旅 938 2019年 5月末~6月初めの旅 概要(1)

2019年 5月末~6月初めの旅 概要(1)

 5月22日、23日に恒例のテニス合宿があり、修善寺へ行った。
 当初の予定では合宿は21日、22日であったが、参加者の都合により一日ずらしたのが当たり、天気は上々であった。私も晴れ男だが、このテニスのグループには強力な晴れ男がいるようだ。
 都合が悪く一日ずらすことを要求した当人は、親の介護のことでケアマネージャーさんとの話し合いが急遽入ってしまい、結局参加できなかったので、彼が晴れ男ではないようだ。

 私は一足早く出発して、静岡県を少し廻ってから合宿に合流する計画を立てたが、屋久島で記録的な大雨を降らせた雨雲が東に移動して来て大雨になる予報が出ていたので、計画を変更して合宿の後で短い旅をすることにした。

 屋久島は屋久杉の自生林などがユネスコの世界遺産に登録されていて観光客が多く、大雨で下山できず一夜山中で過ごすことになったが、翌日全員無事に救助されたことは幸いであった。


 大雨が去った5月22日から、テニス合宿を兼ねて短い旅に出た。最近は旅に出るのも億劫になり、テニス合宿などの機会に託けて重い腰を上げる状態である。
 前回の旅も秋のテニス合宿の後、琵琶湖周辺まで足を伸ばしたものであった。
『旅855 2018年 秋の旅の概要』

 旅に出るのが億劫になったのは年齢のせいばかりではなく、日本の“神まつり”について不条理を感じ出したことや、歴史という過去への旅にも空しさを感じ始めているからであろう。また、旅の記録が2年遅れになり滞っていることも原因の一つである。

 重い腰を上げて短い旅に出てみると、それなりに成果があり、旅の最中は空しさが少し解消できたことが救いである。


 訪れた場所の詳しい記録は後日となるが、例によって概要だけはまとめておく。


5月23日(木)

 午前中でテニスを切り上げ、ゆっくり温泉に入ってから三島市一番町にある楽寿園(らくじゅえん)へ行った。令和の旅が始まった。

 楽寿園は、静岡県三島市が運営する有料の公園で、動物園もある。JR三島駅のすぐそばに、このような大きな公園があるのは市民の憩いの場として相応しいと思うが、有料(300円)で開園時間が9時~17時なのは排他的な感じもする。(年間入園券は1000円)
 場所がいいだけにホームレスのたまり場になることを避けての開園時間の設定であろうか。
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 現在の楽寿園のある場所は古くは小浜山と呼ばれ、愛染院(廃寺)、浅間神社、広瀬神社の社寺域であった。
 1890年(明治23年)、小松宮彰仁親王の別邸として造営され、彰仁親王の没後、1911年(明治44年)に韓国王世子李垠の別邸となり、昌徳宮と呼ばれた。
 1927年(昭和2年)、伊豆出身の資産家・緒明圭造へ売却。1952年(昭和27年)には三島市が購入し、同年7月15日から市立公園として一般公開した。
 1954年(昭和29年)には小浜池(こはまがいけ)と周囲の自然林・植生を含む庭園が国の天然記念物および名勝に指定された。
 楽寿園の地形をつくる「三島溶岩」は、下層部が約1万7千年前、上層部が約1万500年前の富士山の噴火で流出したもので、この三島溶岩流は露頭している。
 2012年(平成24年)9月24日、 伊豆半島ジオパークのジオサイトとして指定された。


 私が楽寿園を訪れたのは、ここが嘗て“愛染院(廃寺)、浅間神社、広瀬神社の社寺域であった”からである。
 ある意味で楽寿園の地は、伊豆国一宮で総社でもある三嶋大社の一部であったとも考えられる。それは、三嶋大社の社僧として愛染院(別当)、大徳院・竜宝院・法正院(役僧)の4子院があり、その一つである愛染院がここにあったことから推察される。

 三島大明神には遷座伝承があり、三宅島富賀神社 → 白浜海岸白浜神社 → 大仁町広瀬神社 → 三島市三島大社 と遷ったという。国府のあった現在の社地、三島に遷った(分祀された)のは平安中期以降と考えられている。


 楽寿園には現在、愛染院(廃寺)、浅間神社の跡は見られないが、広瀬神社は祀られている。
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 広瀬神社については、後日「楽寿園」のブログで考えてみたい。



 楽寿園の後は、妙法華寺へ行った。ここには徳川家康の側室である養珠院(お万の方)と両親の供養塔があるので参った。
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 妙法華寺の前の道は箱根に上がる国道1号線に通じているが、旧東海道はここを通っていたのかもしれない。



 妙法華寺の後は、今日の宿泊地とした道の駅「富士川楽座」へ向かった。

 道の駅「富士川楽座」は、河口に近い富士川の西岸に位置し観覧車もあり、東名高速道路のSAとも繋がっていた。
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 平維盛が率いる平家軍がほとんど戦わずに逃げ帰ったという「富士川の戦い」の古戦場は、ここより5~6km東の富士市依田橋町辺りだとされるので、1180年頃の富士川はだいぶ東で駿河湾に注いでいたのだろうか。
 武田信義らは富士川をここまで下って、富士川の東岸に布陣したようだ。

 頼朝は伊豆で挙兵したが、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵した。それぞれ別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており、「富士川の戦い」の時点では甲斐源氏は頼朝の指揮下に入っていなかったというのが、最近の歴史学者の通説になっている。

 この時点では、甲斐源氏や木曽義仲(源義仲)は源氏の有力な旗頭で、頼朝のライバルになり得た。しかし、関東の多くの武士を糾合できた頼朝の勢力は、徐々に甲斐源氏や木曽義仲を圧迫し、甲斐源氏はやがて頼朝の傘下に入る。その後も甲斐源氏は頼朝のライバルになり得るので、ずいぶん頼朝にいじめられている。


 富士川は、最上川、球磨川と並び、日本三大急流の一つと数えられ、増水時には激流となって流れる。
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 もっとも日本の河川は、外国の大河と比べるとどれも急流で、ゆるやかに流れる大河を見慣れた外国の人は「日本の川は滝のようだ」とも形容する。

 富士川は身延線が開通するまでは通船でも栄えた。



5月24日(金)

 道の駅「富士川楽座」は、東名高速道路のSAとも繋がっていることもあり、朝食はSAで食べることができた。

 道の駅「富士川楽座」の近くには富士川橋が架かり、東岸に水神社があったので寄った。
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 この富士川橋は江戸時代の富士川渡船場の跡に架けられた橋であるようだ。朝の通勤の車で混んでいた。
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 静岡県富士市岩本にある実相寺に行った。
 実相寺で、日蓮が1258年(正嘉2年)から1260年(正元2年)まで、ここの経蔵に入り一切経を閲読し、「守護国家論」「災難興起由来」「災難対治抄」などを著し、後に鎌倉でそれをまとめて「立正安国論」を完成させたという。また、日興という弟子を得て、実相寺は天台宗から日蓮宗に改宗された。
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 日興は日蓮宗六老僧の一人である。六老僧とは、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持のことである。

 日蓮の死後、富士地区には鎌倉末期から南北朝時代にかけて、大石寺、北山本門寺、妙蓮寺、西山本門寺、小泉久遠寺の富士五山が建立され、身延山から富士川流域にかけて、熱心な日蓮宗の地盤が築かれた。

 実相寺では、墓参りに来ていた地元の人に観光地図を頂いた。その人の勧めもあり、曽我兄弟の旧跡や富士五山を訪れることにした。
 また、観光地図によると山本勘助の生誕地も近くにあるようだ。



 富士宮市西山(旧富士郡芝川町西山)にある西山本門寺には、織田信長の首塚があった。
 旧芝川町は、同じ町内で2つの電力会社の管轄エリアに分かれている。東京電力は 50Hzで、中部電力は60Hzである。電力はおよそ富士川で50Hzと60Hzに分かれるが、およそ大井川ではアクセントが関東系と関西系に分かれるという。
 地質では糸魚川 ― 静岡構造線の活断層で列島が断ち切られ植生も幾分違うと言われるが、弥生時代の稲作の普及も静岡県付近で停滞し東へ伝わるのが100~200年ほど遅れたという説もある。

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 境内で草取りなどの掃除をしている婦人にいろいろ尋ねてから、本堂の裏にある織田信長の首塚へ行って戻ると、車のフロントにペットボトルのお茶とパンフレットが置かれていた。お礼を言って、また少し話した。
 この寺は由緒ある寺だが、今は住職は千葉県に住んでいるようで、この婦人が寺の管理を任されているようだ。



 富士宮市下条にある妙蓮寺は門前にいくつもの塔頭があった。
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 富士宮市上条にある大石寺(たいせきじ)には、五重塔を目的に行ったのだが、その境内の広さと大講堂や奉安堂の大きさに圧倒された。
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 後で聞いたのだが、創価学会が関係しているようだ。
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 三門の改修工事が行われていた。覆われた建物から想像してもかなり大きい。
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 三門の工事期間は平成27年4月27日~平成32年12月31日とあったが、平成32年は令和2年となる。
 令和3年が日蓮聖人の生誕800年で、それに間に合うように工事が進められているようだ。



 富士宮市北山にある北山本門寺を訪れると、ここにも嘗て五重塔があったようで模型が展示されていた。
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 富士五山のうち残るは小泉久遠寺だけとなったが、ここは後日寄ることにして、東京農大の牧場へ向かった。途中にある観光牧場でもある「まかいの牧場」の駐車場は混んでいた。


 東京農大の牧場は私にとっては思い出の場所である。 逗子市 の小学校に勤務していたとき、何度かキャンプでここを訪れている。
 逗子市では東京農大と契約して小学校5年生のキャンプの場所としてある期間この施設を借りていた。しかし、それもかなり前のことで今では別の場所でキャンプをしている。
 
 二十数年ぶりで訪れたが、宿泊棟はそのまま建っていた。
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 宿泊棟の後ろに見える山が、毛無山(1945m)である。
 確認のために、通りかかった人に「あれが毛無山ですか?」と尋ねると、ここの者ではないからよく分からないと言ったあとに、「俺の髪の毛が薄いので、尋ねたのか?」と笑いながら応えた。
 児童を林間学校(キャンプ)に連れてきていた頃とちがい、私の頭も既に“毛無山”である。
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 林間学校(キャンプ)は夏休み前の梅雨のシーズンで、雨にたたられキャンプファイヤーができないことが多く、その時は小さな体育館のような建物でキャンドルサービスを行った。
 その建物も健在であった。私が初めてキャンプファイヤー(キャンドルサービス)マスターをやったのもこの建物である。
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 何年も前なのに変わらない風景に出合えて懐かしさが一気にこみ上げた。
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 ここから上九一色村にあったオーム真理教のサティアンが目視できたのだという。私は見ていないが、あれは何だろうと思って見ていた人もいたと聞いたが本当だろうか。
 そのサティアンでサリンを製造していたのだろうか。知らぬが仏と言うが、知らなかったとはいえ、子どもたちを危険な場所に連れてきていたわけだ。

 1995年(平成7年)3月20日に東京で地下鉄サリン事件が発生した。滅多に東京へ出ることのない私だが、数日前にこの地下鉄を利用して赤坂日枝神社へ行っている。
 2012年12月2日、笹子トンネル天井板落下事故のときも、数日前にそこを通過している。ニアミスで済んでいるが、私の人生ではときどきこのようなことがあり、守護霊なるものがいて守ってくれているのなら幸いである。

 オーム真理教の裁判で死刑囚になった人たちの死刑も執行され、上九一色村の名も合併などで消えたが、地下鉄サリン事件の被害者の苦痛は終わらない。


 案内所で毛無山の山麓を通り、猪之頭奥林道で富士川沿いの下部温泉に抜けられるか訊いてみた。案内所の人もこの道を通ったとことがないという。ネットで調べてくれたが、不通ではないようだ。

 もうここを訪れることはないだろうと考えながら、思い出に鍵をかけるような気持ちで牧場をあとにした。

 カーナビにも載っていない道だから覚悟はしていたが、峠に向かって上るほどに、舗装はしてあっても路面には砂や石が散らかり道も狭くなっていった。幸いにも対向車は峠付近で一台あっただけで、バイクは2台ほどすれ違っただけであった。もちろん「落石注意」の標示はいくつもあった。

 峠付近でパラグライダーの離陸地があった。
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 峠の「湯の奥猪之頭トンネル」を抜けると静岡県から山梨県へ入る。“湯の奥”は山梨県側の地名で、“猪之頭”は静岡県側の地名である。山梨県側の“湯の奥”とは下部温泉の奥という意味であろう。湯之奥に金山があったことは後で知った。
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 山梨県側の方が道路状況は少しましであった。
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 下部温泉まで下ってきた。
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 下部温泉は“信玄の隠し湯”の一つとされるが、歴史は古い。私は昔バイクでここを訪れ入浴したことがあるが、源泉の温度が33度ぐらいしかなく、ぬるくて温泉といった感じがしなかった。
 泉質はアルカリ性の単純泉で、微量だが水硫化物の溶存があり、傷の治療に利用されるという。甲府に住む友人も、スキーで骨折したときにJR身延線で通ったと聞いた。彼はサーフィンをやるが、骨折に懲りたのかスキーはやらない。

 下部温泉の起源は景行天皇の頃、甲斐の国造塩海足尼(しおみのそこねお)が国内巡視の際に霊湯を発見し、その姓をとって塩部(下部)と名付けたのが起因だと言われているが、伝説の域を出ない。


 JR身延線の下部温泉駅で休憩して、西山本門寺で頂いたお茶を飲んだ。
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