旅 927 吉良神社 (高知市春野町)

2016年 10月29日
吉良神社

 高知市春野町西分字増井にある吉良神社へ行った。元は木塚明神と言い、通称「明神様」とも呼ばれる。
 鎮座地である増井は古くは西分村益井(吾川郡木塚村西分)で、木塚村にあるので木塚明神と呼ばれた。34番札所の種間寺も近い。
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 駐車スペースがないので、鳥居横のつぶれたガソリンスタンドに駐車して、足早に参拝を済ませた。私の住んでいる所でも一時、いくつものガソリンスタンドがつぶれたが、最近は復活したり新たにできたものもある。
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現地説明板より
『 吉良神社
 高知市春野町西分3521番地  寛永3年(1626)2月2日勧請
御祭神 吉良左京進秦親實公
御神徳 怪我除け 事故除け
祭日  春季大祭 旧2月2日   夏祭 旧7月1日

境内社 
七社明神
御祭神
勝賀野次郎兵衛實信
城ノ内太守坊
小島甚四郎
宗安寺真西堂
永吉飛騨守宗廣
吉良彦太夫
日和田与三右衛門
(七人みさき)

神母(いげ)神社
御祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
御神徳 五穀豊穣    』


 立派な燈籠があった。
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 本殿は覆屋で護られていた。
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現地説明板より
『 奉納「吉良氏三名の物語」 平安 鎌倉 室町 安土桃山時代
 「吉良物語」には希義と言うは、源義朝の子頼朝の弟に当たる。平治の乱で敗れた源義朝は家臣の家で殺害される。頼朝が伊豆に流刑になった日、希義は母方の伯父によって朝廷に差し出され、永暦元年(1160年)土佐国介良荘へ流刑される。(「吾妻鏡」にはまだ「名」はないのだが、名乗がないと流刑にはできないので、「希義」という名が与えられた。)以降土佐冠者として成人する。
 兄頼朝の挙兵を受けて、平家は希義に合力の疑いをもち、平重盛の家人蓮池、平田に奇襲させ討ち取らせる。
 寿永元年(1182年)土佐国の琳猷上人は、頭髪を首にかけて鎌倉の頼朝と対面、頼朝は上人の好意を「あたかも希義の魂と再会できたようだ」と賛辞を尽くす。琳猷上人は介良に墓を建立した。頼朝は寺の建立のための寺領を与えた。当時希義には好きな女がいて妊娠して男を生む。成長した日、夜須の夜須七郎は頼朝に願い出て源希義の子希望を吉良城主とする。

 「吉良物語」の系譜
 希望 ― 希仁 ― 希綱 ―(数代略)― 希行 ― 希世 ― 希秀 ―(数代略)― 希定 ― 宣実 ― 宣安 ― 宣方 ― 宣家 ― 宣玄 ― 宣通 ― 宣忠 ― 宣経 ― 宣直。 源家吉良氏は約四百年で終わる。
 茂辰(本山氏)、親貞(長宗我部氏)、親実(吉良氏)も短命であった。

 吉良宣経は南村梅軒より南学を学ぶ。南村梅軒は土佐南学を開き、僧で有りながら儒払のほかに兵学にも通じていたようであった。しかし梅軒を理解したのは、宣経と従弟の宣義の二人で、息子宣直は居眠りしていたという。
 嶺北の本山氏が高知平野に進出朝倉城を占拠する。大永7年(1552年)ころ池内神社に棟上奉るとある。こうして本山、吉良は領域を接することとなった。両者の境 弘岡上行当が防御の第一線となった。
 本山茂辰は吉良宣直が仁淀川で狩猟しているのを窺い、兵700を二手に分け襲い、一手は吉良城を襲わせこれを取り、一手は仁淀川に向かう。宣直は如来堂という島に上がり、鵜をつかわせて居た。茂辰は行当の山陰より弓鉄砲をうちかける。これをみて宣直は舟に乗ろうとするが、流れ矢が眉間に当たり腹掻切って死す。
 茂辰は吉良氏滅亡後、名家吉良氏を名乗って、吾南平野を併呑する。弘冶3年(1557年)には森山城、秋山城を攻め取り、以後浦戸城に進出し、西は戸波名護屋坂に至る間を4年間維持、朝倉城を中心に全盛期を出現した。

 「土佐物語」には秋山城陥落の模様を伝えている。弘冶3年(1557年)の森山城陥落につぐものである。長宗我部氏に従った木塚左衛門太夫が所用で浦戸城に寄り帰途、秋山城陥落の混乱の中で敗兵により木津賀城も焼き落とされたと聞くが、勇を鼓して帰城、焼き落とされたことは誤信であった。この報せを受けて長宗我部方では、直ちに部隊を編成、長宗我部親貞を大将に、1300余で本山茂辰(吉良氏)の吉良城を攻撃する。
 「土佐物語」には両方の軍勢弘岡の野に打ちのぞみて、馬の足に障る草木もなき平々たる広き野に相懸りて、疾風の如く入乱れ火を散らしてぞ戦いける。汗馬の馳違ふ音、太刀の鍔音、矢叫びの声山野彦に答えておびただしい。辰の刻より末の終まで17ヶ度の駆合に両方討たる兵800余人、疵を蒙る者数知れず。両陣互いに戦い屈し、相引に引退き城兵は城に入れば寄手は陣を取り、まんまくの内に休むける。其後は弓鉄砲軍にてうち合い合戦はなかりけり。
 永禄3年(1560年)長宗我部元親、親貞兄弟が長浜の戸の本、同若宮における戦いは熾烈を極めた。本山氏に勝って、長宗我部氏ははじめて土佐一国を収めることができた。

 永禄6年(1563年)吉良茂辰も敗戦の痛憤の中で死す。吉良左京進親貞は長宗我部元親の弟である。吉良左京進親貞となのって弘岡村等を支配する。「元親記」によれば、蓮池城乗っ取る。親貞は蓮池城の番士に甘言をもって裏切者をつくり、日時を定め、狼煙にて弘岡より人数をあい渡し、元亀元年(1571年)夜蓮池城を取り、残る者皆戸波へと落行く。親貞は蓮池城に移り高東、吾南の創師となったが、長宗我部氏が一条氏を追放した後は、中村城に移る。天正5年(1577年)36歳で死去する。謀略家親貞の死は元親にとって大きな損失であった。
 吉良氏は嗣子親実が継ぐことになる。親実は、父に劣らぬ武将で四国征服に参加、讃岐の仙石の古城を守る秀久の軍勢を、激しく追い散らしたという。
 天正14年(1586年)秀吉の命により出陣。豊後の国戸次川畔で大敗し元親の長子信親は戦死、元親も辛うじて逃れるという惨状であった。戸次川合戦の敗北は長宗我部氏の運命を大きく狂わせる。信親の死によって早急に後嗣を定めなければならない。
 次男香川親和、三男津野親忠、四男盛親があった。元親は次男、三男が他家を継いだとして、四男盛親を後嗣と定めこれに信親の娘を娶らせる。
 「長宗我部元親伝吉良親実等の諫争」には、「千熊家督」四男盛親と厳かに宣言した。元親の一声で一座は平伏して異議なく頭を下げたが、ぬくっと立ち上がった親実が敢然として反対論をきり出した。「長子不幸の時は次男これを継ぐこと道の常なり。殊に先年豊後の陣の時元親父子相果つることあるも、土佐一国は汝に遣わすべしとの太閤御朱印まで頂いた香川殿である。家督相続に一点の疑いある筈なく、殊に姪を以て叔父の妻に娶らせる段人倫の破綻なり。長幼の序をみだりて人倫を没する如きは千熊殿の家督を承、最早お家も末に成りつるか」号泣し諫め盡くすのであった。温厚の長者といわれる比江山掃部進み出でて、左京進の説に合槌を打った。東西古今の史実を引例して人倫五常の大道から打下ろす彼等の堂々たる論法は、流石に元親の威力も久武内蔵助の嘘弁も施すにその術なく、愛児千熊の天下は血を以て購わねばならぬ事を元親は初めて覚った。
 こうした主君の胸の中を見てとった久武が、親実が謀反を企てているとの流言を立て、彼等反対派、巧みに元親の決意を扇動しここに前代未聞の大殺戮決行となったのである。その年月は明らかではないが、此ののち後継を決定長宗我部一門の紛争となり、長宗我部氏はついに滅びる。
 此の事件には元親の意を受けて盛親擁立に働いた久武内蔵助と、親実との激しい対立も織り込まれ、事件をさらに惨酷陰湿のものとする。
 「土佐物語」に、「今の内蔵助(久武)は親にも似ず、兄にも替り、弁侫にして邪智深く、人を亡くし身を立てんとす。かかる悪人威を振へば、いかなる事か出で来んと、心ある人は嘆きけるに合わせて、長宗我部氏を滅ぼし、壊滅させたのは内蔵助の策謀であったと言えないこともない。」

 「宗安寺真西堂」吉良親実の義理の舎兄にて宗安寺の住持たり。数年洛陽妙心寺の学窓に眼をさらし、碩学秀才誉れ高し。近年当国に下り此寺に住す。兄弟の睦厚ければ、西堂常に親実の宅に在て、経論法談ありしとか。其身沙門といえども、武門の中に成長しかば、外には忍辱禅衣をまとい、内には勇猛剛毅の心専なり。検使を向へられ、「今此期に及て万端万緒述るに益なし」とて字辞世の頌を書き、筆をおき西に向かい腹一文字にかき切れば、介錯首を打落とす。(なお一説によると信西は、幡多中村の大平寺にのがれた。33歳の時であった。ここで12年滞在して雲居禅師の教育をし、雲居を連れて京都に出、元和3年61歳で大徳寺159代の法王となる。有名な著書(土佐物語。土佐偉人伝。南学史等)

 「永吉飛騨守宗明」一宮高加茂大明神の神職にてこの宮の境内に住居しけり。左京進と姻戚の由緒ありて、深く因ければ、大坪与兵衛、横田善左衛門を討手にぞむけられる。おり節飛騨守庭前に出て、樹木を詠居たる所に、道行く人「さても左京進殿、掃部助殿、今朝切腹し給ひぬ。さしも忠有りて咎なしと思う人々の、いかなる故にか有らん。しれぬは人の身の上なり。」と哀れげに語りてぞ通りける。飛騨守是を聞きてさては我も逃れぬ所なり。いかさまにも其の子細を聞ばやと独言して、下人をもつけず只一人長刀取って打かたげ小高坂さして急ぎける。薊野山の麓にて横田、大坪にほどなく行違いたり。両使より謀りて討たんと悟られぬ体にて近く所に、永吉飛騨守大声にて「各々は何方へ行き給ふぞ」と、とへば「いささか所要の事有て、布師田へ参るなり」と答ふ。永吉「何と左京進殿、掃部助殿生害ありと聞くは誠か」「いや其の儀はあらず」と答しかば永吉飛騨守、からから打笑ひ「何をしらぬ事の有べき」「さてはお前達は宗明の討手ならん。御座んなれ出しぬかるる宗明にあらず。誠か偽りか請けて見給へ」と、長刀水車に廻して飛て掛る。両人も欺くべきやなかりければ「子細にや及ぶ」と太刀抜合せ、火花をちらしてぞ戦ひける。双方手利の達者なれば、互に勝負みえざりしが、永吉飛騨守つつと入って横田が肩先切付け、引取んとする時、運や尽けん、田の畦を踏崩し、体傾に倒れたれば、大坪おこしもたてずたたみかけてぞ切れたりける。二人とも深手数多負けれども。終に首を取りけり。

 「勝賀野次郎兵衛」蓮池城に居たりけるを、北代市右衛門、同四郎右衛門を討手に差向けらる。「塚地の土肥周防と示し合せ討つべし、相構へ横柄な挙動すべからず」とのべる。塚地へ行て周防を尋ねば、折節所用有て蓮池の城へ行たりと云う。両人悦び城に入りて見れば、土肥周防、木津賀の塩見惣兵衛、戸波の野中源蔵兵衛列座す。市右衛門、四郎右衛門、色代して次郎兵衛に向かって「左京進罪科に依て、切腹仰付けられぬ。但し葬送は諸子心次第に執行ふべし。遣領の事追って御下知あるべし」との御諚なりと申しければ、一座大きに驚き目と目を見合わせ、一言出すものなし。市右衛門は折を伺い、周防と示し合せんと思う所に、四郎右衛門はその頃20歳余りの若者、大早りなる気性なれば、市右衛門に先を越されじとや思ひけん。何となく其座を立て庭の方へ行くかと見れば「御意ぞ」と云うと共に、刀を抜いて次郎兵衛が真向を丁ときる。次郎兵衛は精参流の剣術の達人なれば、座に打据へられながら、二尺一寸の刀を抜いて起上り、四郎右衛門を討取りぬ。塩見惣兵衛すかさずかけ寄打合いしが、あえなく討たれにけり。野中源蔵「こは仕損じぬ」と走り掛り拝み打にはたと切る。次郎兵衛受けそんじ左の肩先を切られたけれども、事もせず踏込踏込切りむすぶ。野中源蔵、目の上を切先はずれに切られ、血流れて眼に掛りふらつく所を次郎兵衛おしかざり、野中源蔵が高股切て倒し、つまずきて広庭にかけ出たり。土肥周防あまさじと打て掛るを、次郎兵衛巻り立既に危く見えしかば、市右衛門飛掛り次郎兵衛を討ち留めけり。
 この勝賀野次郎兵衛は幡多の中村の民なりしが、吉良親実に仕へて甚だ聡明なりければ、田地点検の役に定られ、高東、吾南七百余町の地を巡見して、土地の原本、物成の高下、二旬餘りに詳しくこれを記し、再び検見に及ばず。立身して家長と成りたり。
 吉良彦太夫、城内太守坊、勝賀又兵衛、日和田三右衛門、小嶋甚四郎、喜多代代炊・田所、小林などのものども所々にて討たれける。

 長宗我部氏はその怨をじかに感じ取る心情をもっていた。そこから亡霊として人々に恐れられた「七人みさき」の伝説がうまれる。この七人は吉良氏滅亡に殉じた人たちがあった?のであろう。
 その「七人みさき」(御先)には幾つかの伝説がある。
 「吉良大明神伝歴」には、長宗我部相続に関し命を失いたるもの多数あり人々世の中を恐る。折しも白衣の武士七人連れにて夜徘徊す。是れに出会いたる者は即厄又は大病と成ると。
 その他諸所に不思議なる事有り、夜は出づる者なし。噂に聞くに久武内蔵助は当時長浜に住居せり。二男あり。次男6歳は天才にして美童たり近人の愛の的たり。或る夕方門口に遊ぶ、老婆来たり猫撫声をもって抱き上ぐれば、ヒセリ声して不省となる。母は飛び出で水よ薬よと介抱すれば息吹き返したるも、その四ツ半ば頃熱病にて死す。されば其の老婆何所の誰か全く判らず。両親の嘆きは一方ならず。其の37日の忌日に長男発狂し、仏間に入り南無阿弥陀仏を唱えるもの也。それより又37日の忌日に長男仏間に苦しむ、見れば腹一文字に掻き切り虫の息、わけを問えば上使二人来たり詰め腹を切らせたりとて間もなく死す。母は狂気の如くなり49日の忌日に死せり。此の他に噂話は次より次と津々浦々迄伝えられる。時に人これを七人霊と称す。
 「長宗我部元親伝」には或夜更け、仁淀川の渡舟を西岸から呼ぶ声がしたので渡守が舟を漕ぎ寄せて見れば一個の人影もない。空耳かと漕ぎもどそうとする舟へ、どやどや六、七人の人数が乗込んだが人影は見えぬ。魂身に添わぬ恐怖の渡守が目に見えぬ人間を乗せて東岸へ漕着けると、再びどやどやと陸地へ上る響がする。「吾れは左京進の幽霊なり、生死の恨み晴らさんとて一党引具し大高坂へ急ぐなり」という声が中宇の闇から落ちてくる。久武内蔵助の子が妖婆にとり殺されたのはその翌夜である。勝賀野の死んだ蓮池城下では日没と共に鬼気が界隈に忍び寄り、夜更けになると空から気味悪い呻き声やら、人馬の駈け違ふ音が聞こえて人々を戦慄せしめ街上には犬の子一匹も見えない。大高坂の城内にも怪しい物の怪が夜毎に出没して元親を悩ますという噂が立ち、移転匆々の新都城へ、いやが上にも暗い影を投げた。百万の敵をも恐れぬ元親でも国分寺に衆僧を集めて「七人みさき」の供養をした。結願の日、親実一党の位牌が祭壇の上で動きだして中空へ舞い上がり、満座の僧侶驚倒したという怪談までが書き残されて居る。天正16年(1588年)10月4日と御歳26歳の若さであった。元親遂に老臣の進言を納れ、吾川郡木塚に祠を建て祀ったのが今の吉良明神である。
 今も尚数々の伝説が残されています。今を去る四百数十年~八百余年前の遠い昔の出来事で、文献によって多少内容も異なりますが、古来の記録を伝承し、その上で疑わしきは疑いながら、確かな証拠がおきればそれに従い、吉良氏の興りから調べました。
 参考資料 春野町史 春野町史料西分村史 吉良左京進親実公史
平成21年(2009年)4月12日  』


 希望から続く吉良氏は「希」を通字としたが、途中から「宣」を通字とするようになったので、系統が変わったのであろう。

 この長い説明文を読みながら、元親の甥である吉良親実の主張は正論でもっともだと思うが、そこには一族に対する愛が欠けているように感じた。
 吉良親実自身も元親の娘を妻としている。叔父と姪は3親等だが、従兄弟どうしは4親等である。

 元親にとって嫡男である信親は自慢であり大きな期待を持っていた。戸次川の戦いで信親が討死したのを聞いたとき、元親は自殺しようとして家臣に止められたという話まで伝わる。
 元親の信親への思いは強く、信親の血を残そうとして採った策が四男の盛親に信親の娘を娶せて跡を継がせることだった。他家に出した次男や三男では信親の娘と歳が離れすぎていて、四男を選ぶしかなかったのである。
 その元親の心情を察すれば、真正面から反対するのではなく他の方法もあったのではないだろうか。戦国武将は側室をもつことは当たり前でもあった。
 もちろん後継者のことは大事であるが、この時期には一門の結束を固めることの方が重要だったと思う。
 吉良氏は南学発祥に関わる名家である。親実は長宗我部氏(秦氏)であるが、吉良氏の名を継いだ者として、南学の系譜に繋がる者でありたかったのだろう。



 『平成祭データ』には吉良神社が次のように載る。

『 由緒書 
 祭神の親実公は長宗我部元親(1538~1599)の甥に当たり、文武両道にすぐれた蓮池城主(土佐市)であり、当時土佐南学が弘岡地区に伝わっていた時であり、親実公はその学徒として深く朱子学にも通じ聖賢の教を奉ずるいわば正義派の方でありました。
 天正14年(1568)長宗我部元親の長子信親が豊臣秀吉の命により豊後(大分県)戸次川で薩軍と戦い戦死したので、元親は嗣子として四男盛親を擁立し、それに長子信親の娘を娶せんとしたので、親実公は、姪をもって叔父の妻とするは人倫の破戒である、人道上行ってはいけないと諫言したので、元親は自分の意のままにならぬことで心穏やかではありませんでした。
 さて、元親の寵臣一の家老久武親信という者は、平素から親実公の権威高いことを嫉み、このときとばかり親実公は謀反の志ありと讒言したので、遂に切腹を命ぜられ、親実公は怨を呑んで自刃したのであります。
 その後、長宗我部家には種々の妖怪変化があり、また家老久武家も妻子が次々に変死したので、これは親実公の祟りなりと、元親が現在のところに小祠を建てその霊を祀ったのが本社創立の起源であります。
 その後、寛文6年(1666)山内藩は、高知市小高坂山にある親実公の墳墓をその旧領、旧西分村・芳原村・内之谷村・東諸木村・西諸木村・仁ノ村・西畑の村民たちにより現在の地に改葬せしめて、藩主の姻戚家老深尾出羽守息女齢定院、墳墓の上に神殿を建立して吉良大明神の遵号を奉り、明治11年11月さらに元藩主山内豊範公主宰で現在の社を建てたものであります。 』



 本殿の横に七社明神があった。
祀られているのは、勝賀野次郎兵衛、城ノ内太守坊、小島甚四郎、宗安寺真西堂、永吉飛騨守宗廣、吉良彦太夫、日和田与三右衛門の七人である。

 吉良親実と共に誅せられた者は、この7人だけではないのだが、ここに7人が取り出されて祀られるのには訳があり、7人であることが重要らしい。


 Wikipediaには「七人ミサキ」について次のようにある。

『 七人ミサキ(しちにんミサキ)または七人みさき(しちにんみさき)は、高知県を初めとする四国地方や中国地方に伝わる集団亡霊。
 災害や事故、特に海で溺死した人間の死霊。その名の通り常に7人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる。
 七人ミサキに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう。1人を取り殺すと七人ミサキの内の霊の1人が成仏し、替わって取り殺された者が七人ミサキの内の1人となる。そのために七人ミサキの人数は常に7人組で、増減することはないという。
 この霊の主は様々な伝承を伴っているが、中でもよく知られるものが、『老圃奇談』『神威怪異奇談』などの古書にある土佐国(現・高知県)の戦国武将・吉良親実の怨霊譚である。
 安土桃山時代、吉良親実は伯父の長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親の死後、その後嗣として長宗我部盛親を推す元親に反対したため、切腹を命ぜられた。
 そのときに家臣たち7人も殉死したが、それ以来彼らの墓地に様々な怪異があり、親実らの怨霊が七人ミサキとなったと恐れられた。
 それを耳にした元親は供養をしたが効果はなく、怨霊を鎮めるために西分村益井(吾川郡木塚村西分、現・高知市春野町西分字増井)の墓に木塚明神を祀った。これが現存する吉良神社である。
 また『土陽陰見奇談』『神威怪異奇談』によれば、親実と共に元親に反対した比江山親興も切腹させられ、妻子たち6人も死罪となり、この計7人の霊も比江村七人ミサキとなったという。
 また広島県三原市には経塚または狂塚と呼ばれる塚があったが、かつて凶暴な7人の山伏がおり、彼らに苦しめられていた人々が協力して山伏たちを殺したところ、その怨霊が七人ミサキとなったことから、その祟りを鎮めるためにこの塚が作られたのだという。
 ほかにも土地によってはこの霊は、猪の落とし穴に落ちて死んだ平家の落人、海に捨てられた7人の女遍路、天正16年(1588年)に長宗我部元親の家督相続問題から命を落とした武士たち、永禄時代に斬殺された伊予宇都宮氏の隠密たちなど、様々にいわれる。
 山口県徳山市(現・周南市)では、僧侶の姿の七人ミサキが鐘を鳴らしながら早足で道を歩き、女子供をさらうという。そのために日が暮れた後は女子供は外出しないよう戒められていたが、どうしても外出しなければならないときには、手の親指を拳の中に隠して行くと七人ミサキの難から逃れられたという。 』


 御霊信仰は、祟り神信仰である。恨みを持って死んだ者の魂は祟り神として恐れられたのであろう。特に恨みを買った者の子孫は、その神を手厚く祀る必要があったのだろう。

 七人みさきの「七」は何を意味するのであろう。日本では「八」は特別な数で、多いことを意味することもあり「八百万の神」などにつかわれる。
 「七」についてはよく分からないが、「みさき(御先)」は、“さき”からきているのであろう。海に突き出す陸地の先端を岬(みさき)という。御崎なども同様の意味である。(七は北斗七星に関係するとも……)
 「さき」は坂(さか)に通じる。岬(御崎)の向こうは海という異界であり、坂の向こうも異界であった。古代の峠祭祀はこのような心理から始まっている。岬(御崎)や坂の向こうは異界が開かれているのだ。

 「さき」は、「裂く」や「咲く」にも通じる。「さく」は開くに通じる。つぼみが裂かれて花が咲くのである。作物も種が裂かれて生成する。作物の「作(さく)」も同じ意味が含まれるのであろう。

 土地を農地にするのを開墾するというが、土を裂き(耕し)開くのである。土地を開鑿(開削)して道やトンネルをつくり、新しい地域(異界)を開くのである。

 異界からは幸も入るが、病気(邪悪なもの)なども含む災いも入る。異界との境目である岬(御崎)や峠(坂)には、神を祀る必要があった。その神は塞の神(さえのかみ)や岐の神(くなどのかみ)である場合が多いようだが、邪悪なものが入ることから“祟り神”の側面もあった。それが強調されたのが“みさき(御先)”なのであろう。

 “みさき”は開く神であり、開かれるものには「豊穣」という幸もあるが、「病気」などの不幸もあったのである。日本の神には二面性があり、篤く祀れば幸をもたらし、疎かにすると災いをもたらす。



 吉良親実の屋敷は高知市越前町にあり、親実はそこで切腹した。屋敷跡には吉良神社(祭神は吉良親実)があったが、現在は西隣の山ノ端町にある若一王子宮の境内に移転している。
 吉良親実の墳墓は高知市小高坂山にあったが、寛文6年(1666)山内氏により木塚明神に遷されたという。小高坂山は屋敷のあった越前町の近くである。

 木塚明神は、七社明神や吉良親実が祀られるようになたから吉良神社になったのであろう。それ以前にこの丘のような木塚山に祀られていた神があったのだろう。木塚という名が気になる。
 以前に祀られていたのは境内社の神母(いげ)神社ではないだろうか。七社明神は確認したが、神母神社は確認しなかった。

 神母神社の祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)とされるが、果たして初めからそうであったのだろうか。神母を“いげ”と読むの気になるところだ。
 神母の母は「はは」とも読む。これは羽羽(はは)に通じる。朝倉神社で紹介したが、“羽羽(ハハ)”は「蛇」を指す古語で、スサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斬った剣は「天羽々斬剣(あめのははきりのつるぎ)」とも呼ばれる。

 恐らく木塚には豊穣を約束する蛇神が祀られていたのであろう。そして、いつしかその祭祀が疎かにされたので、災いをおよぼす祟り神になったのだと考える。だから、後に「七人みさき」や吉良親実が祀られたのであろう。
 あるいは「七人みさき」などの伝承を持ち出して、神母神社(木塚明神)を祭祀を復興したのかもしれない。おそらく神母(いげ)は、水の女神(龍蛇神)であったのだろう。


 神母神社の「神母」とは、稲毛とか池とかいわゆる水の神、農耕の神を祀ったものといわれる。
“神母(いげ)”は高知独特の言葉らしく、柳田国男や南方熊楠らにも注目された。
 田の水をつかさどる水の神、稲の神であり、土佐民族研究家の神尾健一さんによると、“おいげさん”の社や祠は県内で四百余りを数えるという。
 民俗学の桂井和雄さんは「土佐神母考」「土佐史談」で、イゲが明かに水に関係したものであった事を考察しているという。
 語源をめぐって、たとえば南方熊楠は、神社に棘(とげ)のある木(とげ=いげ)を植えたからではないかと言う。
 桂井和雄さんは“いけ”(井・井戸・池)に由来するのではないかと見ている。
 また、神尾健一さんは穀物の神である豊受大神(とようけのおおかみ・別名は登由気大神・とゆけのおおかみ)に着目し、「豊受大神即ち登由気(トユゲ)の訛音ではないか」と述べている。

 私には、桂井和雄さんの説がシックリくる。春野町西分増井は古くは西分村益井(吾川郡木塚村西分)で、「増井」も「益井」も“井”に関係する地名のようだ。

 更に私は当地が秦氏に深く関係する地であることから、娑蘇(サソ)神母の後半の「神母」だけが残ったものでないかと憶測する。娑蘇神母は新羅の始祖女神としての神母神話がある。秦氏は新羅系ともいわれる。

 新羅の娑蘇神母はその起源が中国の伝説に出てくる西王母に繋がるという。
 西王母は中国の古い伝説に登場し、日本でも大量に発掘されている「神獣鏡」等にも影響を与えているそうだ。
半人半獣の姿であった西王母も漢代になると、道鏡の影響を受け変化する。
 人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祀れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。
 やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。
 王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。
 また、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びている。漢末の建平4年(紀元前3年)、華北地方一帯に西王母のお告げを記したお札が拡散し、騒擾をもたらしたという記述が、『漢書』の「哀帝紀」や「五行志」に見える。

 悪臣とされる久武内蔵助の子を熱病にて死なせた妖婆は、娑蘇神母や西王母の古いイメージから出たものだったのかもしれない。

 『伊呂波字類抄』(諸社、祇園の条)に、
「 牛頭天王因縁。天竺より北方に国あり。其の名を九相という。その中に園あり。名を吉祥という。その園の中に城あり、その城に王あり。牛頭天王という。亦の名を武答天神という。…… 其の父の名を東王父天といい、母の名を西王母天という。この二人の中に生まれし所の王子、名を武答天神という。この神王、沙渇龍王の女、名を薩迦陀というを后と為し、八王子を生む。従う神八万四千六百五十四神なり 」とある。

 ここに出てくる西王母天とは西王母のことである。西王母は牛頭天王(武答天神、スサノオ)とも関係する天神なのである。



 神母(水の女神)祭祀が疎かにされた背景には、仏教の影響があるのだろう。近くに弘法大師が関係した種間寺があることも偶然ではないだろう。種間寺の名は弘法大師(空海)が唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたという故事に由来するという。
 あるいは、神母の信仰が「安産の薬師さん」に残っているのかもしれない。

 『伊呂波字類抄』では、牛頭天王=武答天神 とされる。武答天王は異国の神であるが、牛頭天王は外国の文献に載らない。(「牛頭」は載るが、「牛頭天王」は見いだせない。)
 牛頭天王は、外来神を下敷きに日本で創られた疫神であるらしい。牛頭天王は密教にとりいえられ、天文道・陰陽道と習合した宿曜道の神に発展したようだ。そのことに大きく貢献したのが大同元年(806)に空海が唐より伝えた「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」二巻であるという。空海は牛頭天王の創出にも関わっていたようだ。



 今回の四国の旅に出る前は、四国八十八霊場巡り(お遍路さん)には興味がなかったが、今は再び四国を訪れて、残された霊場を廻ってみたいと思っている。私のお遍路は「順打ち」でも「逆打ち」でもなく、「乱打ち」となる。 空海、あなたは故郷の四国で何をしたのだ。

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