旅 1151 高山稲荷神社

2017年 7月22日
高山稲荷神社

 亀ヶ岡石器時代遺跡からつがる市牛潟町鷲野沢にある高山稲荷神社へやって来た。

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 県道12号線(十三道)から、日本海側に向かって高山稲荷神社まで約3kmの道(県道228号線)が延びている。この道に入って1kmほどの所に大鳥居があった。この道はまるで高山稲荷神社に行くためにある道のようでもある。
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 すぐに高山稲荷神社に着いた。
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 駐車場も完備され、信者のための宿泊施設もあるようだ。周囲には旅館や店のようなものはない感じで、道の先に突然広い神社の境内が出現したような感じである。
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 前のブログで紹介した屏風山のことが書かれた説明板があった。
『 防風保安林(屏風山国有林)
「後世に伝えるべき治山~よみがえる緑~」全国60箇所のうちの1つに選ばれました
 この屏風山は、1682年の津軽藩4代藩主信政公が、津軽新田の開発にあたり、防風と飛砂防備のため植栽を命じたのが始まりとされています。
 その後、飢饉による乱伐等のたびに荒廃と復興を繰り返してきました。昭和7年からは、国直轄による海岸林造成事業により砂丘や砂草地を造成し、順次クロマツ等を植栽してきました。
 その結果、国有林において約1000haにおよぶ海岸防災林が構築され、飛砂等の被害から津軽平野の人々の生活を守り続けています。
 
 山火事に注意して草や木を大切にしましょう。
  東北森林管理局 津軽森林管理署金木支署   』

 説明文に「その後、飢饉による乱伐等のたびに荒廃と復興を繰り返してきました。」とあるが、これは藩政期のことではないのではないか。そんなことをしたら藩の役人に処罰されるだろう。

 藩の命を受け、館岡村の野呂理左衛門らは1681年(天和元年)、館岡村領明神山へ松30本余を植樹、育生14本を得たことに力を得て、翌年から本格的に造林に着手したという。
 偏西風をまともに受ける砂丘への植林は大変なことで、山下農民の負担は大きかったが、1737年(元文2年)の「書上帳」には植え付け総本数86万2千本、66ヵ村、田畑4000町が恩恵に浴したと報告されている。そしてこの植樹は明治まで続いたという。

 説明文にある“飢饉による乱伐”とは明治以降のことで、この防風保安林が荒廃したので国有林として国が管理しなければならなくなったのではないか。

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現地説明板より
『 高山稲荷神社
御祭神
 宇迦之御魂命
 佐田彦命
 大宮能売命

由緒
 当社の御創建の年代は詳らかではないが、鎌倉から室町にかけて此のあたりを統治していた豪族安倍安東(藤)氏の創建と伝えられる。
 江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社御創建の社伝には、十三湊東方に山王坊日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)氏の祈願所として栄えるも1443年(嘉吉3年)[または、1432年(永享4年)]頃に南部勢の焼き討ちにより焼失。
 この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まれた、と伝えられる。
 稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄14年(1701年)、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の江戸城中での刃傷事件による藩取り潰しの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉戴し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより遷し祀った、と伝えられる。稲荷創建の社伝は他にも諸説あるが、何れも江戸時代に入ってからのことである。
 これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後江戸時代に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し、元々の山王神社が後退したものと考えられている。 』

 当社では大宮能売命を天鈿女命(あめのうずめ)としているようだ。


 説明文に、
「 江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社御創建の社伝には、十三湊東方に山王坊日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)氏の祈願所として栄えるも1443年(嘉吉3年)[または、1432年(永享4年)]頃に南部勢の焼き討ちにより焼失。
 この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まれた、と伝えられる。」
 とあるように、高山稲荷の前身は三王神社で、今も境内に三王神社が祀られる。

 安東氏の拠点は十三湖北岸の福島城でその水軍は強力であったという。
 安東氏は、天台系や熊野系の修験を入れ、その城下は十三千坊(とさせんぼう)と呼ばれたという。安東氏が南部氏により十三湊を追われたとき、天台系や熊野系の修験も周辺へ逃れたようだ。それが、この三王神社(山王神社)であり、小泊の権現崎であったのだろう。山王神社(日吉神社、日枝神社)は、比叡山延暦寺の鎮守である。 


 石段を上って左に折れると、拝殿があった。
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 稲荷神社の後ろへは道が続き、それを上ると山王鳥居があり、三王神社があった。
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 周辺には熊五郎稲荷神社、よんこ稲荷神社、作丈一稲荷神社、千代稲荷神社、大島稲荷神社、三五郎稲荷神社など、○○稲荷神社と呼ばれる多くの稲荷神社があった。
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 これらの神社のある丘を南側へ下ると、龍神を祀った神池があり中島には龍神宮があった。
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 この池には蓮の花が咲いていた。
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 この池か上の池か分からないが、昔は池で参供(さんご)をうって(神前にそなえた米を御幣の神に包んで池に投げる)占う人が多かったという。今も形を変えて行われているようだ。

 十和田神社のしおりの「御占場」の説明のなかに、「投ずるものをさんぐ(散供。これを訛ってさんご)といいますので、御占場を別に「おさんぐ場」と申します。」とあったが、「散供」も「参供」も同じもので、この占いは龍神に対して行われるもののようだ。この地には古くから龍神信仰があったのだろう。
 稲作農耕民には古くから竜蛇信仰があったようだ。稲荷信仰がその名のように稲作とも関係する信仰であるならば、稲荷信仰と龍神信仰は近い関係にあったのだろう。


 ここから上の池まで千本鳥居が続く。
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 上りきったところには神明社があった。
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消えかけた説明板があった。
『 神明社
一、御祭神
 天照皇大神
一、由緒
 伊勢神宮第61回式年遷宮に当たり、神宮司□特別の御□許に依り、古殿舎の御下賜を賜り、平成7年9月創建す 』


 上にも沼のような池があった。
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 池の周辺は何だか怪しい雰囲気がある。かつてはここが信仰の中心であったようだ。
 稲荷信仰は今は洗練されているが、もともとの稲荷信仰は御塚信仰であるから、怪しい雰囲気はあったもので、ここは僅かであるがその雰囲気を残す。
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頂いたしおりより
『 高山稲荷神社
神社の歴史
 南に津軽富士と言われる岩木山、西に七里長浜と日本海、北に十三湖(市浦)・権現崎のある小泊から渡島(北海道)、東に津軽の山並みを見渡す高山稲荷神社がいつの頃に創建されたかについての資料は、江戸時代にいくつかの稲荷創建の伝承説が残されている他にほとんどありません。
 しかし、神社が三王神社として記載されている古地図があり、古くからの難所であった周辺の海路、陸路の守護神であったとの伝承もあります。
 おそらくここは先住民族である津軽蝦夷の時代からの守護神が祀られた神社であり、安東氏の統治時代から三王神社となり、江戸時代になって当地に開墾の鍬が入れられてからは稲荷神社になったのだと推測されます。

御祭神
 御祭神は、全国稲荷神社の総本社・伏見稲荷大社と同じ稲荷大神(宇迦之御魂命・佐田彦命・大宮賣命)です。
 また、境内には歴史の項で述べた三王神社を始め、更に特殊信仰に支えられる龍神宮など多くの境内社もあり、それらの神々も高山稲荷大神と共に篤い信仰を集めています。

主な社殿や建造物
御社殿
 現在の御社殿は、御創建当時のものではありませんが、龍の彫刻のある本殿は拝殿とつながり、本殿にはさや堂を設けており、清らかな神社のたたずまいをよく保持しています。本殿が神さまのお住まい、拝殿は神さまに御祈願をする所です。

境内社
 御本殿の他に、本殿のあるお山の下の神池の中心に水神さまをまつる龍神宮、本殿後方にその昔の三王信仰を偲ばせる三王神社、参道左側には自然石でできた命婦社、お山を中心に数々の伝承と重なる三五郎稲荷・熊五郎稲荷・千代稲荷を始め多くの境内社が点在しています。
 更に御本殿下の神苑には信仰者の方々により奉納された無数の小神祠が奉安されています。
 命婦社は縁結びの信仰の柱として奉納された社、熊五郎稲荷は境内の左手奥に奉安され、東京の熱心な信者さんから奉建された社です。

神池・小神祠神苑
 神池・龍神宮から幾重にも重なる朱塗りの鳥居を通って丘を越えると小神祠神苑につながります。2つを結ぶ丘の上には神明社が鎮座しております。

参集殿
 お参りに来られた方々に宿泊して頂く施設。鉄筋2階建450坪、客室約20、大広間198畳、約300名の方にお泊まり頂け、職員がお世話しています。

高山稲荷神社の信仰の特色
 江戸時代、開拓者が住みつくようになって後、この神社の鎮座する高山は、稲荷大神のお住みになる山としての信仰が定着しました。ここの信仰には、農業・商業・工業・漁業・家内安全・病気平癒・道中守護・憑物落しなどの多様多彩のものがあり、地元を始め遠方の人々の力もあって、神社は支えられてきました。昔も今も「高山のお稲荷さまにおこもりして祈願すれば願いは叶う」と何日も祈り続けられる方が多数おられます。古くは交通の便がとても悪かったのですが、それでも難路を越えてはるばるお参りされた方も多くありました。
 また、この地方特有の祈祷師に率いられた教団的信仰、稲荷大神の熱狂的信者が教祖となっての個性的信仰もあり、神社の付近に専用のお塚をたてて独特の信仰活動を行い、沢山の小神祠やお狐さんが奉納されております。
 今ではそれらをまとめて神苑を造り、お祭りをしています。中には老朽化したもの、お参りが絶えてしまったものも多いため、神社では毎年8月10日にお焚き上げのお祓いをしています。
 小神祠神苑の続く一帯には、龍神さまが住むと信仰される神池があり、龍神宮があります。この神池では神占いが行われます。願いをこめて「こより」を池に落とし、こよりが真っ直ぐ沈めば願望成就、途中で止まり、時間がかかると願い事は難儀をする。全く沈まないと願いは無理との信仰です。
 また、龍神さまの付近の山に入り、七枚葉の付いた笹の葉を頂いて、田んぼの水口にさしておくと五穀豊穣が叶えられるという信仰もあります。
 このように多くの人々の祈りが行われ、叶えられ、それが更に篤い信仰を呼び、神社は歴史を重ねてきました。参拝される皆様も、願い事が叶った後も、常に祈る心を持ち続けられることを望みます。 』


 今までいくつかの稲荷神社を訪れてきたが、稲荷信仰とは不可解な信仰である。私の故郷の隣町は「稲荷山」といい、戦前には長野県でも指折りの商業の街として栄えた。この街は稲荷山という名なのだから稲荷信仰があったのだろうが、まだよく調べていない。しかし、ここには濃厚な渡来人の痕跡がある。


 高山稲荷神社の「高山」は、鰺ヶ沢から十三集落までの七里長浜のもっとも高い丘にあったから「高山」と言ったようだ。

 しおりの説明に、「古くは交通の便がとても悪かったのですが、それでも難路を越えてはるばるお参りされた方も多くありました。」とあるように、江戸時代の鰺ヶ沢から十三集落までの道は街道とは名ばかりの砂浜にすぎず、冬になると浜が凍って歩行困難になるような状態であったという。

 しおりには、
「また、この地方特有の祈祷師に率いられた教団的信仰、稲荷大神の熱狂的信者が教祖となっての個性的信仰もあり、神社の付近に専用のお塚をたてて独特の信仰活動を行い、沢山の小神祠やお狐さんが奉納されております。
 今ではそれらをまとめて神苑を造り、お祭りをしています。中には老朽化したもの、お参りが絶えてしまったものも多いため、神社では毎年8月10日にお焚き上げのお祓いをしています。」
 とあり、この祈祷師らの活動は当社とは深い関わりがないような書かれ方がされているが、それは間違いで、この祈祷師たちは当社と深く繋がり、当社の信仰を広く布教していたようだ。
 当社には「神習教師及神教子推薦簿」があり、これは各地のゴミソ(祈祷師)に神習教の教導職免許状を斡旋した当時の覚書である。高山稲荷からその免許状の斡旋を受けたゴミソの分布と、高山稲荷の信仰圏は一致するという。


 神習教についてはWikipediaに次のように載る。

『 神習教
 神習教(しんしゅうきょう)は、美作国(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身の神道家芳村正秉が1857年(安政4年)に立教し明治初期の神官教導職分離の時期に組織した神道教派で教派神道十三派の一つ。東京都世田谷区に法人の教庁を置く。
 当時の神社や神道のあり方に対して問題意識を持っていた正秉が本来の神道の姿に復することを目的として形成され、神代より脈々と流れる伝統的な神道的価値観を教義の柱としている。天照大御神をはじめとして神道古典にある天津神、国津神を祀り、古事記、日本書紀ほかを所依の教典とする。

主祭神​
 天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神、歴代皇霊神、天神地祇

相殿神
 国常立尊、大国主命、少彦名命、饒速日命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、伊久魂大神、神武天皇霊神、孝明天皇霊神、豊受大神、倭姫大神、(主祭神の)荒魂神、正一位稲荷大神、天兒屋命、天鈿女神、御食津彦命、御食津姫命、菅原大神、水天宮大神、事比羅大神、十里大神、千代田稲荷大神、國玉稲荷大神、照玉稲荷大神、柿本大神、高富武秀彦命、妻山花秀姫命、玉高稲荷大神

沿革​
 大中臣の後裔で勤皇の志士であった芳村正秉が安政の大獄の直前(1857年(安政4年))幕府の手から逃れ鞍馬寺山門内の由岐(伎)神社拝殿下に一月の間籠り、同志の無残な死を悲しみ国を憂いつつ人間そのものに思いをいたしていると「芳村家は大中臣の後裔にして神道の家系である。他日大中臣の神道を継ぎ、これを世に明かせよ」との祖父の遺訓を祖母から教えられた時の光景が眼前に浮かび、大中臣神事の再興こそ自分の使命であると悟った。
 大政奉還後、西郷隆盛の紹介により神祇官(後に教部省)に奉職。1873年(明治6年)1月27日には伊勢神宮に禰宜として奉職。神明奉仕をしながら出納課長、常務課長、神宮司庁東京出張所(後の東京大神宮)所長(1876年(明治9年)6月 )を経て筆頭禰宜となる。
 なお西郷の紹介により明治天皇に非公式に面会し幾度となく皇居に出向いている。相殿の祭神である千代田稲荷は、明治天皇に面会の際の道中で突然人力車が動かなくなり正秉に神託が下って祀るようになった。
 伊勢神宮より転出した正秉には龍田大社宮司の辞令が出されるが、神官教導職の分離により神社が「国家の宗祀」(国家が祀るべき公的施設)となり神官による国民教化が出来なくなることを見越して、伊藤博文に妻子を預けて諸国の霊山に籠り家伝の神事遺法を修める等により自己の神道を確立。
 1880年(明治13年)、東京府に「神習教会」を設立、1882年(明治15年)5月10日一教特立を願い出て、明治天皇の勅許を得て「神道神習派」と改め、同年10月6日「神習教」と改称した。
 教名は伊勢神宮奉職中、荒祭宮での月例祭の時に倭姫命から「汝が一教を立てる時には神習いの教えとせよ」と託宣が下ったことによる。また「教えの旨は『かみながら』とせよ」との託宣もあり、教旨を「かみながら」としている。
 伊勢神宮退任の際には、正秉に信任を寄せる祭主久邇宮朝彦親王が御親ら天照大御神の神霊を御鏡に分霊してこれを授けた。
 またこの頃、一位局(中山慶子)より依頼を受け、大正天皇の健康祈願を三百日間に亘って行っている。
 1883年(明治16年)9月には、御嶽山の王滝口と黒沢口の社家に許可を得て御嶽三神(国常立尊、大己貴命、少彦名命)を神殿に合祀している。
 1891年(明治24年)のアメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェルが来日した際には、外務大臣陸奥宗光によって神習教が紹介され、正秉は敬虔なキリスト教徒だったローウェルに神道の教理を教えている。そして1893年(明治26年)にローウェルが二度目の来日をした際には、正秉の手配により内務省阿部社寺局長の添書きを携えて伊勢神宮へ赴き、正式参拝を行い外国人として初めて太々神楽を奉納している。
 明治期の神習教の大祭には外務省、内務省の紹介並びにパーシヴァル・ローウェルの著書の影響により数百人の外国人が参拝している。
 1915年(大正4年)1月21日に正秉は75歳で死去(従六位)。正秉の孫の忠明が管長を継承する。
 忠明は正秉がご祭神から受けた神託を遺言として奉じ教庁・神殿を現在の東京都世田谷区に移す。そして関東大震災・大東亜戦争を凌ぎ、1985年(昭和60年)に88歳で死去。忠明の孫の正德が管長を継ぎ規則変更により教主となり現在に至る。
 創建の経緯、祭神、御霊代の由緒から「桜神宮」として、教庁の置かれている東京都世田谷区で地域住民の崇敬を受けている。 』


 高山稲荷神社が祀る稲荷大神は、農業・漁業・商業の職業神であるが、信仰圏は驚くほど広く、大祭や例祭には八戸・盛岡・秋田はもとより、静岡・北海道からも参詣に来たと言う。
 昭和の頃までは、その信者の数は5万とも6万とも言われた。
 今でも約300名が宿泊できる立派な参集殿があるが、この参集殿の前身は「参籠所」と呼ばれた。


 本殿を祀る丘の上とは違う丘の上に、「チェスボロー号記念碑」と高山展望台があったが、行かなかった。

 しおりに、「チェスボロー号遭難事件」があったので掲載しておく。

『 チェスボロー号遭難事件
 境内手前の丘の上に、明治22年(1889)10月30日に起こった日本海七里長浜での、村をあげた米国商船(1500トン)の救済活動と、その際亡くなった船員を偲ぶ、チェスボロー号記念碑があります。
 この日、日本海は大荒れで、ここの沖合でアメリカの帆船チェスボロー号が遭難しました。風速60mを超す大嵐の中、浅瀬に激突、船は大破し、乗組員23名全員が海に放り出されました。荒海に船を出し、このうちの4名を救助し、介護したのが車力村の人達です。殊に神社へお参りに来る人々のため、木賃宿を開いていた工藤吉右衛門(のちに神社の初代常勤奉仕者)の妻・はんの活躍はめざましいものでした。はんは、衰弱して「もうだめだ」とみられた乗組員のヘンリー・ウィルソン氏を、村人達の見守る中、着物を脱いで全身で暖め、一命を救い、吉右衛門夫婦は4人に鶏肉や卵を提供し、元気を回復させました。後、その功によりはんは青森県から賞状を貰うことになりました。
 神社には、チェスボロー号の遭難を描いた絵と、船の模型が大切に飾ってあります。 』


 当社の現在の宮司は工藤さんらしい。
 明治22年(1889)のチェスボロー号遭難事件と、明治24年のアメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェルが来日ことが、何らかの繋がりがあるのかもしれない。パーシヴァル・ローウェルはアメリカ人であるから2年前のチェスボロー号遭難事件のことを知っていて、政府関係者を通じて工藤吉右衛門夫婦と会ってでもいれば、高山稲荷神社と神習教との繋がりが見えてくるのだが、これはあくまでも私の想像でしかない


 高山稲荷神社と神習教との関係はよく分からないが、神習教の開祖が芳村正秉であったことは重要なことである。
 芳村正秉(よしむら まさもち)は、1873年(明治6年)に伊勢神宮に禰宜として奉職して、神宮の改革に加わった重要人物である。

 明治初年より国家の祭祀政策は紆余曲折を経ながら、やがて宮中三殿と伊勢神宮とが至高の祭祀対象とされるようになっていった。この方針にそって伊勢神宮の改革が本格的に行われたのは明治4年から6年にかけてであった。この3年間で「お伊勢さん」と呼ばれていた庶民の神宮が、すっかり変わり現在に見るお堅い神宮になった。
 風俗的変化は、伊勢神宮を訪れたときに譲るとして、内部の人事的改革をみてみる。

 明治4年には長いあいだ世襲してきた藤波家の祭主職が免ぜられ、近衛忠房が神宮祭主に任ぜられたが、忠房は東京に在勤していため、まだ実質的な改革には結びついていなかった。
 しかし、神社は「国家の宗祀にて一人一家の私有すべきものではない」として、神職の世襲を廃止した意味は大きい。荒木田氏も度会氏も世襲できなくなった。
 このとき、同等とされていた両宮について、皇太神宮(内宮)を豊受太神宮(外宮)より上位にした。また、御師(おし)および御師による大麻配布も廃止された。

 伊勢神宮は、膨大な数の御師の活動によって多くの参詣者を得ていた。また、御師は外宮に所属する者が圧倒的に多く、民衆的な伊勢信仰では外宮の占める比重が高かった。つまり、庶民の「お伊勢参り」とは外宮に参拝することがメインで、外宮の方が交通便利で賑わう場所にあった。

 神官職制は、祭主、大宮司、少宮司、禰宜、権禰宜、主典、権主典、宮掌とされ、実際に神官任免が新しい基準で行われ、神職身分の者に大変動がおこった。
 明治4年から8年にかけての神宮神官の新任状況を、それまでの神宮関係者と外来者に分けてみてみる。

明治4年  21人(神宮関係者)      0人(外来者)
明治5年   27人(神宮関係者)     5人(外来者)
明治6年  15人(神宮関係者)      24人(外来者)
明治7年   1人(神宮関係者)       6人(外来者)
明治8年   0人(神宮関係者)      4人(外来者)

 画期は明治6年で、外来者が大きく上まわり、神宮の人事が刷新された。その明治6年に、中央から神宮改革の使命を帯びて送り込まれたのが、大宮司として本荘宗秀、禰宜として芳村正秉であった。芳村正秉の神宮改革に果たした役割は大きい。


 神習教の教名は伊勢神宮奉職中、荒祭宮での月例祭の時に倭姫命から「汝が一教を立てる時には神習いの教えとせよ」と託宣が下ったことによるという。
 荒祭宮の祭神は天照坐皇大御神荒御魂でアマテラスの荒魂を祀るとされる。そして、『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記している。  

 伊勢神宮退任の際には、芳村正秉に信任を寄せる祭主久邇宮朝彦親王が御親ら天照大御神の神霊を御鏡に分霊してこれを授けたという。
 神習教では、主祭神として、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神、歴代皇霊神、天神地祇を祀るが、やはりメインは天照大御神であろう。
 そして、相殿神として多くの神を祀るが、その中に(主祭神の)荒魂神がある。これは天照大御神の荒魂ということであろう。
 また、相殿神のなかで、正一位稲荷大神、千代田稲荷大神、國玉稲荷大神、照玉稲荷大神、玉高稲荷大神と稲荷大神が沢山入っていることが特徴である。
 特に千代田稲荷大神については、明治天皇に面会の際の道中で突然人力車が動かなくなり正秉に神託が下って祀るようになったという。

 高山稲荷神社にも沢山の稲荷神社が祀られるが、その中に千代稲荷神社がある。千代田稲荷と千代稲荷はニアミスである。

  芳村正秉は神宮の禰宜として奉職したことで、神宮祭祀の深層をかなりはっきりと知ることができたのだと思う。


 このような芳村正秉が開祖である神習教と高山稲荷神社が関係があるとすれば、高山稲荷神社がこの地方で神社界に及ぼした影響力は大きかったことが予想されるが・・・

 高山稲荷神社と神習教との間に何らかの関係があったのかは、今のところ資料が得られず分からない。
 高山稲荷神社に来たときに、このような一見辺鄙な場所に、このような立派な神社があることに違和感を感じたが、当社の繁栄は、勿論稲荷大神への信仰もあったのであろうが、神習教と何らかの繋がりがあったからかも知れないと考えてみたが・・・。



 高山稲荷神社から県道12号線(十三道)へ戻り、県道12号線を南下すると、国道101線に突き当たる。そこを左折して3kmほどで道の駅「もりた」に着いた。今夜はここを車中泊の場所とする。
 この道の駅は、五所川原と鰺ヶ崎の中間点に位置し、国道101号線とJR五能線が並行して走っている。五能線の名は、五所川原と秋田県の能代を繋ぐので付いた名であろう。

 道の駅「もりた」には、旧増田家住宅母屋が移設されていた。
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現地説明板より
『 旧増田家住宅母屋 つがる市有形文化財
 木造茅葺一部二階建て、床総面積430.92平方メートルで、建築年代は明治中期(百年以上前)頃とされる。
 当時の津軽地方を代表する規模の大きい茅葺農家(地主)住宅で、大小11の部屋数を持ち、武家の格式をとり入れ、台所・常居・座敷に段差があり、天井も高い。
 屋根は重厚な寄棟造りで箱棟には煙抜きの八方がとりつけられ、地盤からの高さは13mである。
 外部は化粧材の使用が目立ち、豪華さが感じられる。
 特に軒回りの二重出桁造りと軒の斜格子天井が目立っている。
 二階の位置が正面常居の上に設けられ、軒が高くなっている茅葺屋根は当地方では珍しいとされる。
 木材は主としてヒバ、けやきで、すじかいを用いず、すべて貫を使用し、釘も使っていない。
 平成9年11月、大字上相野字小中野より移築。

〈増田家〉
 約350年前の小中野開発地主で、12代嘉右衛門氏、13代源助氏は安政2年(1855)から明治7年(1874)まで、館岡野呂氏、森田原田氏とともに、屏風山植林に尽力、国の褒賞を受ける。
 15代清教氏は昭和10年(1935)から昭和18年(1943)まで森田村12代村長、昭和14年(1939)から昭和22年(1947)まで県議会議員をつとめた。 』


 屏風山防風防砂林は、津軽藩4代藩主信政の命を受け、館岡村の野呂氏、相野村の増田氏、森田村の原田氏などが尽力し、それぞれ開発地主となったようだ。



雑記

 ブログに勝手に広告が入るようになった。
 
 フリーソフトを入れたときに、バックドアという悪意のあるプログラムが一緒に入ったようだ。
 開いたブログページに勝手に広告が入るようになった。勝手にリンクが書き込まれたようだが削除できない。

 すぐに入れたフリーソフトをアンインストールしたら、今のところはその後開いたページには広告が入らない。
 フリーソフトは恐ろしい。安易に導入してはいけないことが身に染みた。
 昔から「だだより高いものはない」と言うが、フリー(ただ)のものは恐いということだ。

 現在、広告が入っているのは、追記やリンク作成のために開いた、この『旅1151 高山稲荷神社』と『旅1148 十三湖(じゅうさんこ)』、『旅1147 小泊周辺』、『旅649 三春町の寺社など(1)』であるが、それは確認できたものがそれだけということである。

 しばらく様子をみる必要がありそうだ。広告が消える可能性もあると期待もしている。

 こんなことがあると、私のように警戒心が薄い者が、ネットに繋がっているということはセキュリティの問題も含めて、かなりのリスクがあるということなのであろう。

 「ただのものは高い」し、「便利なもの」には危険がつきものなのかもしれない。

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