旅 935 野中兼山遺族の墓

2016年 10月30日
野中兼山遺族の墓

 宿毛市稲毛にある東福院(旧南泉院東福寺)に、野中兼山遺族の墓があるというので行ってみた。
 宿毛には国指定史跡の「宿毛貝塚跡」がある。縄文後期の貝塚で、3000年前の壮年期の完全な女性人骨が出たことで有名である。 
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 標柱には「山内(伊賀)家 野中兼山遺族 墓入口」とあった。標柱が埋もれていて、最後の入口の「口」が見えない。
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 東福院は宿毛領主の安東氏の菩提寺である。
 美濃の豪族であった安東可氏(よしうじ)は、土佐藩主山内一豊の甥で、山内姓を許され、子孫は幕末まで領内の発展につくしたという。(後に伊賀と改めた) 

現地説明板より
『 史跡案内
宿毛山内氏(伊賀家)の墓地
 山内一豊が1601年に土佐一国の主として入国する際、実姉の子、可氏(よしうじ)に、土佐国の西の要所、宿毛6000石があたえられ、その子孫も代々山内の姓を名のって宿毛を治めた。(明治以降伊賀姓)
 また、その間、宿毛城のあった丘陵のふもとに土居(屋敷)をかまえ、それを中心に小規模城下町をつくりあげ、佐川の深尾氏や安芸の五藤氏とともに、土居つき家老として、明治維新を迎えるまで土佐藩の重責を担った。

野中兼山遺族の墓地
 野中兼山は、江戸時代初期に土佐藩の奉行職をつとめ、藩内の治水事業など藩政全般にわたって尽力したが、一方でその強大な政治力が政敵を生み、結局、藩政から引退し、その数ヶ月後死去してしまった。
 しかし、兼山への反発心はなおも消えず、彼の遺児8人が罪人として宿毛へ流され、その内の3人の女子が釈放されるまでの40年間、幽閉生活を余儀なくされた。(幽閉地は現宿毛小学校構内) 』


 宿毛山内氏の墓地があった。
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現地案内板より
『 史跡案内
山内可氏の墓地
 山内可氏は1571年美濃(現 岐阜県)生まれ。母は山内一豊の実姉、通。父は美濃国北方城主の弟、安東郷氏。
 11歳の時に北方城が攻められ、郷氏は戦死したが、可氏は母とともに難をのがれ、3年後、長浜城主になった一豊に迎えられた。
 山内の姓を名乗ることも許され、その後は出世を続ける一豊と同行し、1601年に土佐に入国、土佐一国の主となった一豊から宿毛6000石を与えられ、土佐国西の要所を治める宿毛山内氏の礎を築いた。
 1629年永眠し、菩提寺の東福寺(現 東福院)に葬られた。
 ちなみに、向かって左が可氏の妻、右が野中兼山の正妻市(可氏の孫)の墓地になっている。
 ※野中兼山遺児の墓地は、この可氏の墓地の奥へ約10m。  』

 「兼山妻 市」の墓があった。
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 野中兼山遺族の墓地があった。
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現地説明板より
『 市指定史跡 昭和36年6月10日指定
野中兼山遺族の墓地
 野中兼山は、あまりにも偉大な政治家であったため政敵も多く、その没後、遺子たちはこの宿毛へ配流され、牢獄生活40年、その間、よね・清七・欽六・希四郎と次々に獄死した。末子の貞四郎が自害して男系が絶えると、寛・婉・将の3人の女の子はやっと赦免された。
 婉は高知に帰って活躍するが、寛と将は宿毛に残り、さみしく生涯を終えた。長男清七の墓碑は婉が建てたものであり、この墓の前方数mの所には兼山の正妻市、その母よめの墓もある。
 昭和57年1月  宿毛市教育委員会   』
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 兼山の遺子は側室4人の子であるが、長男の清七一明と婉の母は同じ(池氏)であることから、婉が清七の墓を建てたようだ。婉は高知の野中家の墓地で、父母と共に眠る。
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 三女寛と五女将の墓は昭和43年に改葬されたものだという。寛は72歳まで生きたとされるので、野中家の最後の人となった。


 1663年(寛文3年)野中兼山が没すると、翌年兼山の遺族は兼山養母(安東可氏の娘)の里方でもある宿毛に移された。一行には罪人ではないが、兼山の養母と正妻の市も加わり、遺族は宿毛土居のすぐ隣の安ヶ市(現宿毛小学校敷地)に幽閉された。板塀で囲まれた屋敷のまわりは竹矢来が二重にめぐらされ、四隅に番所があり一歩も外出が許されず、男は娶ることが許されず、女は嫁ぐことが禁止された。
 幽閉40年、四男貞四郎行継が41歳で自害して野中家の男系が絶えると、ようやく赦免された。
 兼山の養母と正妻の市は安東氏(宿毛山内氏)の縁者なので、幽閉されたわけではないようだ。
 四女の婉は高知へ帰り朝倉に住み医者となるが、三女の寛と五女の将は宿毛に残り、寂しく生涯を終えたという。こうして兼山の家系は絶えた。酷いことをするものだ。

 私は10月27日に野中神社(お婉堂)を訪れ、10月29日には兼山とお婉の墓に参った。



 墓地からは兼山遺族が幽閉された場所の跡に建つ宿毛小学校が見えた。
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雑記
 野中兼山の家系は廃絶されてしまったが、我が国の一番古い家系とされる天皇家が続いていることは幸いなことである。(但し、初代神武天皇から続く家系は万世一系ではない)

 今年のゴールデン・ウィークは改元にともなう10連休であった。平成から令和に移る時を、旅の空で迎えた人が多いのではないだろうか。我が家でも妻が京都への旅先で令和を迎えた。連休で長男が帰ってきて、私と子供二人は家で令和を迎えた。

 リタイヤしている私にとっては連休は関係ないのだが、それでもニュースなどで連休の様子が流れると、通常とは違った気持ちになる。

 連休はなるべく外出しないで、家で本を読んで過ごそうと計画していたので、その通りのんびり過ごすことができた。

 今回の改元は天皇の譲位による改元で、平成の時のように前天皇が崩御したことによる代替わりではないので、物忌の必要もなく祝賀ムードに包まれた改元であった。


 さて、譲位であるが、日本において最初の譲位は645年に行われた皇極天皇から孝徳天皇への譲位とされており、皇極天皇は後に斉明天皇として重祚したことから、祭祀権は保有していたものとみられる。
 天皇霊は人に憑くものであることから、古代においては譲位は異例のことであった。
 譲位は皇位継承の争いを封じ込めるだけではなく、仏教伝来以降、死を汚れとする考え方が強まり、天皇が在位中に崩御することはタブー視されるようになったためでもあるといわれる。

 本来、天皇は祭祀権と政治的権限の2つを保有していたと考えられる。彦姫制により、この2つを分担した傾向はあったとしても、基本的には大王(後の天皇)はこの2つの権限を保有していたとみられ、成人であることが条件であったようだ。
 その後、母方の祖父(藤原氏)が摂政・関白となり政治を行うようになると、天皇は幼帝でも構わなくなる。むしろ幼帝の方が藤原氏には都合がよかったであろう。

 白河天皇などは譲位することにより上皇(後に法皇)となり、院政を始め父方の政治権の道を開いた。上皇や摂政・関白が政治権を持つ時代になると、天皇に残された権威は祭祀権が主なものになっていく。上皇が治天の君(ちてんのきみ)と呼ばれることが多かったのは、天皇に政治権が無かったことを表す。

 現在の皇室典範でも、天皇は男系皇族の成人男子に限られるとするのは、男系を貫くことにより、藤原氏をあくまでも天皇家の外戚とすることに拘った結果なのかもしれない。私はこの藤原氏を百済系渡来人の末裔と考えている。


 承久の乱などは、後鳥羽上皇が中心になって起こしたものであるが、土御門上皇はこれに反対し、順徳天皇は討幕に積極的であったため承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力した。
 承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流され、順徳上皇は佐渡に流され、彼の地で生涯を閉じた。
 私は2011年に佐渡を訪れ、真野宮や真野御陵黒木御所跡を訪れたことがある。


 天皇の主な責務に国の安寧を祈る祭祀があったことは確かである。災害・地震・飢饉・彗星出現などを理由に譲位した天皇もいる。
 太古に於いては、天変地異が起こるのは王の政(まつりごと)に問題があるとして、廃された(殺された?)王もいたようだ。  

 江戸時代などは、為政権は幕府にあり、天皇の責務は宮中祭祀が主で、宮中の神殿に皇祖神や八百万の神を祀り、国の安寧を祈願していた。

 明治維新の際に、天皇は薩長により倒幕の錦の御旗として担ぎ出されたが、その際、公武合体派であった孝明天皇(明治天皇の父)は暗殺された。「船中八策」の起草者である坂本龍馬の暗殺も、その陰にはその筋の者の示唆があったのだろう。

 明治政府の祭祀方針は伊勢神宮を頂点とする国家神道であったため、明治天皇は伊勢神宮を参拝したが、それは持統天皇以来1100年余ぶりの参拝であった。天皇家は宮中で祖神を祀っており、それは伊勢のアマテラスではないと考えられる。
 戦前にも天皇機関説があったが、それはともかく、天皇の危うさは、明治維新がそうであったように、政治的、宗教的に利用される可能性を常に秘めていることである。

 
 戦後、政教分離が行われ(現在でも宗教団体を母体とする政党はあるが)、天皇は象徴天皇となった。従って、宮中祭祀や伊勢参拝は天皇の私的行為とされる。

 今回の譲位で、平成天皇の伊勢参拝や新天皇の宮中祭祀について、テレビでよく取り上げられたが、これらはあくまでも天皇の私的行為なのである。

 今回の譲位は、平成天皇による2016年(平成28年)8月8日の「おことば」として、「象徴天皇としての務めが、云々」という意向表明に対して、政府が特例法(特別措置法)を制定して対応したものである。

 天皇には国事行為などの公務がある。その意味では天皇という地位は「職」であり、高齢化社会において引退も視野に入れる必要があったのであろう。しかし、これは「公的行為も象徴の務めになれば、それができない天皇は地位にとどまれないという能力主義が持ち込まれる」という結果にもなる。

 私は、職としての天皇に引退(譲位)はあっていいと考えるが、祭祀者としての天皇に引退(退位)があってはならないと考える。宮中祭祀はあくまでも私的行為なのである。
 この際に、職としての天皇と祭祀者としての天皇の分離を行うことも一案であるが、天皇から祭祀者の一面を取り去ってしまうと象徴としての天皇の地位が保てないというジレンマを抱える。

 天皇家としての伝統(それは象徴でもある)は、その祭祀形態にあり、大嘗祭も含めて古式をよく残している。

 かつての諏訪大社の大祝や出雲大社の国造家のように、天皇家の祭祀には天皇霊が関わり、それは人に憑き、天皇(現人神)が崩御したときに天皇から次期天皇に受け継がれる。

 建御名方命(古事記では大国主命の子とされる)を祀る諏訪大社の大祝は世襲されていたが明治期に官権により廃止された。大国主命を祀る出雲国造家(千家家、北島家)は現在も続き、次期国造に就任されると思われる出雲大社権宮司の千家国麿さんのところへは高円宮憲仁親王の次女典子女王が降嫁し千家典子となっている。

 現身は滅びても天皇霊や出雲国造霊は滅びないのである。天皇は“日継ぎ”であり、出雲国造は“火継ぎ”を自認する。ここにおいては、「日や火」は日でもあり火でもある。これは寺院においての「不滅の法灯」にも似るが、霊の観念のほうが古い。

 諏訪大祝や出雲国造は国を出ることはない。諏訪大祝は、「建御名方命が武甕槌神に敗れ、諏訪の地を出ないことを誓って許された」とされるが、これは太安万侶の脚色で、諏訪大祝は国魂を帯びるので国を出ないのである。後に武甕槌神は藤原氏の氏神として奪い取られる。古事記編纂者の一人である太安万侶(多氏)が藤原不比等に利用された結果でもある。 出雲国造も同様に国造霊が憑いてからは国を出ない。

 天皇も基本的には京(畿内)を出なかった。熊野詣を最初に行った宇多天皇も譲位して上皇になってからの参拝である。基本的には天皇も諏訪大祝や出雲国造と同様に京を離れることはなかった。
 延喜7年(907)の宇多法皇以来、法皇上皇の熊野御幸がはじまり、白河上皇の9度、鳥羽上皇21度、後白河上皇34度、後鳥羽上皇の28度と多くを数え、弘安4年(1281)3月、亀山上皇の御幸をもって終結をつげている。
 陸の孤島と言われる交通不便な熊野に参詣した上皇がたも、伊勢神宮には参詣していない。本当にアマテラスは天皇家の祖神であったのだろうか?


 平成天皇は、昭和天皇の崩御を受けて天皇に就任した。天皇霊を受け継いだのであろう。平成天皇から譲位された新天皇は、天皇霊をまだ受け継いでいないので、果たして本当の天皇と言えるのか疑問符が付くが、とりあえず新しい象徴天皇が誕生したことはめでたいことなのであろう。
 改元にあたり、数回にわたり私は天皇考を記したが、この辺で一段落としたい。


 5月8日は洗濯日和で洗濯をしたが、その途中でこのブログを仕上げた。洗濯は洗濯機がしてくれるので、人は干す作業をするのみである。
 新天皇誕生の祝賀ムードも大型連休が終わり、落ち着いていくであろう。

 新天皇誕生の喧騒から離れて、日常と変わらない連休を過ごした私は、通帳の記帳の際に1年が印字されたり、運転免許書の書き換えで平成が令和になった際に天皇の代替わりを実感するのであろう。  (2019年5月8日、洗濯の途中で記す)

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