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zoom RSS 旅 835 琴林公園(きんりんこうえん)

<<   作成日時 : 2018/09/14 23:50   >>

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2016年 10月20日
琴林公園(きんりんこうえん)

 四国へ入って3日目の朝を迎えた。昨夜は道の駅「津田の松原」にて車中泊をした。朝起きると、軒で野宿していた自転車の旅人がいた。彼も現代のお遍路さんなのだろうか。

 昨夜は暗くなって道の駅「津田の松原」に着き、近くの居酒屋「わさび家」で飲んでほろ酔い気分で寝てしまったので、道の駅の様子は分からなかったが、この道の駅「津田の松原」は琴林公園に隣接されていた。

 朝の散歩がてらに琴林公園を散策した。
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 現地説明板より
『 琴林公園の名称は、松林を吹き抜ける風音があたかも琴を奏でるような音に聞こえることから、「琴林公園」と名付けられたとの言い伝えがありますが、一般には「津田の松原」と呼ばれています。
 当公園は、約600年前に石清水八幡宮の別当、常楽寺の僧が防風林として松を植えたのが始まりといわれており、現在樹齢600年とも言われるクロマツや、根元の砂が削られたため、あたかも根が浮き上がったかのように見える根上がりの松をはじめとする約3000本もの松と白砂が広がる自然海岸がある全国でも有数な白砂青松の公園で、海水浴等レクリェーションの場所として一年中親しまれています。
○面積:約9.30ha
○大正4年8月24日県立公園に指定。昭和31年5月1日に瀬戸内海国立公園に指定。昭和62年1月10日に日本の白砂青松100選に指定。
○その他のみどころ:「七福神の松」、ハマヒルガオ等の海浜植物
○問い合わせ先:さぬき市商工観光課(TEL087−894−1114
 香川県  』

 琴林の名は1801年(享和元年)京都の学者皆川淇園がこの松原を讃えた言葉から採られたものともされる。


 津田石清水神社があった。
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現地説明板より
『 由緒 津田石清水神社
鎮座地 香川県さぬき市津田町津田106
祭神  誉田別命 息長帯姫命 玉姫命
由緒
 古くは難波津(なにわづ)と呼ばれ、海外では朝鮮半島と、又国内では畿内(大和朝廷)などと交易のあった津田浦の氏神社で、仁和年間(885〜888)山城国(京都男山)石清水八幡宮の分霊を勧請、現在地の西方にある雨滝山麓に津田八幡宮として鎮座しました。雨滝城主安富氏の保護も篤かったと伝えられています。天正11年(1583)、長宗我部軍の兵火により衰退しましたが、文禄元年(1592)8月に再興しました。この後、慶長5年(1600)、現在の地に遷座しました。跡地は座殿池という名のため池となっています。明治5年、現在の石清水八幡神社と改称しました。

特徴
 県下最大の海水浴場である津田の松原は、琴林公園とも呼ばれ、その昔は高松城主・松平氏の領地でした。その5万坪の土地に、神域として氏子が日向松の苗を植えたのが松原の始まりだと言われています。
 当社はその松原の中にあり、階段が全くない平地に社を構えているため参拝も容易にでき、さらに道の駅が隣接しているため、車でも簡単にアクセスできます。又、珍しいことに当社の狛犬は日本狼です。 』

 説明文に、「又、珍しいことに当社の狛犬は日本狼です。」とあったので、狛犬を注意して見たが、狛犬はいくつもあり普通の狛犬もあった。
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現地説明板より
『 津田の松原
 昭和31年、瀬戸内海国立公園に指定された5万坪に及ぶ津田の松原は、またの名を「琴林公園」という。
 江戸時代初頭津田八幡宮境内の植林からおこったものとされ、1633年(寛永10年)の讃岐古地図にも記載されている。毎年夏には、東かがわ随一の海水浴場としてにぎわう。
 この広大な白い砂浜と老松の群れは、映画全盛時代のロケーションに格好の場で、多くの名優と共にスクリーンに登場している。
 嵐寛寿郎、板東妻三郎、月形竜之介、石原裕次郎、小林旭、高橋英樹、浅岡ルリ子他枚挙に遑ない。
 また、文化、芸術の著名人もこの地を訪れ、平山郁夫画伯をはじめ作品の題材にのぼることも少なくない。版画家、棟方志功は、「世界一の松、四国でいちばん素晴らしいところだ」と賞賛した……。
 津田まちおこし事業実行委員会  』
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 海岸から津田石清水神社へ続く松原の中の参道は、夏至の日の出が真正面になるように配置されているそうだ。
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 海岸へ出てみた。
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 松原に戻ると、「わたしを5分間使って下さい」とあったので、車中泊させてもらったこともあり、熊手を使って松の落ち葉などを集めた。
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 今日も旅の空は晴れて旅人を祝福している。


 讃岐山脈の山ふところから流れ出る津田川が、長尾平野の東の端を流れ下り、大川町・寒川町を抜け雨滝山の山すそを迂回して津田湾に注ぐ。上流に大川ダムが造られて、今では水量がわずかだが、この川の流域一帯は東讃でも最も早く開けた土地で多くの遺跡が残されている。

 東方で播磨灘に面し、他の三方を小高い山に囲まれて湾入する津田港は天然の良港として古代から四国と畿内を結ぶ一つの玄関口であったと考えられている。その歴史は古く弥生時代から古墳時代のころ、この港が既にそのような役割を持っていたようだ。
 江戸時代には東讃地方で盛んに製造された砂糖の積み出し港として砂糖会所がおかれ、多くの砂糖回船で賑わったという。

 港にそって広がる津田の町並みを抱くように連なる山々は、北から北山・竜王山・雨滝山・火山・鵜部山などと呼ばれるが、これらの山頂や丘陵突端部などに弥生遺跡や古墳が十数基も分布し、津田港が古代からの東讃の要地であったことが分かる。

 北山は標高306.5mで、そのなだらかな山頂付近に弥生遺跡があり多数の遺物が発見された。この北山遺跡は、讃岐をはじめ瀬戸内の島々で発見される高地性の弥生遺跡の一つで、弥生終末期の政治的緊張や社会的不安と関係した遺跡と考えられている。

 一方、古墳は北西から東南にかけて、北羽立古墳・竜王山古墳・岩崎山1〜4号墳・泉山古墳・赤山古墳、東の海上に突出した鵜部山古墳・けぼ山古墳など十数基が発見されている。いずれも前期の終わりから中期にかけての古墳で、後期古墳は見られない。中でも漢式の二神四獣鏡や剣10など多数の出土品があった岩崎4号墳(前方後円墳)や前方後円の積石塚として珍しい鵜部山古墳などが注目される。積石塚は渡来系氏族のものとも推測される。
 何れにしても農耕地に適する平地がほとんどないこの辺りに、このように多数の古墳が集中しているのはなぜだろう。しかも、そのほとんどは前期から中期の比較的限られた時期の古墳だと言うことから、この津田湾のもつ地理的な位置、これに先行する北山遺跡などからして、畿内勢力との政治的な関連の中に問題を解く鍵があると考える研究者もいる。それは、畿内勢力と九州勢力との合体を含む権力闘争を予感させる。記紀にも九州勢力の東遷の記事が載ることが気になるところだ。倭国大乱はあったのであろう。また、津田の後背地でもある寒川町・大川町の遺跡も重要な意味を持っているように思う。

 古代においても現代でも瀬戸内海は九州と畿内を結ぶ大動脈であることには変わりなく、更にその延長線上には朝鮮半島や大陸が繋がる。

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