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zoom RSS 旅 936 宇和島城

<<   作成日時 : 2019/05/10 13:48   >>

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2016年 10月30日
宇和島城

 高知県宿毛市から国道56号線を北上し愛媛県宇和島市へやってきた。高知県には10月26日に入ったので、5日間滞在したことになるが充分とは言えない。だが、この四国の旅はトラブルが続いたので、計画を縮小させた。(具体的には松山市や金比羅宮などを断念した)
 23日から続いた下痢は治まったが、27日に岡豊別宮八幡宮の乱積みの石段を急いで下ったとき痛めた右足の踵はまだ少し痛む。
 宇和島城の石段を上るのにも痛みがあった。

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現地説明板より
『 ようこそ 宇和島城へ
 宇和島城は慶長元年〜6年(1596〜1601)、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎によって戦国時代の山城から近世の海城へと生まれ変わりました。当時は大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張でした。
 石垣や天守、櫓は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されますが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲しています。
 堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分約28万uは失われていますが、本丸・二之丸等の郭を含む約10万uの城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つとなる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち門は市指定文化財(昭和38年)に指定されています。
 また城山には約430種の草木が生い茂り、苔むした石垣群と織り成す幽玄の美の世界は、一見の価値があります。 』


 現存12天守とは、
弘前城(青森県弘前市)
松本城(長野県松本市)
丸岡城(福井県坂井市)
犬山城(愛知県犬山市)
彦根城(滋賀県彦根市)
姫路城(兵庫県姫路市)
松江城(島根県松江市)
備中松山城(岡山県高梁市)
丸亀城(香川県丸亀市)
松山城(愛媛県松山市)
宇和島城(愛媛県宇和島市)
高知城(高知県高知市)
 である。
 このうち、国宝の松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城は既に訪れている。また、2018年時点で、訪れていないのは丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、高知城の5つである。

 四国に4城あり、今回の旅では宇和島城だけしか訪れなかった。もう一度、四国には来るつもりであるから、その時には残りの城を訪れたい。


 井戸丸経由で460mとあったので、そのコースで登ったが、自然石を積んだ勾配の急な坂であった。
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 二之丸あたりからは、西側に宇和島湾の最深部がよく見えた。
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 西側は海に開けているが、東側は山が重なり合っている。
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 本丸には、天守だけがポツンとあるだけである。この天守が現存12天守の一つとして残ったので、宇和島の観光資源となっている。
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 天守の入り口は唐破風屋根で大きな開放的な造りの玄関がある。この玄関から天守に入った。
 2層目には千鳥破風が2つ、3層目には2層目より大きな千鳥破風が1つあり、正面から見たバランスはよいが、予想していたものより小さくて、こぢんまりした感は否めない。

 慶長年間に藤堂高虎が造った天守は複合式望楼型で3重3階であったが、寛文年間に2代藩主伊達宗利が大修理をほどこした天守は独立式層塔型 3重3階(現存)となった。
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 高さ15.72m、平面は正方形で一重から二重、さらに三重と2mぐらいずつ短くした塔型で総塗籠(ぬりごめ)造の白壁で、正面から見ると左右対称で安定した美しさを見せる。これで玄関が真ん中にあれば申し分ないのだが、おそらく慶長年間の天守の構造に依存したのであろう。


 天守内には、鎧兜のレプリカが飾られていた。中央のものが藩祖の伊達秀宗のものだという。
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現地説明板より
『 史跡 宇和島城
天守
 ●高さ……15.72m
 ●面積……212.75u
 ●形態……三重・三階 層塔型 独立式
 藤堂高虎が創建した望楼型天守を、宇和島伊達家2代藩主・宗利が、寛文年間(1661〜1673)の城郭全体の大改修にあわせて、当時の最新式の層塔型に新造したものが、現在の天守です。
 各階の装飾性の高い飾り破風や懸魚(げぎょ)、いずれの面も左右対称となるよう配置された武者窓、またその上下に廻されている長押(なげし)などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りとなっています。
 万延元年(1860)、昭和35年(1960)に大修理を受けていますが、現存する12の天守の一つとして重要文化財に指定され、往時と変わらない姿を伝えています。 』


 説明文には、“太平の世を象徴するものとして評される”とある。実際に壁には狭間や石落としなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、五角形にして外を眺めやすくしている。
 外観や使い勝手や装飾が重視されていることから無防備な太平の世の建築であると評されるが、実際にはすべての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計であったと考えられている。
 城は仰ぎ見るものとして権威の象徴ではあるが、戦いを前提に設計されているから美しいようにも感じる。
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現地説明板より
『 宇和島伊達家の誕生 【 慶長20年(1615年) 】
 宇和島伊達家は、伊達秀宗【 天正19年(1591)〜明暦4年(1658) 】を藩祖とする大名家です。
 秀宗は伊達政宗と側室・新造の方との間に長男として誕生(幼名:兵五郎/ひょうごろう)、岩出山(現・大崎市)で家督後継者として育てられますが、わずか4歳で天下人・豊臣秀吉へ人質として差し出されます。
 しかし、兵五郎は秀頼(幼名:拾丸)の遊び相手として大切に育てられ、6歳元服の折には、秀吉の一字を拝領して「秀宗」と名乗ることとなります。
 秀吉没後、政宗は徳川に与したため、秀宗は関ヶ原合戦直前に監禁されますが、徳川方の勝利で秀宗は危うく難を逃れます。その後の慶長7年(1602)9月、政宗は12歳の秀宗を家康に拝謁させ、今度は徳川家の人質となるのです。そして慶長15年(1610)には、政宗・正室愛姫(めごひめ)の子、虎菊丸が徳川秀忠の一字を拝領、忠宗と名乗り、仙台伊達家の後継者となることが決まってしまいます。
 慶長19年(1614)11月、家康が豊臣家を滅ぼすために大阪冬の陣を起こすと、政宗・秀宗父子は、1万人の兵を率いて徳川方に参戦。政宗の幕閣へ働きかけもあり、冬の陣の功績として、当時幕府直轄だった宇和郡10万石が秀宗に与えられます。
 秀忠は伊達秀宗を国持大名格とし、慶長20年(1615)3月18日、秀宗25歳のとき、「五十七騎」とともに板島丸串城(現・宇和島城)に入城、これをもって宇和島伊達家が誕生するのです。
 将軍家から10万石を与えられたため、宇和島伊達家は仙台伊達家の分家ではなく、総家と支家という血縁のみのつながりで、明治を迎えるまで9代に渡って宇和島を治めました。 』


 天守に入るには200円ほどかかる。天守の最上階まで上り、四方の景色を写真に撮った。
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 宇和島城は、別名を丸串城、板島城、鶴島城とも言う。
 宇和島の古い地名は板島と言う。板島が宇和島の中心地となったのち、江戸時代初め頃から現在の宇和島の地名が用いられた。

 宇和島城の沿革については不明なところが少なくないと言われるが、この城は戦国時代に家藤監物の居城となり、板島丸串城と称した。
 1575年(天正3年)には家藤氏に替わって西園寺宣久、さらに1585年(天正13年)小早川隆景の領地となって持田右京が、さらに1587年(天正15年)には戸田与左衛門がそれぞれ城代として入城したが、そのころは番城の程度に過ぎなかったようだ。

 現在の宇和島市の街としての基礎が確立したのは、1595年(文禄4年)、築城の名手である藤堂高虎が宇和郡7万石の領主となり、板島丸串城(宇和島城)を本城としたのが始まりとされる。
 高虎は翌慶長元年より6年間を費やして本格的な築城工事を行い、天守閣・城堀・大小の櫓を建て厳然たる城郭を完成させた。
 後に富田信高が宇和郡10万石に封ぜられ入城、その後改易となり幕府の直轄地を経て1614年(慶長19年)に奥州仙台より伊達秀宗が宇和郡10万石を賜り、翌元和元年に入城して以来、伊達氏代々の居城となった。
 2代藩主宗利のとき、1664年(寛文4年)から7年を費やし天守閣など城郭全部の大修理を行ったのが、現在の天守である。

 Wikipediaには歴史・沿革について次のようにある。

『 歴史・沿革
平安時代から安土桃山時代
・天慶4年(941年) - 警固使・橘遠保が藤原純友の乱鎮定の際、この地に砦を構えたとされる。
・嘉禎2年(1236年) - 西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、現在の城山に砦程度の城を築く。当時は丸串城と呼ばれていた。
・天文15年(1546年) - 家藤監物が城主となる。大友氏、長宗我部氏等の侵攻を受けるがこれに耐えた。
・天正3年(1575年) - 監物が去り、西園寺宣久の居城となる。
・天正13年(1585年) - 豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代を務めた。
・天正15年(1587年) - 隆景が筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となった。
・文禄4年(1595年) - 藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。
・慶長元年(1596年) - 高虎が城の建造を開始。
・慶長6年(1601年) - 現在の城郭が完成、宇和島城と名付けられる。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(現今治市)に移封が決まっていたが、城の完成を見届けた後に移った。

江戸時代
・慶長13年(1608年) - 富田信高が伊勢国より転封し入城。
・慶長18年(1613年) - 信高が改易となり、宇和郡は徳川幕府直轄となる。高虎が代官となり良勝(高虎の従弟)を城代とした。
・慶長19年(1614年) - 伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が10万石で入封。
・元和元年(1615年) - 秀宗入城。
・寛文2年(1662年) - 2代藩主宗利が老朽化した城の改修に着手。
・寛文11年(1671年) - 改修竣工。

近現代
・明治4年(1871年) - 明治政府により城は兵部省に帰属。大阪鎮台の所管となる。
・明治33年(1900年) - この頃より櫓・城門などが解体される。
・昭和9年(1934年) - 天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
・昭和12年(1937年)12月21日 - 国により史跡に指定される。管理団体は宇和島市。
・昭和20年(1945年)7月12日 - 太平洋戦争末期の宇和島空襲により大手門を焼失。
・昭和24年(1949年) - 伊達家が天守と城山の大半を市に寄贈、管理下に置かれる。
・昭和25年(1950年) - 文化財保護法の施行により天守が重要文化財に指定される。
・昭和35年 - 37年(1960年 - 1962年) - 天守を解体修理。
・平成18年(2006年)4月6日 - 日本100名城(83番)に選定された。
・平成28年(2016年)3月1日 - 作事所跡などが国の史跡「宇和島城跡」に追加指定された。  』


 藤堂高虎や加藤清正は築城の名手と言われた。
 現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものだが、縄張そのものは藤堂高虎の創建した当時の形が活用されている。
 標高約80mの丘陵とその一帯に外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
 五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記された。

 宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には「空角の経始」、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が見事に活かされた城だったのである。
 城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれたが、現在は堀も海も埋め立てられている。
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 明治以降に大半の建物が撤去され城郭は「城山公園」として整備されているが、桜が植えられているので春には市民のお花見の場所ともなるのであろう。
 その桜の木に数輪の花が咲いていた。土佐の国分寺でも桜の花を見たが、四国では秋にも桜の狂い咲きが見られるのであろうか。
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 旅での撮影には電池切れに備えて2つのデジカメを持ち歩くが、ニコンの古いデジカメには革のハードケースが付いていて、これを気に入っていたのだが、宇和島城の見学の時にこのケースを落としてしまい、探しに戻ったが見つからなかった。
 旅では見学した風景や出会って話した人のことなどが記憶に残るのだが、革のハードケースをなくした場所としてこのような個人的な記憶と結びついて残るのも旅の一面である。



 なぜ四国に4つもの現存天守が残ったのであろう。それは幕末に倒幕をめざす勤王の藩であったから天守を残すことが容認されたのだろうか。

 薩摩、長州は関ヶ原の戦いで西軍に与し、江戸時代には冷遇された。それ故、勤王倒幕へ傾くのは理解できる。
 
 全般的に東国と比べ西日本は朝廷との関係が古くから深く、それ故、承久の乱などでは朝廷側についた豪族が多かった。
 外様大名といえども、徳川(将軍家)に恩がある山内家(土佐藩)や伊達家(宇和島藩)が、最終的には倒幕に参加したのは、西国と朝廷の歴史的親密さ故であろうか。

 宇和島伊達家には、政宗が四国僻遠となった秀宗を心配して与えた五ヶ条の教訓「貞山公御教諭」が残っている。日付は2月27日とあり、秀宗の宇和島出立が慶長20年2月28日であることから、その前日に受け渡されたものと考えられている。5代村候(むらとき)が「藩主心得」として題目をつけ顕彰されるようになったという。
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 訳文を次に載せる。

『 一、藩主として取り立ててくれた将軍家(家康・秀忠)への御恩を忘れず、お仕えすること。
  一、仕えてくれる者を大事にしなさい。但し、罪を犯した者は許してはならない。
  一、常に武芸に励みなさい。
  一、学問に励み、囲碁将棋などもたしなみなさい。
  一、家臣の気持ちをくみ取り、その考えを理解しなさい。

 右の五ヶ条の他にも言っておきたいことがあるが、あなたは分別のある人だから、詳しいことは両人(志賀右衛門・山家清兵衛)に伝えておく。
  二月二七日  政宗  
    秀宗殿   』

 このように、「貞山公御教諭」には、徳川への恩に報いることが書かれている。しかし、土佐の山内氏もそうであったが、幕末には倒幕に踏み切る。

 政宗は用心深い男である。文章に残したのは“立前”であろう。“本音”は両人(志賀右衛門・山家清兵衛)に伝えておいたものであろう。
 8代藩主の宗城は、薩摩、越前、土佐の諸藩と並んで幕末四賢侯と称された。



 平地に乏しいこの地域の交通は長いあいだ海上が中心であったという。法華津峠からは晴れた日には宇和海ごしに対岸の九州の山並みがよく見えるという。
 近世以降は九州との関係が薄らぎ、鉄道に加え大動脈とも言える国道56号線の整備によって、海上から陸上交通に移行した。宇和島駅はJR予讃線のターミナルである。
 しかし、宇和島港をはじめ各港の活気は失われておらず、この地域を動かしてきた宇和島海の存在は今も健在だという。

 この地域の歴史の展開をみると、中世以降においては海上の存在がきわめて大きく、近世以降においては海の存在が後退して、宇和島・吉田の城下町が大きくクローズアップされ、今日の宇和島を中心とした南予地域のまとまりは近世以降になって急速に進展したものだとされる。
 その中心にあったものが宇和島城で、その宇和島城は藤堂高虎により創建され、そこを居城とした伊達家により宇和島の繁栄が築かれたとみてよいのであろう。その意味でも、宇和島城は宇和島の象徴である。それは、加藤清正が創建した熊本城が、その後復元され熊本の象徴となったことと通ずる一面があるようにも思える。
 主な遺構としては現存天守だけしかない宇和島城だが、この天守がなければ旅人も宇和島に足を止めないで通り過ぎていたかもしれない。城には興味があるが、何もない城跡にはそれほど興味がない。

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