていったとする見解がある。吉備国ではその先鞭をつけたのが秦氏であったようだ。寺院づくりは古墳以上に高度な建築技術や知識が必要となる。

 秦氏も他の渡来系集団と同様に北九州から東に移動し、最後には山城国に大きな拠点を置くようになったのであろう。その途中で吉備国においても駐留し力を蓄えたことが考えられる。秦氏は古代吉備豪族に便乗して中央に進出したことも考えられるが、古代吉備豪族のテクノクラートとしてお互いに共存共栄の関係にあったのであろう。
 

 総社市内には秦廃寺の他に、賀夜郡に栢寺(かやでら)廃寺(県指定史跡)や窪屋郡に三須廃寺などがあるが、いずれも白鳳時代のものである。白鳳時代には有力豪族による造寺活動が盛んになったと見られる。


 吉備の中心地は岡山市から総社市にかけての地域だったようだ。
 720年に完成した『日本書紀』や平安時代初めに編集された『続日本紀(しょくにほんぎ)』から、かつて吉備と呼ばれた地域があったことは分かるが、その吉備がいつ3つに分割されたかは、はっきりしない。いずれにしても吉備は備前国(岡山県東部)、備中国(岡山県西部)、備後国(広島県東部)の3ヶ国に分割された。

 分割された時期ははっきりしないが、飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)で「吉備道中国加夜評 葦守里俵六□」と書かれた木簡が出土している。ここにある「吉備道中国」は備中国と考えられ、木簡に年代は書かれていなかったが、一緒に見つかった土器から7世紀末のものと分かったので、遅くとも7世紀末には備中国が成立していたことが分かる。更に713年(和銅6年)には備前国から美作国が分国された。

 備中国は都宇郡、窪屋郡、賀夜郡、下道郡、浅口郡、小田郡、哲多郡、英賀郡の8郡からなり、現在の笠岡市・井原市・総社市・高梁市・新見市・浅口市・早島町・里庄町・矢掛町の全域、岡山市・倉敷市・真庭市・吉備中央町の一部に当たる。

 南北に長い備中国には、さまざまな特産品があったようで、10世紀初めの『延喜式』の記録では、備中国の人々が、鉄、桑、絹、染めた糸、木箱、ごま油、染料に使う茜、漆、鰯、栗、大豆、小豆、鹿の皮などを納税していたことが分かる。
 また、納税する時に荷札とされた木簡には塩の字が見え、瀬戸内海の海水を利用した塩作りも盛んだったことが窺える。平城京跡では焼き塩土器に加えて、備中国から塩が税として運ばれたことを示す木簡も出土している。その木簡の表と裏には次のような文字が書かれていた。
 「備中国浅口郡船穂郷調塩」「三斗安曇部押男」
 つまり、浅口郡船穂郷の安曇部押男が塩三斗を調(税)として納めたことが分かる。

 浅口郡には安曇部押男という安曇氏の部民が住んでいたことが注目される。



 国道486号線(山陽道)を西に走り、井原で国道313号(山陽道)に入り広島県まで走った。このルートは古代の山陽道にも重なるようで、国道486号線沿いの毎戸遺跡(小田郡矢掛町)は発掘調査で駅家跡と推測されている。
 古代山陽道は30里(約16km)ごとに駅家(うまや)という施設が設けられ、馬の乗り継ぎや宿泊施設として利用された。


 広島県福山市に入ったが、周辺に適当な道の駅がないので、昨夜は岡山市内のジョイフルの駐車場で車中泊をしたが、今夜もジョイフル福山駅家店(福山市駅家町)で夕食を済ませ旅のまとめをした後、そこの駐車場で車中泊した。
  この駅家町も駅家(うまや)があった場所だとされる。駅家は官道(旧山陽道)に置かれた官営宿場で、ここでは20頭の馬を配置し、都へ運ぶ米などを中継ぎする場所だったという。馬家町(えきやまち)のどこかに品治駅(ほんじえき)があったと『和名抄』にあるが、正確な位置ははっきりしないという。いずれにしても馬家は旅人の宿泊場所としては良い名である。

 旅に出ると、24時間営業のファミレスがあると助かる。朝食もそのファミレスで食べる。最近は深夜2時頃までで閉店となり、24時間営業ではなくなるファミレスが増えてきた。

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