旅 344 安養寺

2014年4月30日
安養寺
 宝林山安養寺は佐久市安原にある臨済宗(妙心寺派)の寺である。
 後深草上皇の命によって、無本覚心和尚(法燈円明国師)が弘安年間(1278~1288)大字寺平の地に一寺を創建開山となったとされる。
 寺平はどこか分からないが、佐久市小田井字南金井の辺らしい。ここには金井城跡がある。

 貞治年間(1362~1368)に覚心と同郷(筑摩郡神林村)で孫弟子である大歇勇健(正眼智鑑禅師)が伽藍を字光明寺に移転して中興開山となった。
 無本覚心の孫弟子の開山といえば、向嶽寺(山梨県甲州市塩山)を思い起こす。向嶽寺は守護武田氏の庇護を得て無本覚心の孫弟子である抜隊得勝が康暦2年(1380年)に開山した寺である。
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 安養寺は天文19年(1541)、武田信玄が朱印地526石を寄進し諸堂を修復した。永禄年間(1558~1570)甲越合戦の際、兵火にあって全焼した後、徳川家が寺領20石を寄進、寺運も興隆したという。
 現在の伽藍は徳川時代に再建されたものであり、妙心寺派になったのは元禄12年(1700)であり、現住職田嶋さんは87世だという。
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 この槻の古木は、大歇勇健和尚手植えと言われ、幹周り9m、樹高14mあるという。場所から考えると意図的に植えられたもののように思う。大歇勇健和尚の手植えだとすれば、樹齢は650年になる。

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 本堂の後ろにお堂が付属していた。まるで神社の拝殿に対する本殿のように見える。このような後ろのお堂には開山や開基の位牌が祀られていることが多いという。
 更にこのお堂の裏山に上る石段を上がると、墓らしきものがあった。
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 石塔の形から察するところ僧の墓らしい。大歇勇健和尚の供養塔だろうか。
 参勤交代の途中岩村田宿で亡くなった細川藩の姫君の墓もあるというが探さなかった。

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 本堂裏、庫裏との間に小さな池がありその脇に花が咲いていたので写真を撮った。蓮がなかったので蓮池ではないと思うが、安養寺には完全の田螺(タニシ)を入れても殻尾が溶けてしまうと言う蓮池があるという。


 安養寺には県宝が3つある。
現地案内板より
『 安養寺における長野県宝
版本大般若経
 「版本大般若経」の原蔵は水内郡野尻湖琵琶島弁財天で、延文3年~4年(1358~1359)にかけて沙門了妙の勧進によって施入されたものであった。
 永禄年間(1558~1570)戦国兵乱の中、武田軍によって持ち出された本経典は、佐久郡英多神社に納められたが、いつの頃からか、隣接する安養寺に移されたと伝えられている。
 南北朝時代の紙本木版刷りで、勧進者・奉納場所も明らかな貴重な経典である。それぞれの巻の奥書には「沼尻比巴嶋弁才天御宝前」「延文第三 二月十六日」「勧進 沙門了妙」とある。
 全600巻の内577巻現存 折本袋綴り様、表紙は渋ひき和紙。

木造阿弥陀如来及び両脇侍立像
 安養寺の阿弥陀三尊は、類例の少ない中品中生の説法印を結ぶ弥陀に両脇待を配したもので、鎌倉中期の作とみられる。
 中尊の阿弥陀如来の構造は桧材を用い、頭体幹部を通じ正中線、両耳後ろを通る体側で左右前後四材を矧ぎ合わせて彫成し、内刳りを施し玉眼を嵌入、割首を行っているものと推定される。
 両脇侍立像の像容はほぼ同じで、観音菩薩は裳の折り返しを二段とし、腰布の正面は裳の折り返し部に隠されている。両手は第一・三・四指を曲げ、他指を伸ばして、左手を垂下、右手は屈臂し肩先まで挙げ蓮華(亡失)執る姿態を示す。
 勢至菩薩は裳の折り返しを一段とし、腰布を大腿部中央で結び紐二条・連珠・紐二条からなる腰帯を正面にのぞかせる。両腕は観音菩薩同様、右手は第一・三・四指を曲げ、他の二指を伸ばし、屈臂して肩先まであげ、蓮華(亡失)執る姿態を示す。左手は五指を軽く握り垂下させる。右手は臂先から遊離し別に保管されている。
 その作風や頭体の主要部を四材からつくり、上げ底式に刳り残す技法も運慶の流れをくむ慶派一門に近い仏師の作と推定され、県内では数少ない当代慶派の秀作として注目される。
物件概要
製作年代  13世紀前半
材 質  桧材
構 造 寄木造・玉眼嵌入・漆箔・説法印
法量像高  中尊像68.7cm 脇侍像 各83.4cm

木造伝法燈国師坐像
 本像は桧材寄せ木造りで、両肩先および衣掛けは左右四枚のつぎ付けからなっており、内部はくりぬかれている。白絹の下地に漆塗りで彩色および模様を施す。
 等身像で、水晶をはめこんだ両目は伏し眼がちに俯瞰し、鼻筋のとおった細面、固く結んだ口もとには端厳な国師の意志をうかがわせている。
 衣服には青っぽい色彩が施さされており、そのところどころに繊細な模様がかかれている。きっちりとした襟もとや袈裟のかけ具合などから清潔感がただよう。
 製作年代を示す銘記はないが、両膝間や左袖口に見られるように、衣の彫りには部分的に強い稜の立った工法が用いられており、地方仏師による鎌倉様式を伝える室町中期の作と推定される。
 法燈国師は鎌倉中期の臨済宗の高僧、承元元年(1207)から永仁6年(1298)ころ、筑摩郡神林村に生まれる。無本覚心、法燈国師は後伏見天皇からの諡(死者に贈る名)で、後醍醐天皇からは円明国師と追諡された。後深草上皇の発願により安養寺の開山となったと伝えられている。
 法量は、胴高85cm、頂~顎25.2cm、髪際~顎18.2cm、面幅15cm、面奥19.7cm、肩張り37.3cm、肘張り60.1cm、胸厚28.7cm、膝張り58.5cm、坐奥60.5cm、衣掛け80cmである。
 平成25年1月 長野県教育委員会 佐久市教育委員会  』

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  木造阿弥陀如来

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  木造伝法燈国師坐像


 武田軍は侵略した場所の神社仏閣の宝物を容赦なく持ち去る。県宝の一つ「版本大般若経」は野尻湖の琵琶島弁財天から持ち去ったものだ。野尻湖と云えば越後の国に近い。謙信にとっても信玄の侵略は人ごとではなくなっていたようだ。
 この「版本大般若経」は英多神社に納められていたという。私は安養寺の前身は英多神社の神宮寺だったのではないかと考える。大歇勇健和尚がこの地に移ってきたのは神宮寺があったからではないだろうか。そして、西念寺の本尊はこの神宮寺のものだったのではないだろうか。
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 県宝の一つに「木造伝法燈国師坐像」がある。
 現地案内板には“法燈国師は鎌倉中期の臨済宗の高僧、承元元年(1207)から永仁6年(1298)ころ、筑摩郡神林村に生まれる。”とあるが、これは1207年から1298年まで91年間生きたということで、長寿であったことを云っている。筑摩郡神林村とは今の松本市神林である。
 神林は長野県松本市の南西の地区で塩尻市に近い。昭和の大合併により松本市に編入されるまでは神林村だった。平安時代には「草茂の庄」という荘園が存在したという。近くに松本空港や松本山雅FCのホームスタジアム「アルウィン」がある。今年の松本山雅FCは調子がよくJ1に上がれるかもしれないと地元の期待が高まっているという。

 “法燈国師は後伏見天皇からの諡(死者に贈る名)で、後醍醐天皇からは円明国師と追諡された。後深草上皇の発願により安養寺の開山となったと伝えられている。”とあるが法燈国師の諡は亀山上皇から贈られたという説もある。
 覚心は亀山上皇の帰依を受け、新建の南禅寺の開山となることを求められたが、断ったという。
 南禅寺の開山(初代住職)は、同じ信濃国出身の無関普門(大明国師)がなった。
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 法燈国師は瀧仙寺の前身である瀧泉寺も創建している。
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 法燈円明国師は、亀山・後醍醐の二人から諡を贈られた。覚心は、「心地覚心」とも 「無本覚心」とも呼ばれる。覚心には京都宇多野に位置する臨済宗建仁寺派の妙光寺を開創したこと以外にも、注目される2つの事柄がある。
 一つは中国から禅宗の一つという普化宗(ふけしゅう)を導入したことだ。普化宗は9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗の一派ともされる。
 普化宗は1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わったとされる。
 普化宗と云っても馴染みはないが、普化宗は虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名だといえば分かるだろう。
 江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
 時代劇では顔が見えない円筒形の笠を被り、尺八を吹きながら旅をする怪しい僧である。時代劇で見る限り、剃髪しておらず刀を帯びている。いかにも幕府の隠密といった感じである。
 江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在であるという。戦後の1950年(昭和25年)、宗教法人として普化正宗明暗寺が再興されたという。

 もう一つは法燈国師は中国で味噌づくりの技法を学び、各地に広めということだ。覚心が中国からもたらしたといわれる金山寺味噌(和歌山県や千葉県の特産品)は、径山寺(きんざんじ)の味噌の製法を模したものと言われている。
 それ以前に日本に味噌はなかったのだろうか。
 藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は「謹啓今忽有用処故醤」、裏には「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」と書かれた木簡が発掘されている。この「豆の粒が残っている醤」がその後の日本に定着した。この未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、「倭名類聚抄」(934年頃)や「塵袋」(1264~1287年頃)という辞書に書かれている。
 この当時の味噌は、調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べられた。徒然草において、北条時頼と北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話があるが、そういう時代背景がある。大豆を原料とした調味料としては、当時は塩辛納豆が主に使われた。

 ここで注目したいのは馬寮からの木簡と味噌が関係していることだ。佐久周辺には望月牧などいくつもの官牧がある。
 覚心の孫弟子である大歇勇健は、覚心から学んだ味噌作りに佐久地方に伝わる技法を加味して積極的に味噌造りを行ったと推察される。それが信州味噌の原点になったと考えられないだろうか。安養寺には味噌に関する文献や覚心の資料が保存されているという。つまり安養寺は信州味噌の発祥の地ということになる。
 戦国時代に信濃国に味噌造りが普及したのは、武田信玄が行軍用(兵糧)として造らせた「川中島溜」以来とされる。

 信州味噌の発展を目的とした「長野県味噌工業協同組合連合会」という組合の敷地内には味噌神社があり、そこに「覚心」が祀られている。
 信州味噌は、長野県(信州)を中心に生産されている、米麹と大豆でつくる味噌(米味噌)で、淡色で辛口を特徴とする。
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    左は江戸甘味噌。右が信州味噌。

 信州味噌が有名になったのは、大正12年の関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京に向けて救援物資として送った「信州味噌」が格別な好評を得たことによる。
 その後も敗戦で灰燼と化した東京に、戦災をほとんど受けなかった長野県から品質の良い味噌を届けたのをきっかけに「信州味噌」の評判がさらに高まる。
 現在、「信州味噌」の出荷数量は年間19万トン超でシェア46%(全国1位)である。

 “手前味噌”という言葉があるが、私が幼い頃は自家製の味噌を造っていた。さすがに醤油は造れないが、味噌は地区に共同の道具があり代わり番こにそれを使い、自家製の味噌造りをしたものだ。醤油も今のようにスーパーで売っていなかった。私の家では「上の蔵」という醸造蔵から一升瓶6本セットを配達してもらっていた。ある時、母が醤油を切らしてしまい他の醤油を使ったことがあった。すぐ気づいたのは私だけであった。
 私は醤油と味噌が好きで、醤油と味噌のない国では暮らせないと思っている。醤油も味噌も塩を必要とする。その塩のルートは日本海側からだったようだ。佐久には千曲川が流れている。千曲川は塩の道でもあったのだろう。

 現在、佐久には和泉屋商店が販売している「安養寺みそ」という味噌がある。「安養寺みそ」のきっかけは、長野県味噌工業共同組合から「和泉蔵・和泉屋商店」に「信州味噌の発祥は、佐久ではないか」という話が伝わり、突き詰めていくと安養寺へとつながった。
 そこで安養寺境内の畑で栽培された大豆を使い味噌を造ろうという企画が持ち上がった。安養寺みその独自性を出そうと、通常よりも熟成期間を長くし、2年以上熟成されたみそは、塩分の尖りがなくなり、まろやかになったという。
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 「安養寺みそ」ができて5年ほど経つと、更に地域活性化の企画でこの「安養寺みそ」を使った「安養寺ら~めん」(味噌ラーメン)が2008年に開発された。「安養寺ら~めん」の定義は「安養寺みそ」を80%以上用いることが条件となっているほかは自由だという。
 「安養寺ら~めん」開発麺バー(メンバー)は、らうめん助屋・味処 八峰・めん屋佐介・麺や天鳳・げんこつ屋・麺匠 文蔵の市内の6つのラーメン店だったが、今では「安養寺ら~めん」を販売する店は約20店ほどに増えたという。「安養寺ら~めん」が喜多方ラーメンのような名物になるかは、今後の頑張りにかかっているようだ。
 ラーメン(支那ソバ)は立派な日本食である。ラーメン好きな私としても応援したいが、まだ一度も食べたことがないのが残念だ。
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 安養寺でもう一つ忘れてはならないことは、大井氏の菩提寺であったことだ。
 大井氏は信濃の守護小笠原長清の第7子・朝光の大井庄地頭職知行に始まる。小笠原長清は甲斐源氏・加賀美遠光の次男である。
 朝光は大井太郎と称し、武勇の誉れ高く1246年(寛元4年)の鎌倉幕府弓始めの一番射手を勤めた。
 大井朝光が佐久市落合の新善光寺に寄進した梵鐘は、今は松原湖畔の諏方神社にある。武田軍が奪って諏方神社に寄進したという。同じ甲斐源氏の出でも300年以上経つとほとんど同族の意識はないのだろう。
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 安養寺は大井朝光以後6代の墓所である。初代古河公方(第5代鎌倉公方)である足利成氏(あしかがしげうじ)は幼少時、この寺でかくまわれたという。
 足利成氏は(幼名永寿王丸)は佐久郡の大井持光の元で養われたという。永寿王丸の父第4代鎌倉公方足利持氏は永享の乱で敗死し、兄の安王丸・春王丸も殺された。鎌倉府も一旦は滅亡した。

 文安4年(1447)持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。紆余曲折あり最後は初代古河公方となり、鎌倉に戻ることは出来なかったが、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。

 成氏は嫡子の足利政氏(2代古河公方)に家督を譲って、明応6年(1497)9月に死去した。64歳であったとされる。臨終の際には政氏を呼び、「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる。」と言い残したとされる。(『鎌倉公方九代記』)


 安養寺は、貞治年間(1362~1368)に大歇勇健(正眼智鑑禅師)が伽藍を字光明寺に移転して中興開山となったという。大井朝光以後6代の墓所であるということは、もっと古くからここには寺があり、その寺の名は光明寺だったのかも知れない。そしてこの光明寺は英多神社の神宮寺だったのだろう。安養寺の本尊は県宝の木造阿弥陀如来ではなくて「千手観音」だという。




 今回の帰省は、4月26日に内輪の息子の結婚式があったので帰ったのだが、数日滞在して、信州の遅い春を満喫できた。神奈川に帰ったのは30日だが、例によっていろいろな所へ寄りながら帰った。
 その途中で姉から電話があった。東京の病院へ入っている叔母に最期の時が迫っているとのことだった。叔母は長いこと入院していた。
 神奈川へ帰った後、暫くして訃報が届いた。5月5日には葬儀が行われた。死に顔が美しかったので、何だか眠っているように感じてた。若く見え、私の知っている生前の叔母そのものであったことに、悲しみよりも満足感を感じてしまった。叔母は私の知っているままの勝ち気で美人のままの姿で逝った。

 姉や従兄弟たちは上京しているとき叔母に世話になったようだが、私は叔父(叔母の夫)に世話になったが、こちらで叔母に会ったことはない。叔父とは義理の関係だがよくしてもらった。この叔父と叔母は離婚していた。
 私は自分の結婚式にこの叔父を呼びたかったが、事情があり呼ぶことができなかった。当然、叔母は結婚式に出席してくれた。叔母が私に、亡くなった母に私の晴れ姿を見せたかったと残念そうに言った時の情景を想い出す。

 私の両親は長男長女の結婚であった。父の兄弟は3人健在だが、母の妹弟は一人(叔父)だけになってしまた。亡くなった叔母は母の妹弟の中で末の妹であった。祖母が体が弱かったこともあり、長女である母が叔母の面倒をみたようで、母は叔母から人一倍慕われていた。

 社交的な叔母は、店を任されていたことがあったようだ。私は行ったことがなかったが、従兄弟が学生の時友人と行ったことがあると話していた。高級な感じの店で、学生が入るのが場違いのように感じて困惑したそうだ。
 叔母とは会う機会が少なかったが、生前、叔母から聞いた話を一つ記しておく。
 叔母の店には知識人も訪れたようで、ある時、名前の話になり姉妹の名前を訊かれたという。母の妹弟は母を含め4人兄弟で女三人男一人である。姉妹の名は宥子(ゆうこ)、通子(つうこ)、逢子(おうこ)である。それを聞いた人は、あなたのお父さんは教養のある人ですねと言ったという。
 私の母の名は宥子である。“ゆるす”とか“宥める(なだめる)”という意味を含めて祖父がつけた名前のようだ。
 親が子に名前をつけるときには、字画なども気にしその名前にいろいろな思いを載せる。表意文字である漢字をつかう場合は、その字義にも配慮する。私も二人の子に名前をつけたが、その“思い”については、いつか記したい。

 叔母の名は逢子であった。叔母はどんな出逢いを繰り返したのであろう。誰と逢い、逢った人を幸せにしてあげられたのだろうか。人が幸せであったかどうかは、私が判断することではないが、曾孫にも恵まれた彼女の旅立ちはしめやかではあったが寂しいものではなかった。久しぶりにあった喪主の従兄弟がすっかり叔父さんに似ていることに驚きながら、通子叔母さんの子(従兄弟)以外が一堂に会したのは何十年ぶりだろうと昔を懐かしんだ。

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