旅 937 和霊神社(われいじんじゃ)

2016年 10月30日
和霊神社(われいじんじゃ) 

 宇和島城の後、宇和島で気になる神社があるので行ってみた。
 和霊神社は愛媛県宇和島市和霊町にある神社で、旧社格は県社。
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 この大鳥居についてパンフレットには次のようにあった。

『 日本一の石造りの大鳥居
 和霊神社の社殿は、四国でも指折りの大社といわれており、荘厳の一言。神社の正面には、太鼓橋のかかった川を挟んで和霊公園があり、石造りでは日本一の大きさといわれる大鳥居が空に向かってそびえ立っている。 』

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 須賀川には、立派な太鼓橋が架かっていた。
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 太鼓橋を渡り振り返ると、大鳥居の先に和霊公園が見えた。
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 神門なのだろうが、屋根が社殿の様であった。
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 パンフレットより
『 和霊神社
主祭神 山家清兵衛公頼命
配神  
 山家治郎命(清兵衛次男) 山家丹治命(三男) 山家美濃命(四男) 
 塩谷内匠命(家従) 塩谷帯刀命(塩谷内匠長男) 塩谷勘太郎命(次男)

没年 元和6年(1620年)6月29日 享年42歳
成り立ち
◎児玉明神 寛永8年(1632年)6月  場所・城北森安、八面大荒神社隅
◎山頼和霊神社 慶安4年(1651年)2月着手 承応2年(1653年)5月竣工 場所・城北桧皮の森
◎承応2年6月23日、24日、奉幣使、(神社史では)京都平野社預神権少副従五位下・猪熊兼吉、平野佐兵衛、(由来では)従四位卜部神祇権太夫、副使板部玄宗を迎え遷宮祭をおこなふ  

例祭日 明治42年より新暦に 7月23、24日
社地の変遷
 森安 → 桧皮森 → 向山 → 森安山
 現地遷座 享保20年(1735年)12月24日    

和霊神社由緒 (鎮座地 愛媛県宇和島市和霊町1451番地)
 和霊神社は宇和島藩祖伊達秀宗の家老山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)公の御霊をお祀りし、四季全国各地からの賽客はらくえきとして跡を絶たず、7月23、24の大祭にはその数、20万余を算え、大衆の神として崇められています。
 そもそも祭神清兵衛公は仙台伊達政宗の長子秀宗が、父の関ヶ原、大阪冬の陣の戦功によって、徳川家より宇和島藩に分封された際、父政宗が若輩秀宗の将来を案じて、自分の最も信頼する清兵衛公をその家老職に抜擢して随伴せしめられたのであります。
 当時藩主は相次ぐ領主の悪政によって、疲弊困憊し惨憺たる状態でありましたので、生来純忠篤実な清兵衛公は、よく藩主を補佐して藩費の節約を始め租税の軽減、産業の奨励、武備の充実等の政策を逐次推進された結果、民生は安定し、藩政は大いに刷新され、藩内挙げて新藩主謳歌し、清兵衛公の徳望は生き神さまの如く仰がれたのであります。
 しかし、この事は却って一部の藩士から妬まれ反感をかい、遂に元和6年6月29日の夜、彼等一味の兇刃にたおれたのであります。
 其の後、清兵衛公を敬仰する藩主藩民は心から御霊をなごめまつらんと小祠を建てて崇敬の誠を捧げて居りましたが、承応2年6月24日、山頼和霊神社として奉祀したのであります。
 爾来霊験あらたかにして神威益々発展の一途をたどりました。しかし、不幸にも昭和20年7月28日、米軍の大爆撃を受け、さしもの社殿全部を灰燼に帰しましたが、広大無辺の御神徳のもと奉賛会の赤誠により逸はやく復興にかかり、次々に社殿は建立され、今や旧に増す荘厳さと殷賑を極めて居りますことは、洵に畏きかぎりであります。 』

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 この神社は、祭神の山家清兵衛公頼の怨霊信仰が根本にあるようだ。

 元和6年6月29日(1620年7月28日)に発生した宇和島藩のお家騒動である山家清兵衛事件(和霊騒動)の犠牲者である山家公頼(通称 清兵衛)とその子たちを祀っている。

 Wikipediaには「和霊騒動」について、次のようにある。

『 宇和島藩は、慶長19年(1614年)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に10万石を与えられて成立した藩である。
 政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執った。
 初期の宇和島藩の課題は藩の支配体制を確立することであるが、宇和島は豊臣氏の時代から領主家が頻繁に入れ替わったため、領内は疲弊し藩は早くから財政難に見舞われた。
 そのため、秀宗は父政宗から6万両を借り、それに当てた。その返済は寛永12年(1635年)まで続き、初期の宇和島藩にとって大きな負担となった。
 また、元和5年(1619年)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立を起こす。
 しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は謹慎する。
 実はその前にも、反清兵衛派は清兵衛暗殺を企てて、秀宗生母・龍泉院の七回忌の法要にて、当時法要の責任者だった清兵衛を茶坊主を使って毒殺しようとしたが、これは未遂に終わっている。

 翌元和6年6月29日、雨天の深夜、山家邸が襲撃され、清兵衛と清兵衛の次男と三男、そして隣家の清兵衛の娘婿、塩谷内匠(しおのやたくみ)とその子2人が斬殺、当時9歳だった清兵衛の四男は、現・丸之内和霊神社社殿裏の井戸に投げ込まれて殺害されたが、清兵衛の母親と妻は無事だった。
 秀宗の命による「御成敗」により、桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は襲撃当日は大阪城の石垣修復に従事していた。
 秀宗はこの事件を江戸幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。これに怒った政宗は、五十七騎の一人で重臣の桑折左衛門を通じて秀宗を詰問して謹慎を命じ、幕府に宇和島藩の改易を嘆願したが、これは政宗の宇和島藩取り潰しを回避する芝居だったともいわれている。
 慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼した。彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。

 事件後、寛永9年(1632年)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し、宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神としたが、その甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の6男、長男宗實が早世、次男宗時が病没、飢饉や台風、大地震が相次いだ。
 このことを「清兵衛が怨霊となり怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は承応2年(1653年)に檜皮の森に神社を建立、京都吉田家の奉幣使を招いて同年6月23日と24日に亘って神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」とした。
 そして享保16年(1731年)に5代藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた。 』


 宇和島城のブログで、政宗が四国僻遠となった秀宗を心配して与えた五ヶ条の教訓「貞山公御教諭」について触れた。その訳文を次に引用する。

『 一、藩主として取り立ててくれた将軍家(家康・秀忠)への御恩を忘れず、お仕えすること。
  一、仕えてくれる者を大事にしなさい。但し、罪を犯した者は許してはならない。
  一、常に武芸に励みなさい。
  一、学問に励み、囲碁将棋などもたしなみなさい。
  一、家臣の気持ちをくみ取り、その考えを理解しなさい。

 右の五ヶ条の他にも言っておきたいことがあるが、あなたは分別のある人だから、詳しいことは両人に伝えておく。
  二月二七日  政宗  
    秀宗殿   』

 ここにある両人とは、志賀右衛門と山家清兵衛のことで、ここに山家清兵衛の名が出ていることは重要なことである。

 伊達秀宗は奥州の伊達政宗の長庶子として1591年(天正19年)陸奥国で生まれた。1594年(文禄3年)4歳のとき大坂城に人質となり2年後慶長元年、秀吉のもらい子として元服し、「秀」の字を授けられ秀宗と称した。
 政権が徳川氏に移ったのち徳川氏の人質となり、1609年(慶長14年)彦根藩主井伊直政の娘、亀を夫人にし、1614年(慶長19年)12月に宇和島10万石に封じられ、翌元和元年3月に25歳で入国した。
 秀宗は宇和島に入るにあたり桑折(こおり)左衛門を後見人に、桜田玄蕃を侍大将に、山家清兵衛を総奉行にして政治を行った。1620年には和霊騒動が起きたとされる。
 1657年(明暦3年)第3子の宗利に封を譲り、第5子の宗純に吉田3万石を分知した。翌年68歳で江戸で没した。

 山家氏はもと、出羽国山本庄山家村出身で、その祖は山形城主最上家の家臣であったが、永禄7年(1564)、最上義守の娘義姫が米沢城の伊達輝宗(政宗の父)の許にとついだ際、清兵衛の父・清左衛門公俊は、その付人として伊達家の家臣となり、禄50貫(約500石)をあてがわれた。義姫は最上義光(よしあき)の妹であり、伊達政宗の母である。最上義光と義姫は仲の良い兄妹で、手紙のやりとりをしていた。その手紙から最上義光の名が「よしあき」と読まれることが分かった。

 伊達氏がその本拠を仙台に移すと、山家清左衛門公俊の子清兵衛は仙台藩の民政・財政面を担当し、算用頭のひとりとして家臣団の知行割を行ったり、気仙・東山両郡の伝馬判算用差引の職を勤めた。山家清兵衛は伊達家の財政官僚といった役回りであったようだ。
 
 立藩にあたり、秀宗は父政宗から6万両を借りた。清兵衛は秀宗の入部費用として政宗からかりた借金の支払いについて10万石の内3万石を割いて、政宗死去まで、その隠居料として贈ることを提案して採用された。しかしこの問題はただちに、家臣団の知行削減につながる性格のものであったので、清兵衛反対派を結集させるもととなったようだ。
 
 秀宗は父への甘えもあり借金について甘い認識があったようだが、清兵衛は財政官僚の立場からも「借りたものは返す」という当たり前の感覚があったのだろう。それが、宇和島の秀宗よりも宗家である仙台の政宗を大事にしているようにも捉えられ、清兵衛反対派にも影響され、清兵衛を疎んじるようになっていたようだ。そして和霊騒動(山家事件)が起こった。

 宇和島藩は山家事件に関する書類を残しておらず、むしろ仙台藩に多く残されているそうだ。仙台藩「伊達家文書」にも「与州山家清兵衛方御成敗二付而」(元和六年十月十四日付け)とあって、清兵衛公頼は、藩主伊達秀宗の密命によって暗殺(上意討ち)されたことは今日、ほぼ定説化してきた。
 この襲撃については「御仕置」「御成敗」という言葉が用いられていることからも、秀宗の密命による上意討ちと考えられている。

 宇和島藩庁史料に明治10年代後半ないし20年頃成立の『伊達家御歴代事記』がある。ここには山家の暗殺について「元和五年 山家清兵衛死ス」と単に記されているだけだが、「秀宗公御附侍名元并五拾七騎名元」によると、山家支持派とみられる人物について次のように記している。渡瀬太郎兵衛は「清兵衛一義二付欠落」、峯金二郎は「清兵衛内儀ノおい御成敗」とか、渡瀬太郎兵衛・小間木弥(駒木根)主膳はともに「清兵衛一儀ニ付欠落」とあって、山家事件における関係者の処断がきわめて厳しかったことが間接的に知られる。
 山家事件の原因や真相は明らかでない部分が多いが、何れにしても周囲の人に清兵衛が恨みを持って死んでいったと認識されるような暗殺劇であったようだ。


 和霊信仰は、御霊信仰(怨霊信仰)のひとつに数えられているが、御霊は崇りをなす人間霊のことで、とりわけ恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。
 古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王(崇道天皇)などは亡霊になったとされる。
 最初の御霊会では、崇道天皇、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣) の六人が祀られた。後に、井上皇后、他戸親王、吉備内親王、火雷天神などが祀られた。

 有名なのは菅原道真と崇徳上皇である。
菅原道真は北野天満宮などに祀られ、全国的にもその信仰は広がった。
崇徳上皇の御霊も天皇家において永く恐れられ、明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。 昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。


 御霊も篤く祀ることにより、その強力な霊力が祀る人を守護する霊になるとも信じられてきた。
 菅原道真などは御霊から後には“学問の神”に変わっていった。これは御霊としての荒魂(あらみたま)が、天神さまとしての和魂 (にぎみたま ) に変わった例である。

 祟りをなした山家清兵衛公頼の御霊(荒魂)も、篤く祀ることによって和霊(和魂)に変化したと考えられる。これは鬼から神への昇華であり、本来威力あるものとしての鬼と神は同義でもあった。


 それにしても、右大臣まで上った菅原道真が御霊(怨霊)となり、その後、神として祀られるのはまだしも、宇和島藩の家老とはいえ10万石の一家臣が御霊となり、後に神となることが異常な感じがしないでもない。その信仰圏が宇和島近隣までならばまだ分かるが、四国・九州・中国地方一円に拡大しているということに驚かされる。
 私は関東圏の者なので、和霊神社のことはよく知らなかったが、西国では有名らしい。また、この地域は古くから御霊信仰や若宮信仰が根付いていたという土壌があったようだ。

 しかし、私は菅原道真の御霊が為政者や宗教関係者に利用されて祀られたように、この和霊神社にも同じようなことを感じる。


 残された資料から、山家清兵衛公頼が神として和霊神社に祀られるまでの経緯を見てみる。

 山家事件(1620年)後、重臣達が不慮の事故で相次いで死亡し、伊達秀宗も病床に伏す。これらは 「 山家公頼の祟りである 」とされ、秀宗は怨霊を鎮めるために、山家邸の跡地に和霊神社を創建 (これが現在の丸之内和霊神社)し、山家公頼の霊を慰めたという。

・寛永4年(1627)、檜皮杜創建(串宇遺稿)

・寛永8年(1631)、領民は城北森安の八面大荒神の社隅に小祠を建て、児玉(みこたま)明神と称し公頼の霊を祀る。(現在の城北中学校敷地内。現在も入らずの森として残っている。)
『鶴鳴餘韻』に「小祠を城北森安なる八面大荒神の社隅に営み、兒玉明神として祭祀し……」とある。

・承応2年(1653)6月24日(後世この日を祭礼日にあてるようになる)、檜皮杜に山頼和霊神社を創建。(和霊神社棟札・御年譜微考・伊達家御歴代事記)
 伊達秀宗は京都奉幣使を迎えて盛大な祭典を行い、檜皮杜に社号・山頼和霊神社を建立した。
 この時の祭典は、山家死後三十三年の周忌にあたり、仏(ほとけ)から神になる弔上げ(といあげ・とむらいあげ)を意味するものと考えられる。
 これ以降、宇和島藩の和霊神社への関わりは深く、秀宗の個人的な清兵衛の忠誠に対する追思によるというより、領民が清兵衛を祀ったことを利用して地方知行制の廃止など藩制初期の政治体制の変革によって起こった不安・不満を山家の霊(八面大荒神でもある)への篤い奉りで解消しようとしたようだ。

・享保13年(1728)5月22日、京都吉田家から和霊大明神の神号が許された。

・向山、森安山と移転を経て、第4代藩主村年の代の享保16年(1731)3月27日、「和霊社勧化を以造営在之ニ付、小関兵右衛門右奉行被仰付候事」となり、鎌江城跡の一角に社地が再びうつされ、現在に及んでいる。

・明和6年(1769)、天祥院(祭神)が150年忌につき、大通寺の願で、大通寺・和霊社前に流れ灌頂を行ったとき、綿五把が社に与えられた。

・山家佐織は、天明元年(1781)伊達村候からその諱(伊織)の一字「織」を与えられた。
 宇和島藩における寛保~宝暦期の藩政改革を行った村候(むらとき)は、その思想の根本において士道の高揚を考えていたので、この意味で凶刃に倒れながらなお、「霊、君辺を退かず、随身の情を懇切に顕わす」清兵衛を、祭神として顕彰しようとした。
 こうして、和霊神社は菅原道真の天満神社の信仰と同系統のものとして合理化され、武士階級のなかへ浸透していった。
 伊達村候の奉納した歌に次のようなものがある。
『 あふぐぞよ、この松山に宮居して
  ゆくすゑ守れ やまより(山頼)の神 』

・明治6年(1873)郷社、大正8年(1919)県社、昭和28年(1953)には神社本庁の別表神社に列している。



 どうも和霊神社の経緯を見てくると、領民も藩主も「山家清兵衛公頼」の霊を利用したようだ。
 領民は「山家清兵衛公頼」の霊を利用して、自分たちが信じる八面大荒神を公に祀ろうとしたようだし、藩主は「山家清兵衛公頼」の霊を利用して、その信仰を政治や藩士の忠信に活用したようだ。

 度々の社地の移動(遷座)により、そのたびに社殿が大きく立派になったという。それは参拝者が多くなり社域が狭隘になったためという理由のほか、大地震・大旱魃・虫害・大風雨と並行して遷座していることから、これら天変地異の多くが山家清兵衛の崇りとみなされ、その霊をより篤く祀ることにより領民の不安を解消しようとしたようだ。
 御霊信仰や若宮信仰は「初期の若々しい信仰状態」を保つことが重要とされ、少なくとも領民にとっては度々の遷座が「山家清兵衛公頼」の霊に託けた八面大荒神の祭と見られたのではないだろうか。そしてその祭は藩主により主導された。

 しかし、菅原道真の天神信仰のようにその御霊信仰的側面は漸次うすらぎ、守護神信仰へと傾斜する経過をたどった。
 和霊信仰の発達につれて、その守護神信仰としての性格を強めていったことは、和霊神と八面大荒神の関係の上にもうかがえる。宝暦10年(1760)の調査によれば、八面大荒神が和霊神社の下村末社として記述されており、和霊社創立期での主客関係が逆転していることが分かる。
 その契機は享保13年に、京都吉田家から和霊大明神の神号が許されたことであろう。

 私は菅原道真の先例に倣い、宇和島藩が「山家清兵衛公頼」の霊を上手く使ったのではないかと考える。
 菅原道真の霊を上手く使ったのは藤原氏(中臣神道)である。宇和島伊達氏は京都吉田家(中臣神道)から和霊大明神の神号を賜り、御霊を守護神に替えた。
 宮田登は「人間神に神号が与えられることは、崇りという思惟構造が、恵みを与える、つまり民衆の欲求に応じた霊能を示すという観念にとって代わる、つまり崇りの克服という過程を明示する指標と考えられる。」という。

 和霊神社の祭は宇和島藩により主導され、和霊神社のパトロンは伊達氏であったから、やがて八面大荒神の名は陰に隠され、「山家清兵衛公頼」が前面に祀られることになった。

 しかし、八面大荒神の古い記憶は「牛鬼まつり」に反映されているように感じる。
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 これらは、どう見ても「山家清兵衛公頼」の霊とは関係ないであろう。


 八面大荒神とは、どんな神なのであろう。
 宇和島藩が行った和霊神社での祈祷内容は、雨乞いなど若干例を除くと、ほとんどが、病気回復、流行病除去であったという。このことから考えると、八面大荒神は牛頭天王(スサノオ)のような神であったのだろ。


 円空の彫った30cmほどの「八面荒神」の像がある。十一面観音のように、頭にいくつもの顔を持つ。八面で全ての方向に睨みをきかせているようだ。
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 円空の「八面荒神」には、次のような解説があった。

『 総高26.3cm。左右対称で肩布を乗せ膝上で宝珠を持つ威厳に満ちた像です。寛文5年(1665)頃、北海道へ旅立つ前の作と推定されています。
 円空仏はおしなべて、人を慈しむようなほほえみをたたえているのが通例です。しかし、この荒神像の彫りの深い、するどいまなざしと、きりっと結んだ口元からは、他の円空仏に見られない厳しさと、近づき難い表情がうかがわれます。
 荒神は非理非道を罰したり、教えの法や伽藍を守る神で竈の神としても知られています。 』


 和霊神社では境内神社を確認しなかったが、日尾八幡神社(田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、誉田別命)、三光神社(大己貴命、少彦名命、猿田彦大神)、春信神社(和霊大明神)、日吉神社(大山咋命)、竈神社(奥津彦命、奥津姫命)、山本神社(大物主命)があるようだ。

 和霊大明神が春信神社に祀られているのが気になる。また、八面大荒神は現在の竈神社のようである。
 円空仏の解説に、“荒神は非理非道を罰したり、教えの法や伽藍を守る神で竈の神としても知られています。”とあるのに一致するが、祭神が奥津彦命、奥津姫命であること気になる。
 宇和島の八面大荒神は、この地の男女地主神であったのかもしれない。
 昭和44年には祭神逝去350年式年大祭を斎行し、その年の12月18日(旧霜月初卯)竈神社復興第1回例祭を執行し、同日崇敬講社を設立し、爾来毎年4月24日を講社祭日に決定していることからも、竈神社は重要な境内末社であることが分かる。



 和霊神社に祀られている山家清兵衛公頼が誅殺された「和霊騒動」は本当にあったのだろうか。

 明治以降、和霊さま伝承は文学の領域から芸能及び神道学説へと吸収されていったようだ。
 河竹黙阿弥の高弟の勝諺蔵(のちに能進)が、大阪に来て最初に発表したのが、歌舞伎「宇和島騒動」で、明治6年に筑後の芝居(今の浪花座)で初演された。
 これは神社の縁起を脚色した一日がかりの通し狂言で、蚊帳にくるまれて惨殺される山家清兵衛と、奴の胴助の早変わりや最後にちかい養老滝での大立ち回りが評判となり、以後大正10年まで上演された。
 屋敷に踏み込んできた暗殺者たちに対して清兵衛は我が子をかばうため反撃するが、暗殺者たちは蚊帳の四隅を切り落とし、まるで網にかけた獲物のごとく蚊帳の中でもがき苦しむ清兵衛を刺し殺したとされる。
 この「宇和島騒動」の種本は、和霊宮霊験記のひとつ「予州神霊記」もしくは淡路人形芝居の「宇和島天神記」「二名島女天神記」あたりであるとみられる。
 また、昭和34年には秩父重剛原作の浪曲「士魂の故郷」が浪花家辰造によってNHKで上演放送された。

 宇和島の子供たちは蚊帳を吊る季節になると両親や祖父母から和霊伝説を聞かされ、襲撃日の当夜のみは蚊帳を吊らないという風習を行ったが、蚊帳の普及は近代であり、風習自体も最近のものであるが、蚊帳の流行が廃れつつある現代では、この風習も語られなくなってきている。
 
 つまり、和霊騒動があったとされる1620年頃には蚊帳はなかったので、歌舞伎「宇和島騒動」は全くの創作である。また、清兵衛が亡くなったのも42歳の厄年であることが気になる。

 1986年(昭和61年)頃の愛媛新聞に、当時の山家家・桜田家の当主の「そのような伝説は聞いたことがない」旨の発言が掲載され、史実との対比が話題となったという。

 清兵衛の死は、何らかの理由で異常なものであったのかも知れないが、当事者の山家家・桜田家が現在も存在することは、藩主の命によって誅殺されたということは史実ではないのかもしれない。
 清兵衛の死はその異常さ故に、領民や藩主に利用されたという可能性がある。山家清兵衛公頼の末裔が存在するのに対して、高知藩の野中兼山の子孫が根絶やしにされたのは非情な行為であった。
 宇和島へ来る直前に、宿毛で野中兼山遺族の墓に参った後だけに一層その悲惨さを感じた。



 高知県だけでなく四国では坂本龍馬は英雄である。
 和霊神社のパンフレットにも、坂本龍馬のことが触れられていた。

『 和霊神社と坂本龍馬
 文久2年(1862)3月24日、坂本龍馬28歳のとき、高知市神田に鎮座する和霊神社に「花見に行く」と言って参拝し、そのまま国抜け(脱藩)した。この和霊神社は、才谷屋3代目「八郎兵衛直益」が宝暦12年(1762)に伊予・宇和島の和霊神社から分霊を勧請してできた屋敷神である。
 神社は龍馬の生家「才谷屋」があった高知市上町一丁目から約3.5kmの距離に位置し、県道37号高知春野線を南に下り、高知銀行神田支店横の交差点を南に約800m下って、鳥居を抜ける石段を50m程上がった山の右手にある。
 毎月3月24日には地元の人々が脱藩祭を行っている。平成14年3月、宇和島に鎮座する和霊神社(当社)に「龍馬脱藩百四十年・和霊神社分霊社創建年記念」の標柱が宇和島市史談会の手により境内地に建立された。 』


 一説には、才谷屋3代目八郎兵衛直益が、山家清兵衛の詠歌「山家初冬」を知り、いたく感動し、守護神を「和霊神社」としたという逸話が残っている。

『 山家初冬
 やまざとは きのうのあきのいろもなく
   しぐれもよおす そらぞさびしき 』

 訳
「 藩主秀宗と私(山家清兵衛)の関係は、秋の山のもみじように真っ赤で華やかな関係だったのに、どうして今は寂しい関係になってしまったのだろう 」



香川県東かがわ市松原に鎮座する白鳥神社の宮司は代々猪熊家が継いできた。白鳥神社の初代神主には1665年に占部兼古(猪熊千倉)が迎えられた。
 占部家(後の猪熊家)は古くから朝廷で亀卜をつかさどり、平安時代から神祇官に仕えた由緒ある神道家で、当地来住にあたり高松藩主松平重信(徳川光圀の兄)から神社の右隣に大邸宅を与えられた。
 初代宮司の兼古は国学、神典に精通しており、承応2年(1653)の宇和島の和霊神社の創建にも参画した。
 延宝元年(1673)正月、隠居した松平頼重は聴徳院において、神書、仏典、儒書などを聴講しているが、兼古は講義初日の講師として招請せられ、『日本書紀』を講義した。

 吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者である吉田兼倶(かねとも)は、卜部兼名(占部兼名)の子である。和霊神社の創建には、京都の吉田家も含め、有力神道家が協力しているようだ。そして、現在では八面大荒神の祭祀は表面から消えている。

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