旅 928 松尾八幡宮 と 清瀧寺(きよたきじ)

2016年 10月29日
松尾八幡宮 と 清瀧寺(きよたきじ)

 仁淀川を西に渡り、35番札所である清瀧寺に行った。清瀧寺に行く前に松尾八幡宮に寄った。

 松尾八幡宮の近くでヒマワリとコスモスの共演を見た。秋の土佐路は美しい。 
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 秋桜や 残れし夏を惜しむよう 向日葵守り秋も深まる (渡橋)


 松尾八幡宮は土佐市高岡にあり、祭神は品陀和気尊、足仲津彦尊、息長足媛尊である。
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現地説明板より
『 松尾八幡宮の由緒
 当社は約一千百有余年の昔、人皇第51代平城天皇の第3皇子高岳(たかおか)親王が創建されたと伝えられている。
 高岳親王は幼くして皇太子に即位され、次の天皇が約束されていた尊貴の人であられた。
 しかし、大同年間、薬子の乱(810年)が起こり、親王は追われる身となった。やがて仏門に入り弘法大師空海に師事、諸国を行脚し、人心の救済と求道一筋の道を歩んだ。
 貞観3年(861年)3月、南海道に向かい海路をもって仁淀川の川口に至り更にさかのぼり、高岡の地に上陸の第一歩をしるしたという。(日本三代実録)

 清瀧寺に逗留修行すること暫し、感ずるところあり京都の産土神石清水八幡宮をこの八幡の聖地に勧請鎮斎したという。この社が松尾八幡宮である。社領八町八反を賜り古来高東近郷の総鎮守たり。
 随身池田琢雲をして初代神主にあたらしめたという。

 一方、親王はその後、畢生の悲願であった入唐を果たし、当時、世界最大と言われた国際都市長安の都(現、中国北京市)に留学。更に学究の志は高く、仏果の成就を求め、遙かなる仏陀の母国、インドに向かう。
 元慶5年(881年)在唐の留学僧の報告によれば、親王78歳の時、羅越国(ラオス)付近で薨去されたという。
 ああ!! かかる壮挙は日本史上最初の人であったと伝えられる。 』

 松尾という名と八幡宮であることから秦氏が関係した神社であろう。 


 随神門も社殿も新しかった。
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 大きな手洗岩があった。
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碑文より
『 手洗岩と井戸のいわれ
 この岩は明治11年高岡村に流行をきわめたコレラ病を治める祈願のため、京間・褶木部落の人々によって宇佐竜の浜から運ばれてきたものです。当時流行したコレラ病は沢山の人々の命をむしばみ、全村を恐怖の底におとし入れ、村民の平和な生活を脅かしました。
 この恐怖と不安から逃れるため、京間・摺木の人々は助けを氏神様に求め、その願いをこめてこの岩を奉納いたしました。当時竜の浜からこの岩を神社の庭内まで運ぶということはまことに容易ならぬ難行でした。まず数個の四斗樽を使って岩を浮上させ、手こぎの船二隻で潮路を仁淀川口まで引き、そこからは綱を結び水陸相呼応して仁淀川をさかのぼり芝沖で陸上げしました。芝からは竹のころを敷いて一間刻みに移動させ最後の山坂はろくろで引き上げ、ついにこの庭内に安置することができたのですが、その労苦は筆舌に尽くし難いものがありました。
 一方、この悪疫の流行に対し適切な防護の手段を持たなかった一般の村民は、ひたすら御社殿にこもり御神徳に助けを仰ぎました。そのさい心身を清める霊水を求めてこの庭に深く深く井戸を掘りました。それが今に残るこの霊水の井戸で、当時は滑車によるつるべ方式で水を汲み上げました。
 こうした村民のまごころが神に通じ、さしもの悪疫もほどなく治まり、村に平和がよみがえったのであります。
 以上がこの手洗岩と井戸のいわれです。ここにその由来を記し病気平癒と健康長寿に効験あらたかな氏神様の御神徳をたたえるとともに永く後世に残し伝えます。

  白玉の天の真井(まない)の神の水 手洗岩に満ちて映ゆるかも
 昭和58年12月吉日 松尾八幡宮 宮司池田道廣  総代会  氏子総中 』


 明治11年の時点でも、流行病に対して人は神に頼るしかなかったのである。まして古代において神頼みは日常的な行為であったと考えられる。縄文時代などは狩猟採集の労働時間以外の多くの時間を神への祈りに費やしたのではないかという研究者もいる。

 病の多くが薬による治療で治る時代になり、人の神への依存度は低下した。神離れが進み、氏神の祭祀もままならない地域もある。現在では科学という新たな神が、信仰にも似た信頼を集めている。しかし、古代の神がそうであったように、科学も人類に幸福だけでなく大禍を招く場合があることを忘れてはならない。常に利剣は諸刃の剣である。そして、科学はまだ生物としてウイルスすらも作り出すことができていないのも事実である。



 松尾八幡宮のあとに、35番札所である清瀧寺に向かった。
 道は狭かったが、山道を上り始めると更に狭くなり、車のすれ違いが困難になる。対向車に遭遇すれば、どちらかが後退して少し道幅が広くなったところですれ違うしかない。
 私の車は軽なのでまだ少しはましだが、初心者マークを付けた普通車の運転手はほぼ泣き状態で困惑の態であった。
 わずか3kmくらいの距離なのだと思うが、10分以上かかって上った。

 狭い道から解放された開放感から、境内ではまず眺望を楽しんだ。
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 清瀧寺は土佐市高岡町の醫王山の中腹にある真言宗豊山派の寺で、四国八十八霊場第35番札所である。
 正式名称を醫王山 鏡池院 清瀧寺(いおうざん きょうちいん きよたきじ)といい、本尊は薬師如来とされる。「きよたきじ」と読み、「きよたきでら」とは読まない。
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 厄除け祈願の名刹で、この薬師如来像は厄除薬師如来と呼ばれている。

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 寺伝によれば、養老7年(723)に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・釋本寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。
 弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810~824)のころで、本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に17日の修法をした。
 満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を、醫王山 鏡池院 清瀧寺と改め霊場としたという。

 「鏡池院 清瀧寺」からも想像されるが、おそらく当山には古くは水の女神が祀られていたのであろう。当山から流れ出す水は麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くことにも利用されたという。ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころだという。

 四国には行基とその後の空海を開基とする寺が多いが、事実としては行基は四国へは来ていないようだ。行基が来ていないとしても、奈良時代に霊場に対して何らかの仏教の介入はあったようだ。そして最後の仕上げを空海とその弟子たちがしたということだろう。

 本尊の薬師如来像(重文)は行基の作とされるが、やや伏目がちな面長な顔や彫法からみて藤原時代の様式を残していて、11世紀から12世紀の作と考えられるので、行基作ではない。


 境内には琴平神社があった。
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碑文より
『 琴平神社本殿  土佐市高岡町丁566番地  
   高知県保護有形文化財  指定 平成8年4月30日
 南路志によれば、寛文8年(1668)清滝寺本堂が全焼する火災があった。琴平神社の創建は、火防及び一宇繁栄を祈念して、その後に金比羅を勧請したと伝えられ、その時期は今から三百二十余年前と推定される。
 神社本殿は、「奉再建山神宮」とある天保2年(1831)の棟札により、構造や風化などからも、この時代のものと推定される。
 本殿は一間社入母屋造り平入りの柿葺で、正面に一間の向拝を付けている。高知県近世社寺建築の中でも数少ない形式であり、小社であるが、この地域の当時の建築技術を示すものとして注目される。全体の形から細部の彫刻に至る意匠も美しく優秀であり、学術的、歴史的にも価値があるものと判定された。
  撰文 高知県文化財専門委員 溝渕博彦  清滝第一部落  』

 撰文で「全体の形から細部の彫刻に至る意匠も美しく優秀であり、学術的、歴史的にも価値があるものと判定された。」と、いかに飾ったところで、覆屋で護られているものの、蜘蛛の巣が張られ雑草が生えた琴平神社本殿は大切にされているようには見えなかった。



 境内には高岳親王の逆修塔があり、今は「不入の山」(入らずの山)とされている。
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 柵の外から覗いたが、塔らしきものはみな新しく高岳親王の逆修塔ではないようだ。もっと奥にあるのだろうか。

 逆修塔は生前に自分を追善供養する塔で、死を覚悟して戦場へ向かう武士などが建てることが多い。

 高岳親王は平城天皇の第三皇子で嵯峨天皇の皇太子となったが、薬子の変で廃せられて出家し、空海に師事し真如と名乗ったとされる。
 貞観4(862)、入唐して長安で学んだという。その後インドに向かう途中、行方不明となったという。
 真如は入唐の前年(861年)、清瀧寺を訪れ、逆修塔を建てたとされている。

 松尾八幡宮の説明板には、「元慶5年(881年)在唐の留学僧の報告によれば、親王78歳の時、羅越国(ラオス)付近で薨去されたという。」とあった。


 これはあくまでも私の想像であるが、高岳親王(真如)はインドはおろか入唐もしていないのではないかと思う。禁足地である「不入の山」(入らずの山)は親王の陵墓ではないかと思う。

 松尾八幡宮の説明板は、親王について次のようにあった。
『 清瀧寺に逗留修行すること暫し、感ずるところあり京都の産土神石清水八幡宮をこの八幡の聖地に勧請鎮斎したという。この社が松尾八幡宮である。社領八町八反を賜り古来高東近郷の総鎮守たり。
 随身池田琢雲をして初代神主にあたらしめたという。 』

 逆修塔を建てて入唐しようという者が、山麓に八幡神を勧請するであろうか。


 境内には古い宝篋印塔があった。
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 何も説明がないので分からないが、後世に建てられた親王の供養塔のような気がしてならない。


 平成天皇は、皇太子時代より妃の母で夫のある藤原薬子を寵愛して醜聞を招いた。天皇に即位すると薬子を尚侍として手元に戻す一方、薬子の夫である藤原縄主を従三位に昇進させ大宰帥として九州に赴任させた。薬子の夫を追い払ったのである。
 弟の嵯峨天皇に譲位した後、薬子の変を起こし敗れると、平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。

 子である阿保親王は大宰権帥に左遷され、廃太子された高岳親王(799~865?)は出家して空海の弟子となり真如と名乗った。
 真如は空海の十大弟子の1人となり、高野山に親王院を開いた。阿闍梨の位をうけ、また『胎蔵次第』を著した。承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会っている。

 平城上皇も2人の皇子(阿保親王、高岳親王)も相応の待遇は保障されていたようである。これは後に嵯峨天皇が譲位しようとした時に、藤原冬嗣が譲位後の天皇に平城上皇と同じ待遇を与えれば、費用が嵩んで財政が危機に瀕するとして譲位に反対する意見を述べていることからでも裏付けられる。嵯峨天皇は子どもが多かった。

 阿保親王の五男は臣籍降下して在原を名乗った在原業平である。

 高岳親王(真如)は老年になり入唐求法を志して朝廷に願い出、貞観3年(861年)に親王や宗叡らの一行23人は奈良より九州に入り、翌貞観4年(862年)に大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着する。
 貞観6年(864年)、長安に到着。在唐30余年になる留学僧円載の手配により西明寺に迎えられる。しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったことから、親王は長安で優れた師を得られなかった。このため天竺行きを決意。
 貞観7年(865年)、66歳で皇帝の勅許を得て従者3人とともに広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。
 16年後の元慶5年(881年)、在唐の留学僧・中瓘らの報告で親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている。
 虎の害に遭ったという説もある。現在、マレーシアのジョホール・バルの日本人墓地には、親王院が日本から御影石を運んだ親王の供養塔が建立されている。

 このように記録されるが、貞観3年(861年)に奈良より九州に入ったとされる親王が、なぜ貞観3年(861年)3月に土佐に上陸しているのであろう。

 60歳をとうに過ぎた親王が、いくら師である空海に憧れたとはいえ仏教弾圧政策が行われている唐に渡ろうとは思わないであろう。空海は61歳で入滅している。親王とて死期が近いことは悟っていたであろう。

 私は親王の高名と財力を借りて宗叡ら高野山の僧が入唐を画策したのではないかと憶測する。宗叡らは入唐を果たしたが、親王は土佐に隠棲したのではないだろうか。
 松尾八幡宮は社領八町八反を賜り、親王の生活は保障されている。 


 正史では親王は入唐したことになっているから、墓は建てられないので逆修塔とされたのであろう。昔は僧籍に入れば妻帯できず、子孫を残すことができなかった。子孫がいなければ、語り継ぐ者もなければ墓守もいない。こうして歴史の闇の中に消えていった者が多いのであろう。親王の陵墓であるかは分からないが手を合わせた。


 参拝を済ませた後、上ってきた道を下ることになった。道が狭いので憂鬱である。しかし、下りは対向車とあうこともほとんどなく、比較的スムーズに下れてホッとした。手を合わせた高岳親王(真如)の加護であろうか。

 ネットに清瀧寺に車で上る動画があったので載せておく。




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