ハッシー27のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 旅 171 熊襲の穴   和気神社 (霧島市)

<<   作成日時 : 2013/05/03 20:55   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2012年 5月8日 No.9
熊襲の穴
 妙見温泉の西側を200メートルほど登った山腹にある熊襲の穴。案内板には次のようにあった。
『 熊襲の穴は、この地点からおよそ5mのところにあり、昔熊襲族が居住していた穴で、熊襲の首領・クマソタケルが女装したヤマトタケルノミコトに誅殺されたところで、一名嬢着(じょうちゃく)の穴ともいわれます。
 第一洞穴は、奥行22m、幅10mで百畳敷き位の広さがあり、さらに右正面から第二洞穴につながっておりますが、現在入口が崩れて中に入りません。第二洞穴は、約三百畳敷き位の広さといわれています。 』
 1990年に、鹿児島県出身の前衛画家・萩原貞行氏が水性ペイントの原色を使って、洞穴の壁と天井に渦巻き模様やヘビの形、星や月などを描いたという。
画像

画像

画像

 私見ではヤマトタケルノミコトは九州には来ていないので、これは単なる作り話であると考える。



和気神社 (霧島市)
 和気神社(わけじんじゃ)は、鹿児島県霧島市牧園町宿窪田にある神社である。和気清麻呂公命を祀る。神号は護王大明神。
 奈良時代の末、神護景雲3年(769)宇佐八幡神託事件(弓削道鏡による皇位覬覦(きゆ)の事件)に際し和気清麿は勅使として、宇佐八幡宮の御神前に祈り戴いた真の御神託を復奏し道鏡の野望をくじいたが、道鏡の怒りを買い大隅の国に流される。後に名誉回復されて京へ戻っている。
 嘉永6年(1853)薩摩藩主島津斉彬公は日隅二州巡視の折、霧島山下犬飼滝付近に籠を駐め、手づから一樹の松を手植え、その後、八田知紀に命じて和気公の遺跡を精査せしめる。その結果、現地中津川犬飼滝付近と確定された。和気清麻呂が配流され、京に戻ってから千年以上も後のことになる。千年以上も前のことを調べ確定するのは難しいことだっただろう。幕末、倒幕のために尊皇思想が利用された。薩摩藩主島津斉彬も万世一系の皇統を守った稀代の忠臣である和気清麻呂を顕彰する必要があったのだろう。
 昭和14年和気清麻呂公精忠顕彰会が発足し、県社和気神社創建の請願を重ね、昭和17年5月6日創立許可下る。爾来この日を例祭日とする所以である。昭和18年起工。21年(1946年)3月御鎮座された。和気清麻呂が配流された場所が確定されてから神社ができるまでも百年近くかかっている。わずか1年しか大隅にいなかった和気清麻呂には馴染みがなかったのか、倒幕がなった後の和気清麻呂はどうでもよかったのかもしれない。
画像

画像

画像

 例祭が一昨日とは知らずに訪れたが、山の中の神社はひっそりとしていて駐車場は広いが、閑散としていた。一昨日の例祭は賑やかだったのだろうか。
画像

 拝殿前には狛猪がある。これは配流の際に、宇佐神宮に参詣しようと豊前国に上陸したところ、猪が輿を守ったとの伝説(『日本後紀』巻八)により、猪が和気清麻呂の守護神とされているためである。因みに明治32年の亥年に発行された旧拾円紙幣には、表面に和気清麻呂の肖像と、裏面に猪を刷り込んであり、これにより旧拾円紙幣は「いのしし」と呼ばれ親しまれた。親しまれたとはいえ、当時の拾円は大金で一般庶民には縁(円 )がなかっただろう。

 称徳女帝と道鏡のことについては、書きたいことがたくさんあるが、今回は和気清麻呂について少し述べておこう。
 和気清麻呂は本姓を磐梨別公という。そして、藤野別真人、吉備藤野別真人、輔治能真人(ふじののまひと)と改姓を重ねていく。藤野ではなく輔治能としたのは天皇を補佐し輔けるという意味を籠めているのである。和気氏の祖先は、『日本後紀』の清麻呂の卒伝によれば弟彦王で、王は神功皇后の新羅遠征にしたがった。そして、皇后に背いた忍熊王を針間と吉備の境で破った功により、藤原県に封ぜられた。この藤原県がすなわち磐梨県であるので、清麻呂は最初、磐梨別公を授けられたのだろう。
 大和朝廷の成立に大きく関係した吉備地方の氏族は複雑で、未だにはっきりしない部分が多い。簡略化して述べれば岡山県の東の吉井川の流域の一帯、つまり美作と備前の東部をしめていたのが和気氏であり、中央の旭川と西の高梁川(たかはしがわ)の流域、つまり備前の西部と備中を大きくしめていたのが吉備氏と考えてよい。名からも分かるように、古い時代に吉備一帯を代表したのは吉備氏であり、和気氏はそれより遅れ、それとは別系の豪族として発展してきたのであり、この二つの豪族は、氏の内部構造にもかなりのちがいがある。和気氏は吉備氏よりも中央政界への進出も遅れた。とにかく吉備氏は内部構造が複雑でミステリアスな氏族である。
 清麻呂の孝謙・称徳女帝の時代における出世は、姉、広虫の引き立てによるといっても過言ではない。広虫は女帝に仕え、女帝が出家すると広虫もそれに従い出家し法均と号した。そもそも宇佐八幡神託事件は称徳女帝と道鏡の猿芝居で、宇佐神宮の神託は初めから決まっていた。それを裏切ったのが広虫と清麻呂という図式になる。勿論、清麻呂の一存でできることではなく、蔭には藤原百川と藤原永手がいた。所詮、道鏡の権威は女帝の威を借りたものにすぎず、長くは続かないことは分かっていた。女帝に献身的に仕えていた姉弟だったが、先の見通しは誤らなかった。
 女帝の怒りに触れた清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と名を変えられ、除名されて大隅に流された。姉の法均も還俗させられ名も広虫から狭虫(さむし)に変えられ備後に流された。この時、藤原百川は備後の国の封郷二十戸を配所に送り、姉弟を支援している。
 770年称徳女帝が亡くなり、光仁帝が皇位に就くと、清麻呂は赦されて、元の位と姓名に復した。配所での生活も1年で終わったことになる。しかし、光仁帝の時代には清麻呂はあまり活躍しなかった。しかし、桓武帝の時代とともに清麻呂の活躍は始まるのである。
 中世の歴史書では清麻呂・広虫の評価は必ずしも高くない。かえって藤原百川の方が評価されている。清麻呂の評価を高めたのは江戸時代に水戸藩により編纂された『大日本史』である。以後、清麻呂は忠臣として礼賛される。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
旅 171 熊襲の穴   和気神社 (霧島市) ハッシー27のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる