旅 939  2019年 5月末~6月初めの旅 概要(2)

2019年 5月末~6月初めの旅 概要(2)

5月24日(金)

 下部から国道52号線(富士川街道)へ出てから、富士川の支流である早川沿いに県道37号線(南アルプス公園線)を遡った。目的地は奈良田である。

 南巨摩郡早川町は2014年に大雪のために孤立して、自衛隊のヘリコプターで不足物資を搬送したことが記憶に新しい。
 早川町は人口の約4割の姓が望月であるという。そして、その望月姓は長野県の佐久市に合併された旧北佐久郡望月町を本貫とした望月氏に由来すると言う説がある。

 なぜ、早川町の約4割の姓が望月なのか知りたくてネットで検索していると、あるブログで私の記事の引用が見つかった。
 私が自分の姓に関心があるのと同様に、望月を名告る人たちも自分の姓に関心があるようで、興味深く拝見し、コメントも書き込んだ。

 いろいろな説があり、望月さんたちも考察しておられるが、私は一つのファクターとして渡来系氏族の古代御牧経営が関連しているように思う。

 南巨摩郡をも含む巨摩郡は高句麗系(百済系も含む)の渡来人が入植して馬飼いをしていたことは確かとされる。甲斐国と信濃国は“馬飼い”というキイワードで繋がる。望月の月毛の駒も甲斐の黒駒も有名である。壬申の乱でも大海人皇子方で甲斐や信濃の騎兵が活躍した記録がある。古代においても信濃と甲斐の“馬飼い”の渡来人は交流があったと考えられる。

 南部馬がいたように南部牧もあったのであろう。御勅使川流域には駒場という地名や八田という地名があるが、ここは甲斐国八田牧があった場所である。
 信濃国は平安時代に32御牧のうちの16御牧があったが、甲斐国も牧が多かったのは確かであろう。
 この牧童は騎射に優れ、やがて中世の武士に繋がる。最強と言われた武田騎馬軍団のルーツでもあった。

 武田氏の祖は武田信義だがその弟に加賀美遠光がいる。加賀美遠光の末裔に小笠原氏(次男小笠原長清の子孫)、南部氏(三郎光行の子孫)、於曽氏(五郎経行の子孫)らがいる。
 加賀美も小笠原も南部も領した地名を名告ったもので、ルーツはそこにある。(加賀美や小笠原の地名は今の南アルプス市内にある)

 小笠原氏は信濃の守護となり、陸奥国盛岡の領主となった南部氏とともに近世まで大名として栄えた。元は甲斐源氏と言っても武田晴信(信玄)と小笠原長時は戦っている。利害関係で争うことはあっても、源氏系の武士団という共通項でも信濃と甲斐は繋がる。

 2016年の秋に四国を旅し、徳島県小松島市立江町大字立江清水にある景岩寺に寄ったが、そのブログから引用する。

『 信濃の深志城(松本市、現在は国宝松本城)にいた信濃守護の小笠原長時は、たびたび武田信玄と戦った。1549年(天文18年)敗れて紀伊の広城(広浦か)に来ていた。弘治年間(1555~1558)、当時、阿波で勢力のあった三好氏の招きによって那西郡中村(小松市大林町中村)に移って住んだ。
 その後、長時は京都へ去り、息子の長幸が中村城主として残った。その子の兼幸の時代に立江清水に居館を構え、櫛淵城主秋元氏と婚姻関係を結びながら、この地で勢力を拡大していった。(一説には長幸のとき清水に移ったことになっている)
 景岩寺は長時の兜に入れていた一寸八分の聖観音像を本尊として安置し、長幸が自分の居館の上に造った寺であるとも云われている。 』


 古代から中世にかけて、渡来系氏族が早川から望月に移ったり、望月から早川に移ったりすることは十分考えられることである。
 
 特に渡来系氏族は常に幾つかの拠点を築き、侵略されたときに受け入れてくれる逃げ場所を確保して生き残りを図っていたと考えられる。半島や大陸を追われ日本列島に約束の地を求めた渡来系氏族の性(さが)のようなものが、集住や移動を繰り返したのではあるまいか。

 信玄は望月盛昌の娘を弟の信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、次いで望月信永)を望月信雅の養子とするなどして、名族望月氏を武田一門に組み込もうとした。結局、武田氏の滅亡につきあう形で信濃の望月氏嫡流は絶える結果となる。

 望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送っており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。今でも甲賀市の隣の栗東市にJRA(日本中央競馬会)の栗東トレーニングセンターがあることも偶然のことではない。
 牧の関連で望月氏と甲賀の地は古より関係があり、甲賀望月氏に繋がったようだ。甲賀は甲賀三郎の伝説で諏訪大明神とも繋がる。また、甲賀三郎伝説の変化形の一例では、甲賀三郎は信濃国望月に住む源頼重の子として語られる。そして、甲賀三郎は承平の乱で軍功を上げたことで江州の半分を賜り、甲賀郡に移って甲賀近江守となったとされる。

 時代が下り戦国時代には、伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月氏」と称されるようになったというが、忍者となることも渡来系氏族の末裔の生き残り策の一つであったのだろう。


 奈良田の手前にある西山温泉は、奈良時代に開かれたという古い温泉で療養温泉として知られている。西山温泉にある「慶雲館」は705年(慶雲2年)に創業した日本最古の旅館だとされる。「日本の長寿企業ランキング」では建設会社の「金剛組」に次ぐ2位ないし3位とされ、ギネスブックから「世界最古の旅館・ホテル」に認定されているそうだ。

 奈良田に着いた。早川町は2014年に大雪のために孤立した場所なので、もっと道が細くなるのかと思ったが、意外に道は整備されていた。
 奈良田は、山梨県が昭和32年、電源開発のためにダムをつくり、人造湖奈良田湖ができたが、発電所が建設されて道路ができるまでは交通不便な隔絶した山村で、“陸の孤島”と呼ばれたそうだ。
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 地図で見ると分かるが、奈良田は富士川の支流である早川の上流にある。そして、西の山脈を越えると、そこは静岡県で大井川の源流にあたる。
 つまり、奈良田には早川を遡って入るだけでなく、大井川源流から山越えで入ることもでき、そこには支流の川沿いの峠道もあり、奈良田越や広河内岳の峠を越えて奈良田に入ることができる。
 現代は車社会で、道と言えば車が通れるものをイメージするが、古代は歩くことが主であったことを考えるとき、大井川源流からの山越えのルートも無視できない。そして、静岡県にも孝謙上皇の伝説があるのだ。例えば、袋井市村松にある油山寺には、天平勝宝元年(749)孝謙天皇が眼病平癒を願い、当寺の「るりの滝」の水で眼を洗浄したところ、全快したので勅願寺に定めたという伝承がある。
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 西山ダム(奈良田湖)ができた際に奈良田の集落はダムに沈み、奈良田温泉の歴史は一度途切れたと言われる。
 しかし1977年(昭和52年)に奈良田温泉の復活を図るため山梨県企業局が源泉調査を実施し、翌1978年(昭和53年)に深度212m地点で温泉が湧出、1979年(昭和54年)に町営施設「奈良田の里温泉」として開業し、温泉地として復活を遂げたそうだ。

 駐車場より目当ての孝謙天皇を祭神とする「奈良法王神社」までの、わずか7~8分の上り坂だが、昨日までのテニスの疲れが残り休み休み登った。おしりの筋肉が疲れ、坂道を登るのにおしりの筋肉をこれほど使っているのかと実感した。
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 ここには、病を得た孝謙上皇が西山温泉・奈良田温泉に湯治に訪れ、全快して奈良へ帰り、重祚して称徳天皇になったという伝説がある。
 孝謙上皇は70~80人のお供を連れて湯治に訪れ、この神社の場所に御殿を建てて数年遷居したという。奈良田という地名も孝謙上皇が名づけたという。地元の人々は女帝を「奈良王様」と呼んで敬愛したという。
 孝謙上皇は重祚して称徳天皇となるが、称徳天皇は出家したまま天皇になった唯一の女帝である。
 重祚した天皇は皇極天皇(重祚して斉明天皇)と孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の二人の女帝だけである。

 高知市朝倉に鎮座する朝倉神社の祭神は天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)である。ここには斉明天皇が移り住んで朝倉行宮を営んだという伝承が残る。
 重祚した二人の女帝には都を離れたという伝承があるのだ。何らかの理由で都を離れるには、一度天皇位を退く必要があったのではないか。

 奈良田については詳しくは後日のブログで考察してみたい。

 奈良法王神社のすぐ下に、「女帝の湯」があったので入った。
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 奈良田から早川沿いの県道37号線(南アルプス公園線)を一気に下った。来るときにも感じたのだが、ダンプカーの往来がかなりある。洪水防止のために浚渫工事が必要なのであろうか?

 カーナビで、近くの道の駅を調べると、道の駅「みのぶ富士川観光センター」があったので、そこを今日の宿泊地に決めて行った。
 この道の駅「みのぶ富士川観光センター」は、幹線道路沿いにあるのではなく、少し山に入った所にあり、通行途中に立ち寄るという感じの道の駅ではない。

 道の駅に着いたのは午後6時半頃だったので、店はすでに閉じていた。

 ローズガーデンがあり、5月末の終盤のバラを観賞できた。また、望月小太郎という人の彫刻が屋外展示されていた。
 望月小太郎さんは身延町下山出身で大阪府在住の彫刻家らしい。早川町に限らず、この周辺は望月姓が多いようだ。
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 店が閉まっていたので、テニスバッグの中にあったゼリー状の栄養食品で夕食を済ませ、明日の計画を立ててから早めに寝た。道路脇の道の駅ではないので、出入りする車もなく静かであった。



5月25日(土)

 身延山久遠寺には奥の院の「思親閣」がありロープウェーで上れるが、本当の奥の院は七面山(1982m)にあり、信者や修行僧はここに登る。七面山の頂上付近は早川町にありながら身延町の飛地になっている。

 七面山に登るつもりはないが、車で行ける登山口までは行ってみようと車を走らせた。
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 春木川沿いに遡り、登山口(羽衣)に着いたのは朝の5時頃であったが、登山する信者を送るマイクロバスが何台も走っていた。今日は土曜日だから登山者も多いのだろうか。
 登山口では、独特な抑揚で「南無妙法蓮華経」が唱えられていた。
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 赤い橋(羽衣橋)を渡って対岸へ行くと、白糸の滝があり、前に家康の側室「お万の方」の銅像があった。
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 私の後にやって来た親子連れは、お万の方に線香を手向けていた。信者にとってはお万の方も信仰の対象なのだろうか。

 日蓮宗の守護神・七面大明神を祀る身延の七面山はかつて女人禁制であった。しかし、寛永17年(1640年)、養珠院お万の方が、
「女人成仏を説く法華経を守護する七面天女の御山に、法華経を信じる女人が登れぬはずはない」
として、登拝口付近の羽衣白糸の滝で水ごりを7日間行って身を清め、女性として初めて登頂を果した。
 以来、女人禁制は解かれ男女の登詣が盛んになったという。お万の方は七面山女人踏み分けの祖とも称され、その法勲を讃え滝の傍らには銅像が建立されたという。

 女人成仏とは古来より低い地位にあった女性も仏に成れると説いた法華経の教えである。仏教語の「五障」は女性に五種のさわりがあり成仏できないとするが、法華経の提婆達多品では女性が成仏できる証として八歳の竜女の即身成仏を説く。
 日蓮は「法華経」の勝れる点として女人成仏を強調したが、実は最澄も「法華経」を重んじていたようだ。

  まだ資料が少ないので確信はないが、私はこの七面天女は瀬織津姫の化身ではないかと考えている。

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 昔はこの滝で禊ぎをしてから、七面山に登ったのであろう。


 歩いて5分ほどの上流に弁天堂があり、そこにも滝があるというので行ってみた。

 5分と書いてあったが、ゆっくり歩いたこともあり10分ほどかかった。朝の散歩にはちょうどいい。
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 ナンバーのない車が2台あった。おそらく車検を取っていないのであろう。山の中だけの限定ということなのだろうが、走っていいのであろうか? 登山者の荷物を途中まで運ぶのに使っているようだ。
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現地説明板より
『 満願弁天堂 縁起
 この御堂は中山法華経寺奥之院東日教上人が不惜身命の荒行により雄滝の飛沫の裏にまのあたり天女の御神容を拝し不思議の霊感を感得して信心肝に銘じ発願して建立し奉るものなり。満願と申し奉る所以は此の堂建立の始より如何なる冥慮も叶いけむ参詣の善男善女心願成就の御利益をいただくもの続々相次ぎ正に七難即滅亡福即生の願ひ満てざるものなきによる夫れ七面山の霊威は日朗聖人これを証したまふ法華経有縁の信心の人々早々にこの神域に触れ身心を浄くして大弁財天女尊の御利益をうけたまわん事を
  当堂 執事   』
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 羽衣白糸の瀧を「女瀧」、この瀧を「雄瀧」というらしい。


 ここからは、遙かにまだ雪を被った南アルプスが見えた。
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 羽衣橋まで戻ってきた。
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 帰りに明浄院という御堂の朝の掃除をしていた人に、レアな情報を聞くことができた。
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 七面山を含む身延山久遠寺については後日詳しくまとめるが、ここでは旅で訪れた場所の記録だけに留める。



 南巨摩郡身延町大野にある本遠寺に着いたのは6時20分頃であった。ここには「お万の方」の墓がある。住職とおぼしき僧が、日蓮宗特有の団扇太鼓で境内を回り朝のお勤めをしていた。
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 本遠寺の後は今日のメインとも言える身延山久遠寺へ行った。カーナビに導かれ甘露門近くの駐車場まで上がった。ここから本堂へは直ぐなのだが、やはり正面からの参拝をしようと、女坂を三門まで下った。
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 三門まで下ったので、本堂までは菩提梯の急な石段を登らなければならない。向かって右側にある南部実長(波木井実長)の像を見ながら、菩提梯を見上げため息をついた。
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 途中で休みながら菩提梯を登り、本堂に辿り着いた。
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 五重塔があった。身延山久遠寺は以前職員旅行で訪れたことがある。上から望んだ景色以外にあまり記憶にないが、五重塔は無かったと思う。調べてみるとこの五重塔は平成21年(2009年)5月に落慶したもので、かつて焼失した五重塔を復元し、134年ぶりに身延の山によみがえったものだという。
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 奥の院の「思親閣」までロープウェーで上った。
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ロープウェーから富士山が望めた。
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 下りのロープウェーでのガイドで、富士山の手前の山の名をいくつか紹介していたが、そのなかに「毛無山」があったのが印象に残った。昨日は、毛無山の山麓を走り、峠の「湯の奥猪之頭トンネル」を抜け朝霧高原から下部温泉へ出たが、稀にみる悪路であった。

 日蓮は1281年(弘安4年)療養のために常陸へ行く途中、武蔵国池上宗仲の館で死去した。遺言により日蓮の墓は西谷にあった草庵の奥に造られたという。西谷にある日蓮の墓に参ってから身延山をあとにした。 道を間違えて走っていると猿を見た。


 身延山久遠寺が日蓮宗の表の顔だとすると、七面山は裏の顔である。神仏習合の時代は長く、日蓮宗の陰には女神信仰があるようだ。旅を重ねていくつかの資料が集まってきたので、まとめるのが楽しみである。

    2019年 5月末~6月初めの旅 概要(3)へ



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