旅 780 袋田の滝

2016年 9月12日
袋田の滝

 福島県からの帰りに、袋田の滝に寄った。ここは職員旅行で一度来たことがある。
 国道4号線から須賀川で国道118号線に入り南下した。この路はJR水郡線が平行して走る。水郡線は水戸と郡山を繋ぐので水郡線という。途中から久慈川の流れにも沿う。

 袋田の滝(ふくろだのたき)は、茨城県久慈郡大子町袋田にある滝である。久慈川支流の滝川上流にあたり、長さ120m、幅73mで、冬は「氷瀑」と呼ばれる滝が凍結する現象が発生することがある。
 華厳滝、那智滝とともに日本三大名瀑のひとつに挙げられる場合もあり、日本の滝百選にも選定されている。
 華厳滝は何度か行ったことがあるが、那智滝は訪れたことがない。那智滝を含めた熊野三山を訪れるのが楽しみである。


 入場料300円で、「袋田の滝 観瀑トンネル」(長さ276m、高さ3m、幅員4m)を通って観瀑台へ行った。

現地説明板より
『 国指定 名勝 袋田の滝及び生瀬滝
平成27年3月10日指定  管理者 大子町
 関東地方北部を流れる久慈川の支流のひとつに滝川があります。この滝川は東方の生瀬盆地から西方の低地へと流れ落ち、その途中に生瀬滝と袋田の滝があります。
 約1500万年前の火山角礫岩層の大きな節理・断層に沿って河水が流れ落ち、西方の凝灰質砂岩層等を浸食することにより形成されました。
 袋田の滝は、四段から成り、「四度の滝」の別称を持ちます。この別称は、弘法大師空海が四度護摩修行を行ったことに由来すると伝わります。近世には水戸藩主が領内巡検の途上に訪れ、徳川光圀、治紀、斉昭も滝の秋景を和歌に詠みました。近代には大町月桂・長塚節など数多くの文人が袋田の滝の風景を詠った詩歌を残し、昭和2年(1927)の「日本二十五勝」にも選ばれました。こうして、袋田の滝は名実ともに日本を代表する名瀑として知られるようになりました。また、生瀬滝にはこの地を拓いた大大坊(だいたんぼう)にまつわる民話が伝わり、長らく地域の人々に親しまれてきました。
 濃灰色の岩盤上に白布を引き流したように見える二つの滝は、右岸の屏風岩、左岸の天狗岩とともに緑樹・紅葉に彩られた優秀な風致を誇り、四季を通じて見る者を魅了し多くの芸術作品に描かれてきたことから、観賞上の価値及び学術上の価値は高いといえます。
 平成28年3月  大子町教育委員会  』

 説明文に“大大坊”が出てきた。この地方では「ダイタンボウ」と呼ばれるようだが、日本の各地でダイダラボッチとかダイダラ坊とかデエダラボッチなどと呼ばれる巨人である。大太法師(だいだらぼっち)、大太郎坊(だいだらぼう)とも表記される。
 ダイダラボッチには、山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている。

 『常陸国風土記』那賀(香島郡・那賀郡)略記には、次の記述がある。(『常陸国風土記』は漢文で書かれているので、大意を載せる)
「 平津の駅家(うまや)の西12里(古代には12里=60町≒6.5km)に、大櫛という岡がある。大昔、巨人がおり、岡の上にいながら手が海まで届き蜃(大ハマグリ)をさらうほどであった。巨人の食べた貝は、積もって岡になった(貝塚のこと)。当時は大朽(おおくち)といったが、今は大櫛の岡という。巨人の足跡は長さ40歩余、幅20歩余で、小便が穿った穴は直径20歩余であった。 」

 古代人は川の上流を神聖視し、そこに入り水を汚す(けがす)ことを禁じた。深山は異界であり、山は仰ぎ見るもので、登るものではなかった。そしてそこには生活を支える神々が宿っていた。神聖な山の開山者(登頂者)に仏教者が多いのは、仏教にはアニミズムに始まる神への概念がなかったからかもしれない。
 後世、山岳仏教者でもある修験者(山師でもあった)が山に入り、やがて山の神であったダイダラボッチは零落し、鬼や妖怪のたぐいとなっていったようだ。大太法師や大太郎坊の表記には仏教の影響が見える。



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 トンネル内には観音が祀られていた。
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現地説明板より
『 袋田の滝胎内観音縁起
 いつの世に つゝみおきけん 白糸の 布引きいだす 滝の白糸 (伝光圀)
 悠久万億年の太古より、織りなせる天然景観のいのち、春は花、夏翠緑に、秋もみじ、冬雪さゆる大自然の心である。有情非情一切の生命は、みほとけの大いなる力である。
 大日経にもとづく、胎蔵界曼荼羅に具現された五如来及び、普現、文殊、弥勒、観音の四菩薩の九尊、別して衆生縁、ことのほか深い観世音菩薩の功徳は、広大無辺である。観音経にも、衆生困厄せられ無量の苦身にせまるとも観音の妙智力は、能く世間の苦を救いたもうと示される。
 ここに岩を穿ち山を貫いて観瀑の路を通ずるにあたり、この大いなる母なる大地の胎内に、大慈大悲の観世音を安置せんと再三協議を重ね、斯界の権威日展評議員、幹事 後藤清一翁労作になる観音妙化の真法身を現成し、大方四来有縁の信男信女の所願成就を祈願し、国土昇平万民富楽冀い自他平等の利益を円満せんことを。  至嘱至祷
 峯の色 たきのひびきもさらがらに 南無世音の声とすがたと
 昭和55年2月13日  開眼法供養の吉辰  』

 この観音様は古いものではない。しかし、滝に観音菩薩を祀ろうとする思想は古くからのものだ。


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現地石版より
『 瀧を詠む
花もみち経緯(よこたて)にして山姫の錦織出す袋田の瀧  西行法師(平安時代の歌僧)

いつの世につゝみこめけむ袋田の 布引出すしら糸の瀧  徳川光圀(水戸黄門)(水戸徳川藩二代藩主)

もみち葉を風にまかせて山姫の しみつをくゝるふくろ田の瀧  徳川斉昭(水戸徳川藩九代藩主)

御空より巌を伝ひて飛落ちて すへりて散りて四度の大瀧  大町桂月(明治の文豪)  』


 四度の瀧不動尊が祀られていた。
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 この不動尊は前から祀られているようだ。滝には十一面観音や不動尊が祀られることが多い。
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 徳川光圀の歌ではないが、見る角度によっては、白い布が岩場に掛かっているように見える。

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 「 生瀬滝まで片道20分 」とあったが、袋田の滝で満足したので行かなかった。
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 1.6kmの月居山ハイキングコースがあり、コースには月居観音堂がある。
 正しくは月居山光明寺観音堂といい、天台宗で大同2年(807)の創建だとされる。お堂の中には運慶の作と伝えられる高さ6尺(約1.8m)の聖観音菩薩が安置されているそうだ。永保3年(1083)、源義家が奥州征伐の際、このお堂の中に一晩籠って戦勝を祈願したと伝えられている。
 大子町のページより月居観音堂の写真を拝借して掲載する。
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 月居観音堂の創建が大同2年(807)であることは、気になるところである。関東や東北の寺社で創建が大同2年(807)であるものが多いことは、前から指摘されている。また、それらの寺社の由緒書には坂上田村麻呂、弘法大師空海の名がよく見られる。

 大同2年(807)とは、どんな年であったのか。
 円仁や空海、坂上田村麻呂に関連した伝承で、この年号がよく使われる。空海が日本に帰国した年が大同2年と言われることも多いが、史実としてはっきりとしない。また、坂上田村麻呂の蝦夷征伐から二年後のことである。
 阿仁鉱山や尾太鉱山が発見された年号にも使われている。高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間や大同2年とするものが多い。大同年間は僅か四年の短い期間である。
 八溝山や森吉山、気仙郡などの鬼退治も大同2年と伝えられている

 大同年間の伝承の多くが山に深く関わり、天台宗や真言宗の密教との関係があることから、大同年間の伝承を伝え歩いたのは山岳仏教者(修験者)ではないかと考えられている。
 修験者は、密教の“行”として廻峯したこともあろうが、鉱山探索の山師としての役目も担っていたようだ。大同年間に鉱山の開坑が多いのもそのためであろう。

 室町時代に「高野聖」が山伏風の独特の風態で全国を行脚し、大師(空海)信仰を全国に広めたと言われるが、聖(ひじり)は「高野聖」以前から「四天王寺聖」「善光寺聖」などがいた。
 高野聖は、大師(空海)信仰を広めたが、四天王寺聖は聖徳太子信仰を広めたと言われる。
 聖(ひじり)は漂泊する最下層の仏教者でもあった。従って、聖が廻る四天王寺、高野山、当麻寺、磯長寺(叡福寺)、善光寺などに聖徳太子信仰が広まった。
 聖徳太子信仰については、神羽神社 のブログで触れた。

 坂上田村麻呂も空海と同時期、蝦夷征伐で名を馳せた。京都の清水寺の本願と位置づけられている坂上田村麻呂は、清水寺に十一面千手観音を祀るが、これは結果的に裏切ることになった阿弖流為(アテルイ)の冥福を祈るものだったのかもしれない。
 清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。坂上田村麻呂は真言密教の影響もあり、清水寺の創建に尽力したように思う。坂上田村麻呂は十一面観音を本尊とした寺をいくつも創建している。全国各地の大同年間の神社仏閣に伝わるその多くの十一面観音は、密教による地主神隠しであったことも考えられる。
 長野県長野市若穂地区の清水寺(せいすいじ)には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)があるが、ここの本尊も十一面千手観音であった。


 先に、「深山は異界であり、山は仰ぎ見るもので、登るものではなかった。そしてそこには生活を支える神々が宿っていた。神聖な山の開山者(登頂者)に仏教者が多いのは、仏教にはアニミズムに始まる神への概念がなかったからかもしれない。」と記したが、日本の登山文化を語る上で、一番大きな役割を果たしたのは山岳の修行で、修験者は密教を取り入れ理論武装を行い発達したともされる。大同2年に代表される大同年間の寺社の伝承は、これらのエポックを表すものであろう。

 修験者が密教とともに背負った役目は、鉱山の探索と地主神の封印であったようだ。まだ、蝦夷地であった東北地方を治めるための政(まつりごと)には、中央の祭祀方針と合わない神を認めるわけにはいかなかった。まだまだ祭政一致の時代であり、蝦夷の民が信じる神をそのままにして、ヤマト朝廷が蝦夷の民を治めることが難しい時代であった。


 現地石版の『瀧を詠む』の、西行と徳川斉昭の和歌に「山姫」とあるのが、気になる。また、月居観音堂の観音は十一面観音菩薩ではなく聖観音菩薩だとされるが、山号が月居山で「月」が入っていることが気になる。
 何でも勘繰るのはよくないが、古くはやはり滝の水神として瀬織津姫が祀られていたのではないだろうか。

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