旅 926 種間寺 と 南学発祥地の碑

2016年 10月29日
種間寺 と 南学発祥地の碑

 土佐南学の発祥地にある「南学発祥地」の碑を探して走り廻っていると34番札所の種間寺があったので寄った。

 高知市春野町秋山にある種間寺は「今昔物語」にもその名がみえる。正しくは本尾山朱雀院種間寺といい、真言宗豊山派に属し四国34番札所である。
 寺の名は弘法大師(空海)が唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたという故事に由来する。本尊の薬師如来坐像は平安時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
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 種間寺の周辺は田畑があり、明るく開放的な感じがした。
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 敏達天皇6年(577)百済から摂津四天王寺を建立するため仏師が招かれ、帰国の途中暴風雨に遭い秋山の港に寄ったという。
 この時、航海の安全を祈って薬師如来を刻み本尾山頂に安置し、後に弘法大師が訪れ薬師如来を本尊とし堂宇を建立、唐から持ち帰った五穀の種をまき種間寺と号したという。
 しかし、百済の仏師の帰国ルートとして土佐沖を通ることは不自然である。内海である瀬戸内海を通るのが一般的であろう。
 村上天皇(在位946~967)が藤原信家を勅使として、「種間」の勅額を下向、江戸時代には藩主山内家の加護を受け栄えたが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、明治13年(1880)に再興されている。

 現本尊の薬師如来坐像(重文)は、平安後期の檜の寄木造で像高は138cmで、土佐では数少ない定朝様式の優作だという。
 平安後期の像であることから、もちろん四天王寺に招かれた百済の仏師の作ではない。


 本尊は「安産の薬師さん」として信仰が厚く、妊婦が柄杓を持って安産のお参りをすると、柄杓の底を抜いて3日間祈祷してもらい、祈祷後柄杓を持ち帰り無事出産後、その柄杓を奉納するという。
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 春野町はのどかな農村といった感じがした。しかし、野中兼山の土木工事までは、たびたび洪水に悩まされる荒野だったという。
 兼山は1648年(慶安元年)から5ヶ年の歳月を費やして八田堰を造った。そこから行当(ゆきとう)の切りぬきを通し、弘岡井筋から仁淀川の水を春野へ通した。ノミとツチで断崖岩山を開く至難の工事だった。
 この工事が今の春野を生み、奥仁淀の木材や諸物資を浦戸湾へ運んだ。新川はこの運河を通る物資の集散地として栄えたという。
 現在の堰も井筋も兼山当時のものではないが、そこから流れる水が春野の耕地を潤す母なる水であることに変わりはない。
 農村であった春野も、高知に隣接している立地条件を活かし住宅地として変貌しているようだ。トンネルが開削されたことが交通の便をよくしたようだ。
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 「南学発祥地」の碑を探して走り廻っていると、「補陀洛天後和上誕生地」という碑があったが、よく分からない。
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 ついに「南学発祥地」の碑を発見した。(春野町弘岡中)
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 温和智勇の武将として知られた吉良宣経(のぶつね)が、南村梅軒を周防から招き、殺伐とした戦国の世に吉良峰城で四書五経を講じさせ自らも学んだ。
 梅軒の教えは信西・忍性・天質らの僧侶に、さらに谷時中・野中兼山・小倉三省・山崎闇斎らに受け継がれ、土佐の南学が確立し、幕末に土佐の勤王思想に大きな影響を与えた。

 北西に見える森に吉良峰城跡があるという。
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 吉良氏は源希義の子孫と伝えられ、宣直のころ5000貫を領し、土佐戦国の七雄の一人だったが、本山氏に敗れ、城は本山氏の手中にはいった。しかし間もなく長宗我部元親に奪われ、元親の弟親貞が継いだ。
 親貞の子の親実が、元親の後継問題で切腹を命じられて、後に城も廃墟となった。元親の嫡男である信親が戸次川の戦いで戦死したのが、悲劇の始まりであった。
 やがてその悲劇が「七人みさき」の伝説を生む。

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