旅 1150 亀ヶ岡石器時代遺跡

2017年 7月22日
亀ヶ岡石器時代遺跡

 田光沼のあと、亀ヶ岡石器時代遺跡へ行った。

 亀ヶ岡石器時代遺跡は、青森県つがる市亀山地区・近江野沢地区・沢根地区にある縄文時代晩期の集落遺跡で、単に亀ヶ岡遺跡とも称される。
 宇宙人のようだとも言われる有名な遮光器土偶が出土した遺跡として知られ、1944年(昭和19年)6月26日に国の史跡に指定された。

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 上の地図には、日本海と田光沼の間に屏風山が2つ載るが、屏風山は南北30km、東西4km、最高所79mの丘のような低い山であるという。
 屏風山はもと砂山だった。日本海から吹きすさぶ風は冷たく冷害をもたらし、砂をまき散らした。それを防ぐことなしには、田光沼周辺の美田が維持できない。

 津軽4代藩主信政は開発事業の一環として、防砂・防風・水源の涵養を目的として造林を思いたった。館岡村の野呂理左衛門らは1681年(天和元年)、館岡村領明神山へ松30本余を植樹、育生14本を得たことに力を得て、翌年から本格的に造林に着手した。

 偏西風をまともに受ける砂丘への植林は大変なことで、山下農民の負担は大きかったが、1737年(元文2年)の「書上帳」には植え付け総本数86万2千本、66ヵ村、田畑4000町が恩恵に浴したと報告されている。
 この植樹は明治まで続いたという。屏風山はその名の通り屏風のように、風から美田を護ったのである。今日見る美田もこのような先人の不断の努力により維持されてきたことを忘れてはならない。


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 神社があった。
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 扁額には「雷電宮」とある。
 この神社は元和8年(1622)建立されたらしい。
 津軽藩2代藩主津軽信枚はこの近くに亀ヶ岡城(近江沢城)を築城しようと元和8年(1622)に着手したが、翌年一国一城令により中止した。
 津軽信枚がこの地を巡見している際に雷が鳴り響き、菖蒲川村神明宮社司工藤権之太夫に雷鳴を遠ざけるように命じて祈祷させたという。
 祈祷の結果、雷鳴が遠ざかったので、この地に堂社を建立させたと伝えらている。

 亀ヶ岡城跡を確認したわけではないが、亀ヶ岡遺跡は亀ヶ岡城跡から1kmほど北にあるというので、鬼門封じで祀ったのかもしれない。

 この神社も神仏習合が強かったようで、寛文8年(1668)焼失したときには、御神体の金像は享保2年(1717)まで弘前の最勝院に預けて、後に再建したという。再建まで約50年かかっている。
 例によって、明治初年に館岡村八幡宮に合祀されたが、のち亀ヶ岡村に再祀された。


 現地の下調べをして出かけたわけではないので、亀ヶ岡遺跡の看板があったのでここが遮光器土偶などの出土地かと思ったが、亀ヶ岡遺跡はかなり広いようだ。
 この近くに遮光器土偶の像がある「しゃこちゃん広場」として整備されているようだが、事前に調べていないのでスルーしてしまった。(「しゃこちゃん」は遮光器土偶の現地での愛称)
 この遮光器土偶像の背後にある谷間の湿地帯から数多くの遺物が出土している。発掘現場などはすべて埋め戻されていて、特に見学すべきところはないという。




 大溜池湖畔にある木造亀ヶ岡考古資料室(縄文館)へ行った。

 縄文館(つがる市木造館岡屏風山)と言っても、農業者トレーニングセンターの一階隅に小さな展示室があるだけであった。
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 玄関を入ると、大きな遮光器土偶のレプリカがあった。
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 200円の入場券を買って資料室に入った。展示品は地元の人が掘り出したもので、全てに所有者がいて、それを借りて展示しているようだ。
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現地掲示より
『 亀ヶ岡式土器の特徴
 亀ヶ岡式土器の特徴は、器面を研磨し、粗製と精製の土器を作り分け、深鉢形、鉢形、浅鉢形、皿形、台付鉢形、壺形、注口形、香炉形などの多様な種類の器形と、入組み磨消(すりけし)縄文などの華麗な文様を器面に施して、装飾性の強い美しさを意識していること、である。
 現在、岩手県大洞(おおぼら)貝塚から出土した土器に基づき、古い順に大洞B式、BC式、C1式、C2式、A式、A’式土器に分類されている。
 亀ヶ岡文化を代表する眼部を誇張した遮光器土偶は、自然界と人々の生活の豊饒を祈るために作られた女性像である。
 その他に、岩偶、土版、岩版、土面、石刀、石棒、石剣、耳飾り、翡翠製丸玉や勾玉、編布(あんぎん)、漆器など、いずれも高度な技術と文化の存在を物語る遺物が多い。 』


 縄文時代晩期には、この亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行し、これを亀ヶ岡文化とも言うが、説明文にあるようにその土器は岩手県大洞(おおぼら)貝塚から出土した土器に基づき、「大洞式」として分類される。亀ヶ岡から多く出土して有名なので「亀ヶ岡式土器」と呼ばれるものの標式遺跡は岩手県大船渡市の大洞貝塚である。

 頭のない遮光器土偶が展示されていた。頭がないので遮光器土偶であったかは分からないであろうが、掲示には「頭のない遮光器土偶」として説明があった。

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現地掲示より
『 頭のない遮光器土偶
史跡亀ヶ岡石器時代出土(近江野沢地区出土)
縄文時代晩期前半(約3000~2700年前) 大洞BC式段階
 この遮光器土偶は、亀ヶ岡遺跡の北側の低湿地、近江野沢から出土した縄文時代晩期(3000~2700年前)のものです。
 有名な左脚の欠けた遮光器土偶(しゃこうきどぐう)のように、内部は空洞で、これと同じように眼部に雪眼鏡(遮光器)をかけたような意匠を施した頭がついていたと考えられます。
 この土偶は、ベンガラと考えられる塗料で赤く塗られています。 』

 
 最も有名な遮光器土偶は、明治19年(一説では明治20年)出土で、個人の所蔵を経て、1957年(昭和32年)に重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。 この土偶は誰でも一度は写真で見たことがあるだろうが、重文であり国宝にはなっていない。
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 地元の人によると、個人の所蔵であったが、高く売れるので売ってしまったのだという。それを文化庁が買い上げたようだ。

 Wikipediaには次のようにあった。

『 江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ 、遠くオランダまで売られたものもある。
 1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという。1889年(明治22年)学術調査が行われ、1895年(明治28年)と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われ、1980年(昭和55年)丘陵上や谷の部分の調査が行われた結果、遮光器土偶をはじめ土器、石器、木製品、漆器などとともに土壙跡26基が発掘された。しかし生活跡や遺構の調査は未発掘である。現在無断で発掘することは禁止されている。 』

 1824年(文政7)から「南総里見八犬伝」などで有名な曲亭馬琴ら12人の文人による耽奇会で、各自が収集した亀ヶ岡土器や土偶を持ち寄って品評会が開かれていたという。

 この日本海側の亀ヶ岡遺跡に比べ、太平洋側の青森県八戸市大字是川中居にある是川遺跡は、出土品が現地でよく保存されているようだ。是川縄文館にある『合掌土偶』は2009年に国宝に指定されている。この旅では是川遺跡も訪れる予定だ。

 私は、2015年に善光寺の御開帳に合わせて開催された長野県信濃美術館の、「“いのり”のかたち」―信濃の仏像と国宝土偶「仮面の女神」「縄文のビーナス」―展に行き、国宝土偶の「仮面の女神」「縄文のビーナス」を観た。現在、国宝指定の土偶は5体のみで、その3体目を是川縄文館で観ることになるだろう。
( 参考 『旅472 新たなる始動』 )


 現在、北海道と青森県・岩手県・秋田県の4道県と関係14市町村によって18の縄文遺跡を「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録しようとする運動が行われている。
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 その中核になるのは三内丸山遺跡(青森市三内字丸山)と 大湯環状列石(秋田県鹿角市大和田大湯字万座)であるが、つがる市にも亀ヶ岡石器時代遺跡と田小屋野貝塚の2つがある。

 縄文時代は1万年以上続いた文化を持ち、世界的にも珍しい誇れる文化であり、各教育委員会などを中心とする行政側が世界文化遺産登録に向けて頑張っているが、地元にはそれほど熱を感じることはなかった。
 4道県に住む人は、縄文時代を日本の伝統的文化である「稲作文化」よりも劣った文化として、あまり誇りに思っていないようで関心も低いようである。
 この縄文館(木造亀ヶ岡考古資料室)も規模が小さいし、大湯環状列石は「熊出没注意」で見学することすらできなかった。

 しかし、私は縄文DNAを提唱するように、日本人の精神の深層には縄文文化の影響が脈々と流れ、核の一つとなっているように思う。何よりも、縄文時代が1万年も続いたのは、大陸の文化から隔離されていたからではなく、縄文人がその生活様式を選び取っていた結果であることが分かってきている。
 それは自然との共生であり、命に感謝し必要以上に動物を狩らない、木を伐ったら木を植えて現状回復を図るなど地球に優しい文化でもあった。そしてそれは縄文人の宗教観にも反映されていた。


 セアカゴケグモというオーストラリア原産の外来種の毒蜘蛛がいる。当然、オーストラリアとの飛行機、船舶による経済活動が活発なので日本にも入ってきた。
 1995年に大阪府で発見されて以来、その他の地域でも確認されるようになったが大きな問題にはならなかった。
 それは、セアカゴケグモが日本の冬の寒さに適応できずに越冬できなかったからであるが、2010年代からは事情が変わり、一部定着が確認され問題になってきている。

 越冬できるようになった一因には地球温暖化があり、また自動販売機の背面などの温かいところにひそみ越冬することもあるようだ。
 夏は暑く、冬は寒いという当たり前の環境が日本列島の生態系を維持してきたし、そこに住む人間もその自然を受け入れてきた。
 しかし、現代人は夏の暑さを嫌い、冬の寒さを疎み、冷房と暖房でエネルギーを消費するようになった。

 地球温暖化の原因の一つは、人の経済活動にもあるとされる。

 温暖化に起因して北の大地では永久凍土が溶け出し、そこから多量のメタンガスが放出され更なる温暖化に拍車をかけている。
 そして永久凍土からはメタンガスだけでなく、怖ろしい未知のウイルスも復活しているという報告もある。それが蔓延したら新型コロナウイルスの比ではない。

 昔、西欧の伝説で、神が悪魔を土中深く封印したというものを聞いたことがあるが、あながち伝説だけでなく永久凍土に怖ろしい病魔が封印されているのかもしれない。
 私は寒いのが苦手だが、寒い季節には寒くなければいけないのであろう。昔、北海道にはゴキブリがいないと言われたが、今はいるのであろう。

 少し脱線したが、要するに縄文の精神文化は決して劣っているものではなく、自然と共に生きるという地球に優しい誇れる文化であったのではないかと思うのである。だからこそ1万年も続いたのであろう。
 邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を派遣したのは景初二年(238年)とされる。その邪馬台国からまだ1780年しか経っていないことを考えたとき、1万年以上続いたという縄文時代の歴史の重みを再評価する必要があり、特に土器と漆器については世界をリードしていた文化であったことを誇りにしてもいいのであろう。


 縄文時代は長いので、6期に区分される。
草創期 紀元前13000年~紀元前9000年頃
早期  紀元前9000年~紀元前5000年頃
前期  紀元前5000年~紀元前3000年頃 田小屋野貝塚の時代
中期  紀元前3000年~紀元前2000年頃 田小屋野貝塚の時代
後期  紀元前2000年~紀元前1000年頃
晩期  紀元前1000年~紀元前300年頃 亀ヶ岡遺跡の中心年代

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 展示してあった頭のない遮光器土偶は重文の遮光器土偶よりやや古いものと考えられている。
 また、遮光器土偶より後の年代の土偶も出土している。
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 顔の表現は遮光器土偶のようにデフォルメされたものからやや写実的になっている。遮光器土偶のような中空土偶ではなく、粘土がつまっている中実土偶となっている。


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頂いたパンフレットより
『 漆塗土器
 麻布を貼り付けて漆を塗った藍胎漆器や、赤い漆を塗った土器などが見つかっているほか、「漆こし布」も発見されている。
 これらの出土品は、亀ヶ岡の縄文人が漆の精製技術をすでに会得していたことを証明している。
 また、耳飾やネックレスなどとして使用されたと見られる玉類のほか、土偶なども見つかり、資料室に展示している。
 これらの出土品からは、縄文人の高い芸術性が感じられるほか、土偶などのいわゆる「祭祀用具」からは、高度な精神性をみることができる。
 また、主要な出土品は低湿地から出土しているが、水づけで真空パックされた状態で埋まっていたため、3000年近い時を経った今でも、当時のようなあざやかな色彩で我々の前に姿をみせるのである。

史跡  亀ヶ岡石器時代遺跡 田小屋野貝塚
 縄文時代晩期を代表する亀ヶ岡石器時代遺跡の発見は非常に古い。江戸時代後期、18世紀末に書写された『永禄日記(館野越本)』などには、無数の「かめ」が掘り出されたため「亀ヶ岡」の名がついたと、その地名の由来が記されている。
 これらの出土品はすぐれた芸術品として、「亀ヶ岡もの」の名で江戸の文人墨客に珍重され、さらに遠くオランダをはじめとするヨーロッパまで輸出され、大英博物館やパリの人類博物館にも収蔵されている。
 縄文晩期の東北地方北部の造形文化は独特の発達をしており、北海道から九州にまで影響を及ぼした。そのため、北日本の縄文晩期の文化は、これを代表する遺跡、亀ヶ岡の名をとって、「亀ヶ岡文化」と呼ばれています。
 また、亀ヶ岡遺跡の北に位置する田小屋野貝塚では、円筒土器や、住居跡とそれに内包される貝塚のほか、ベンケイガイ製貝輪(ブレスレット)の半製品などが確認されている。
 「亀ヶ岡石器時代遺跡」と「田小屋野貝塚」は昭和19年(1944)6月26日に、国史跡に指定された。

亀ヶ岡城跡
 木造考古資料室の北隣地区は亀ヶ岡城の予定地であった。しかし、徳川幕府の「一国一城令」に従い、築城途中でやむなく廃城となった。
 この付近の台地を囲む「大溜池」は亀ヶ岡城の堀として予定されたものであるほか、現在、城跡には築城時をしのぶ土塁や巨大な空堀などの遺構が残っている。
 なお、過去には「亀ヶ岡遺跡の発見のきっかけ = 亀ヶ岡城の築城」とする説もあったが、これは誤りで城跡と亀ヶ岡遺跡の間には1kmほどの距離がある。 』


 亀ヶ岡城は、津軽2代藩主信次が1622年(元和8年)築城に着手後、一国一城令のため翌年中止したという。


 『永禄日記』の「館野越本」とは、18世紀後半の写本で、頂いたプリントには次のようにある。

『【訳】
 元和9年(1623)正月元日天気よし。
 2日弘前城下の下鍛冶町で火事
 近江沢での築城が中止となった。この城の城下になるところは、亀ヶ岡というらしい。ここからは、めずらしい瀬戸物が出土する。その形はみな甕の形をしている。
 大きさに大小あるが、みな水を入れる甕である。昔から多く出土するところである。
 昔、どういうわけで、このように多くの甕が土中に埋まったのか、その理由はわからない。その名をとって、亀ヶ岡(甕ヶ岡)という地名になったとのことである。
 また、青森近在の三内村に小川があり、この小川から出土する瀬戸物は、大小ともに、みな人形である。これも理由がわからない。

【解説】
 この文書を読んで、「亀ヶ岡遺跡の発見 = 亀ヶ岡(近江沢)城築城」と考える人もいるが、亀ヶ岡遺跡と亀ヶ岡城跡は約1km離れている。また、亀ヶ岡遺跡には築城の跡はなく、これは誤りである。
 また、『永禄日記』の原本は失われ、4つの写本のみが現在に伝わっている。亀ヶ岡や三内村(三内丸山遺跡付近)の話は、館野越(現板柳町)の医師山崎立朴が18世紀末頃に写した「館野越本」にのみ記されている。立朴は1796年(寛政8年)に亀ヶ岡遺跡を訪れた菅江真澄と交流のある人物のため、写本作成の際に、真澄からの情報を追記したのだと考えられる。 』


 菅江真澄は1796年(寛政8年)7月2日に、亀ヶ岡で掘り出された土器類を見分し、『外浜奇勝』に意見を述べている。

 古文書とは影響力があり、しかも恐ろしいものだ。文書は時代を越える。原本が失われ写本だけが残るのであれば、本当に原本が忠実に書き写されたかは分からない。写した者の思惑で取捨選択がされた場合があったり、この解説が正しいのであれば追記された場合もあるのかもしれない。そして、それが後世に残っていき、時には歴史となっていく。
 歴史は常に勝者(残った者)によって綴られていく。常に文章には書き手やその陰の人物の思惑がある。
 
 この解説は残された写本を比べて、「館野越本」には加筆があると考察した。
 一つの事実について書かれたいくつかの古文書を比べたときに、齟齬があったり矛盾していることがあったりしたら、疑ってみる必要がある。

 このプリントには文責についての名はなかったが、木造亀ヶ岡考古資料室(縄文館)が配布しているものだから、それなりのコンセンサスがあるものだろう。

 私は、ただの歴史愛好家であるから、ブログを書くとき一々出典を明らかにしないで書いているが、根拠となる資料を勝手に捏造することは勿論ない。(ただ、最近ネットから情報をとることが多くなり、そのネットの情報についてのリテラシーについてまで考えないで採用している傾向がある)
 あくまでも自分の旅の記録として気楽に書いている。ただ、入力したものをそのまま出力しているわけではなく、自分なりの考察を加えて出力している。旅を生業にしているわけではないし、ブログも趣味の一つであるから、それくらいはブログを書く楽しみとして許されるであろう。


 この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになったという。
 縄文海進では、この辺りまで十三湖が入り込んでいたと考えられる。その後、気温が徐々に下がり十三湖の汽水域も北に向かってどんどん後退したが、縄文晩期にはちょうど亀ヶ岡遺跡付近が十三湖の湖岸だったと考えられる。

 亀ケ岡式土器を出土する遺跡・文化圏は青森、秋田、岩手県を中心に各地に分布し、広く北海道南西部から関東・東海地方まで及んだ。一部は近畿地方にまで及んでいる。
 最近、沖縄でも亀ケ岡式土器と考えられる土器が出土していることを考えれば、この縄文文化はかつては日本列島を網羅していた可能性するある。

 弥生文化は西から東(南から北)へその文化圏を広げたと考えられている。もしそうなら、北東北に縄文文化が色濃く残ったのは当然のことである。
 そして最後の防波堤が津軽海峡であったのだろう。北海道にはアイヌ文化が残り、その信仰形態は縄文の宗教観にも繋がるという説がある。

 東北に住む人と違い、今の道民の多くは明治以降に開拓に入った倭人の末裔たちである。外来者であるその道民が北海道の縄文時代などに興味がないのは当然であるようにも感じる。
 北海道の状況を知るわけではないので、軽々なことは言うべきではないのだろうが、それほど世界文化遺産登録に関心があるわけではないような気がする。 
 北海道と青森県・岩手県・秋田県の4道県という広範囲な取り組みは、一体感と集中力に欠けるのは否めない。


 亀ヶ岡遺跡から出土する土器は、江戸時代後期になると珍奇品、土産物として乱掘され、昭和19年に国の史跡に指定されるまで、多くの貴重な土器が散逸した。
 全国に「宝塚」という地名がいくつかあるが、昔は塚(古墳)にお宝が埋まっているということで盗掘する輩もいた。亀ヶ岡遺跡のように掘り出した土器が売れるのであれば、住民が掘り出すのは当然であったのだろう。縄文館の展示品もほとんどが所有者がおり、市に寄贈されているわけではないようだ。

 先に、関係14市町村が縄文遺跡の世界文化遺産登録に向けて頑張っているが、地元にはそれほど熱を感じることはなかったと書いたが、亀ヶ岡遺跡にもそれを感じる。
 もし、亀ヶ岡遺跡を代表する重要文化財の遮光器土偶が地元に展示でき、大切にされていたら、国宝になっていたかもしれない。土偶のほとんどは完形で出土することはないので、左脚が欠けていても貴重な土偶に変わりはなく、地元で大切にされていたら国宝になったかもしれない。

 是川遺跡にある是川縄文館は八戸市埋蔵文化財センターを兼ねていることもあり、立派な建物であるという。おそらく国宝土偶の通称「合掌土偶」を展示しているからでもあろう。
 名前の上では、是川遺跡より有名な亀ヶ岡遺跡の縄文館が農業者トレーニングセンターの一階隅に間借りした状態であることは旅人にとっては残念なことであった。もし、重文の遮光器土偶が展示されていたら、小さくとも独立した建物になっていたかもしれない。

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